#15 Devil
「ドアを『魔法』のように閉める方法ねえ…」
馴染みのバーで、杏子は頬杖をつきながら、ブランデーが注がれたグラスを手の中でくるりと回した。私はカウンターに肘をかけて、彼女の顔を覗き込む。
「そういうマジックやったことある?」
「手を触れないで勝手に閉まる扉か……、マジックとしてはやったことないわ。舞台装置で見たことはあるけど」
「それって……」
「自動ドアよ」
私は溜息をつくと、いま入って来たばかりのお店の扉を見つめる。虹色のステンドグラスが鮮やかに輝いている。
「ドア以外の仕込みは大丈夫そうなの?」
「え?」
「いや、さっきの話だと、そのドアが重くて上手くいかないって話だったわよね。最悪その仕込みは諦めるとして……、他のを重点的に練習した方がいいんじゃない?って思うんだけど」
杏子の言うことはもっともだ。部下の若宮も同じような提案をしてきたが、私自身どうにも踏ん切りがつかずにいた。
「ううん……」
「どうしてもやりたい理由があるの?」
「理由ってほどじゃないけど、気持ちの問題かな」
「気持ちの問題?」
このドアの仕込みは、プレゼン冒頭に行う予定だ。社長や他の幹部たちの心を掴むための、大事なファーストインプレッションである。そしてそれ以上に、このプレゼンを行うに先立って、自分の気持ちを高めるための発奮剤でもある。最初の滑り出しはしっかりしておきたい。自信を持って仕込みを成功させ、幸先良いスタートを切りたいのである。
「ま、アンタがそう言うんなら、アタシもその気持ち、否定はしないけどさ」
「杏子……」
「そうだ。美佳、ちょっとこれ見て」
杏子はそう言うと胸ポケットから一枚のコインを取り出した。縮れた髪にスッと伸びた高い鼻、古代ギリシャ人みたいな外国人の横顔が彫られた、外国の硬貨だ。
「これをこうするでしょ……?」
杏子はコインを右手に持ったまま、その手を左手の上に覆いかぶせ、そのまま左手でコインを握った。左拳を私の前に突き出し「いくよ」と言って、右手で左腕の裾を捲りながら、左拳を一気に開いた。
「あ、れ……? コインは?」
右手から左手に移ったはずのコインが消えていた。
いや、待て。そうか、右手を左手に覆いかぶせた時、コインを右手から左手に移したように見せて、本当は右手に持ったままにしていたんだ。最初から何も握っていない左拳を突き出してたんだ。
「それ! そっちの右手見せて!」
私は左腕の裾を捲る杏子の右手を掴んで、その拳を開いた。
「え…? こっちじゃないの?」
右手にコインはなかった。杏子は両の手のひらを、ひらひらとしてみせる。コインが消えてしまったと言いたいらしい。
私はやけになって彼女の全身を舐めるように見る。彼女の両手はずっと私の視界にあったのだから、この体のどこかに隠されているのだ。どこかに……。
ふと杏子が視線を落とした。
「あっ! もしかして…」
私は彼女の胸ポケットに手を伸ばすと、その入り口を開いた。
コインはそこに入っていた。私は嬉々としてそれを取り出し、手に取ってよく見る。間違いなくさっきの『外国人の横顔のコイン』だ。そうか、袖を捲るフリをして胸ポケットに入れていたんだ。
「なんだ、こんな所に隠してたんだ……。完全に騙された。さすが杏子」
「美佳、それ最初に見せたコインじゃないよ」
そう言うと杏子はコインを握る私の拳を片手に取り、もう一方の手で指を鳴らした。何かを企む彼女の瞳をじっと見つめ、おそるおそる拳を開いた。
「ええ……?」
私が握っていたのは、角が生え、牙を突き立てた『悪魔の横顔のコイン』だった。
「え? あれ? なんで?!」
「ビックリした?」
「いや、ホントにすごいよ! なんで? どういう仕組み?」
興奮する私を、杏子は両手で制し、一言。
「あなたに魔法の夢を―――Cherry.Kと申します」
彼女はそう言って、器用に片目を閉じてウインクをした。
「え……すご……、本物のマジシャンみたい」
「一応、自称マジシャンなんだけど」
「さすがだよ、杏子」
「ありがとう。ただ、なんで私、急にこんなことしたと思う?」
「何で……?」
杏子が人差し指を突き立てる。周りの客に聞こえない声量で静かに答えた。
「観客が、マジックを『魔法』と錯覚する仕組みを教えたかったのよ」
「……どういうこと?」
「人間はね、自分の常識で図れない物事に対して、それ以上考えない生き物なの。常識からつまはじきにされた物事が『魔法』という言葉に集約されてしまうの。美佳は順に私のタネを紐解いて、コインの在処を突き止めた。ここまでは美佳の頭にある常識の範疇でしょ。じゃあ、最終的に自分の手の中のコインが別のコインに変わったとき……、どう思った?」
私は目の前でコインが消えるわけがない、その一心で彼女の右手から左手、そして胸ポケットへと自分の思考を巡らせた。最終的に自分の手に渡ったコインを握って、私はそれが本物であることを確認した。しかし、それは本物のコインではなかった。常識で考えれば、それが何かのタイミングで別のコインにすり替えられたと考えるのが普通だろう。だが私は確かにそのコインを握っていて、手のひらにずっとコインの感触があった。すり替えられた感触などない。でも実際に『外国人の横顔のコイン』は『悪魔の横顔のコイン』に変わっていた。これを、『魔法』と言わずして何と言えばいいんだろう?
「どう? 考えるのをやめたんじゃない? 『魔法』ってことにしたくなったでしょ」
「そう、かも」
私は悪魔のコインをカウンターの上に置いた。最初に見せられた外国人の横顔にどことなく似ている、悪魔の横顔を見つめた。
「で、種明かしはしてくれるの?」
「いいよ」
「ほほお、では聞かせてもらおうじゃないか」
「なんでそんな偉そうなのよ」
「いや、ちょっと悔しくて……」
「美佳もなかなか鋭かったと思うわよ。最後の詰めだけ甘かったけど」
杏子は眉を上げて、からうように笑う。
「胸ポケットに入ってたとこまでは分かったんだけどなあ。まさか手の中で変わっちゃうなんて……。で、何? どうやったの?」
「もう少し時間が経てば分かるわよ。もしくはそうね―――、マスター!お水貰える?」
「え杏子、どういうこと?」
「―――マスターありがとう。美佳、コインを水の中に入れてみて」
「これを?」
私は言われるがまま、悪魔のコインを水の入ったグラスコップの中に入れた。コインはすぐに底に落下し、甲高い音を立てた。
「コインをもう一度見て」
「コインを―――?って、あ!」
「どう?」
「外国人の顔に戻ってる……」
悪魔の横顔は、元の外国人の横顔に戻っていた。
「な、なんで……?」
「このコインはね、熱を与えると別の模様に変わる特別なコイン。外国の硬貨には詳しくないけど、きっとこんな外国人の硬貨なんて存在しないはずよ。もちろん、悪魔の顔もね。美佳は、アタシが自分で用意したコインを使った時点で怪しむべきだったわね」
杏子は笑みを零して「普段は客からコインを借りるからね」と言い添えた。
「でまあ、これを美佳が握ることで……、手のひらの体温で模様が変化したってわけ」
「そっか、だからあの時、杏子は私の手を握ったのか……」
「そうそう。確実にコインに熱を与えるためにね」
「あれ、でもさっ! 私があの時、胸ポケットに入ってるって気づかなかったら、どうするつもりだったの?」
「ああ、それならそれで、完全に消えたことにしてしまえば良かったし、それに―――――美佳は絶対に見つけてくれるって確信してたわ」
杏子は意味深に瞳を閉じた。
「なんで?」
「目は口ほどに物を言うの」
大きな瞳が開いて、ふと胸元に視線を落とした。胸ポケットの中を確認するような杏子のその仕草を見て、私は反射的に大きな声を上げた。
「ああっ! それっ! 杏子さっきも胸ポケット見てた!」
「そう、美佳に気づかせるようにわざとやったの。『心理誘導』はマジシャンに必要なスキルよ。こないだ説明したオフビートとミスディレクションもこの『心理誘導』ってやつね」
「凄すぎてついていけないや……」
「でも、美佳もこれをプレゼンでやらないといけないんでしょ」
「うう、なんか心配になってきた」
「大丈夫、前にも言ったけどこういう『心理誘導』を駆使すればマジックは難しくない。マジックに正解はないから。いかに相手の常識の裏をかくか、その過程に優劣はないわ」
相手の常識の裏をかく、か。自分の中の常識という定規。その定規で測れない物事に直面すると、人は思考を停止させる。
測れない目盛りのその先が、『魔法』の領域になるんだ。
あのドアをどう閉めれば、その領域に入れるんだろう。
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