Section3

Bad Orange / 白居 美佳

#13 Office

 西側の窓から事務室オフィスに夕陽が差し込む。沈みゆく太陽が、向かい雑居ビルの背中に隠れると、終業の音楽が流れる。背もたれに大きく背中を預けて、体の筋をうんと伸ばす。

 画面の左下、スタートボタンを押してスリープを選択する。スクリーンが目を閉じるように暗転する。デスクの上に散らかった書類をひとまずクリップにまとめ、脇に寄せる。引き出しからウェットティッシュを取り出すと、丁寧に机上を拭いていく。最後に、カサカサとコンビニの袋からを取り出し机上に並べた。


「美佳さん、今から食うんスか…?」

「若宮もいる?」

「えーいや……、俺はいいス」

「あ、そう。じゃあ、私食べちゃうわね」


 私は長方形の白い底皿から透明の蓋を取り外すと、それを大口開けて頬張った。ふわふわの生地からあふれるクリームを落とさぬよう、頭上に向かってそれを突き上げ、なんとか口に入れ込めた。、これが界隈のOLに人気の老舗ロールケーキか……! このところ全国のコンビニで期間限定で発売していると聞いて、最近はこればかり食べている。今日は三つも買ってしまった。仕方ない、これから夜の戦いに備えるためだ。


「若宮もなんか食べときなさい。夜は長いわよ?」

「ええ? 美佳さん今日もっスか!?」

「言ったでしょ、今週はずっとだって。なんか予定あるの?」

「いや俺はいいんスけど、むしろ美佳さんのこと応援してますし……」

「若宮ぁ……、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「違うんスよ。俺は美佳さんの体が心配なんスよ。最近ずっとじゃないですか、残業」


 旅行会社の花形である企画部に配属されて早五年のアラサーOL――白居美佳こと私は残業のために英気を養っていた。今日も遅くまで残ることになるだろう。今週の金曜日には、社長を交えた大事なプレゼンがあるからだ。


「若宮、これは残業とは言えないの。あくまで、自分のために費やす時間なの。あんたが頑張ってるボルダリングと一緒よ」

「美佳さん、モノは言い様ですよ。実際は残業でしょ、しかもサビ残ですし」

「自由時間に残業代が出ると思う? 結局そういうことなのよ」


 若宮は頭をポリポリと掻いて困った顔をする。


「別に無理しなくていいよ? あくまでアンタはサポート役なんだから」


 サポート役って……、と呟くと、若宮は書類で分厚くなったフラットファイルを机の上に置いてパラパラと捲る。


「この仕事量でサポート役って……、美佳さんの負担どうなってんスか」

「しかたないでしょ。前にも言ったけど、これは普通のプレゼンじゃないの」

「まあー……、そうスけど。ちなみに、ここまで書類作ってもらってなんですけど、これホントに実行するんスか?」


 若宮の言葉に反応して、私は立ち上がる。

 そして名探偵みたいに人差し指を立て、ゆっくりとした足取りで彼の背後に回った。


「若宮、こんな言葉聞いたことある?」

「急になんスか?」

「『既存の概念を壊さなければ、新しい概念は生まれない。時代を切り開いた革新的な発明は、破壊と再構築を繰り返してきた。新時代を生きる者よ、目の前の常識を、壊せ』」

「えっと……、ニーチェ?」私は首を横に振る。

「じゃあ、ピカソ?」私はまたかぶりを振る。

「誰の言葉スか?」

「私よ。ニーチェとピカソの言葉を破壊して再構築したの」


 通勤の空き時間に読んだ、偉人の名言セリフ集を適当に拾っただけの言葉をさも言ってみた。若宮は「おおお」と唸って大きく頷く。この子、純粋だけど悪い人に捕まりそうなんだよなあ…、からかうのも程々にして、ちゃんと教育してあげないとなあ。あと言葉遣いも。

 

「ま、とにかく」


 私は再びオフィスチェアに腰かけると、山積みになったプレゼン書類をポンポンと叩く。


「ただ企画概要と暫定予算の話をするだけじゃあ、社長の心を動かすことはできないの。この企画を通してみよう、会社の看板商品になるだろう、そう思わせる必要があるの。だからそのために……、社長に実体験させる必要がある」

「それは、こないだの飲み会で、よおく聞かされたス。勿論覚えてるスよ」

「社長を『魔法使い』にするんだよ? 本当に分かってる?」

「分かってますって。そのために俺が裏で色々とをしていくんスよね」


 若宮はふんふんと頷きながら、分かりやすいほどニヤけた笑みを浮かべる。


「なに、どうしたの?ニヤけちゃったりして」

「いや、総務のリコちゃんに自慢しちゃおうかなあと思ってんスよね。俺、この会社のために面白いことやろうとしてんだよって言おうと思って、そりゃまあ、一番カックイイのは美佳さんですけど、その背中を追う一番部下みたいでいいじゃないですか。なあんか楽しみになって来たなあ、金曜の全体会議……」


 私は大きく溜息をつくと、若宮の肩を叩く。


「………だめよ」

「何がスか?」

「今回の企画は他言無用。誰にも喋っちゃいけないの。当然、若宮が手伝ってることも知られちゃいけない」

「ええ? 何でスか?」

「考えてみなさいよ。例えばこの冒頭の部分『社長が杖を降ると、会議室の扉が閉まる』ところね……、私の他に協力者アンタがいることが明らかになってたら、皆アンタが隠れて閉めたんだって分かるでしょ。あくまで私一人が、その空間を演出していると錯覚させる必要があるの」

「ははあ…、なるほどスね」


 偉そうに鼻を鳴らしてはみたものの、全ては杏子の受け売りだ。若宮には明かしてしまってもいいような気がするが、先輩面をできる数少ない好機なので黙ったままにしておこう。 


「あ、でも美佳さん。ちょっと待ってくださいス」


 若宮は難しい顔をして眉をひそめる。


「その計画だと、俺めちゃくちゃ忙しくないスか。例えば、今の『―――扉を閉める』のだって俺が一人でやるんスよね? ぶっちゃけ不可能じゃないですか?」

「そこは長い紐を使って……、こう十字になるように紐を掛けて一気に引っ張れば……、できなくはない」

「えっと、詳しいことは後で聞きますけど、どちらにしてもバックヤードを俺一人がやるって事スよね」


 懸念していたことがこうも早く露呈するとは。この新入社員は知識も経験もなく、言葉遣いも酷いどうしようもない若手だが、頭だけはいい。特に自身の危機管理能力とその結果を算出する演算速度だけは褒めてやってもいい。


「プレゼン時間が三十分、最初の十分は月並みな説明が続くとしても残りの二十分は『魔法マジック』の仕込みをするってことスよね。この資料を見る限り十二、三個の仕込みがありそうスから、一個の仕込みに準備から実行まで百秒しかないって計算スね。全てを俺がやるわけではないにしても、次の仕込みへのインターバルを含め、一個に充てる時間は正味その程度の秒数しかないってことス。さっきの扉の話も、それを実行して間髪入れず次の『魔法マジック』に行けるという仮定っス。しかもこれは俺が一人でできる範囲という仮定の下でも成り立って」


「ああ、もうっ!」


 私は地団駄を踏んで、彼の言葉を制した。駄々をこねる幼稚園児みたいで恥ずかしかったが、感情的な行動を止められるほど私も成熟した人間ではなかった。なんといったって彼の言動が、そう、長瀬チーフに似ていたからだ。彼女にない『自信』こそ言葉に現れていたものの、その内実はまるで彼女のそれなのだ。


「やるしかないでしょっ!」

「……」

「若宮に無理言ってるのは分かるけど、やるしかないの。この企画が世に出るためには、すべて今回のプレゼンに懸かってるんだから」

「美佳さん……」


 若宮はそう言うと、にへらっと屈託のない笑顔を浮かべた。


「変なこと言って悪かったス。俺、頑張るス」

「若宮……、ありがとう。成功した暁に、リコちゃんとの飲み会セッティングしてあげるから」

「マジっスか!」


 若宮が胸の前で手を叩くと小さく跳ねる。

 同時に、若宮の背後で、企画部のもう一つの椅子が音を立てた。


「あ……」


 長瀬チーフだ。

 私たちの声が聞こえなかったはずがない。しかし、彼女は黙々と仕事を片付け、そして今、退社の準備を終え席を立った。


「お二人とも残業はいいですが、早く退社した方がいいと思います。総務が戸締まりに困ると……、思いますから」


 思います、か。この人、自分の意見ってないのかなあ。


「承知しました。お疲れさまでした」

「おつかれしたー」


 私と若宮は彼女の背中を見送ると、顔を見合わせた。


「なあんか、イヤな感じスよね……、同じ企画部なのに。手伝ってくれないんスかね」

「チーフも忙しいんでしょ。無理言わないの」

「それにしても、俺ああいうの寂しいっていうか、なあんか分かんないスけど……、ついていきたい上司ではないんスよね」


 若宮はそう言うと自分の席に戻り、資料を読み込み始めた。


 なんだかんだ言って長瀬チーフも保守派だからなあ。今回の企画、許可はしても応援はしてくれないのかもしれない。全体会議には当然、企画部の頭として彼女も参加する。変な方向に風が吹かなきゃいいけど……。


 私は刻々と迫りゆく夕闇に、そっと小さく溜息を吹きかけた。

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