#12 Camellia

 その後、二階の激しい物音に驚き駆けつけた母親に私たち二人は、こってりと絞られた。涙目になりながら、息切れを起こしている私。そして頬を赤く腫らした弟。母が驚くのも無理はなかった。これが十年前なら、ただの子供喧嘩に映っただろう。しかし、二人ともいい年をした大人である。家族と言えど何か良からぬことを考えるのも当然だった。母には事の次第を説明し、事なきを得た。家にいたのが母だけで良かった、もし父がいようものなら正臣の命はなかっただろう。自分で言うのも何だが父は母以上に愛娘家で、私のことを溺愛している。兄弟の出生順は『一姫二太郎』が良いと言うが、必ずしもそれが正しいとは限らない。親は何だかんだと言っても、一番初めに生まれた子に特別な思いを抱くものなのだ。後に生まれた弟がどんな気持ちでいるか、きっと一生をかけても私には分からないのだろう。


 それから正臣は、私と一度も目を合わせようとしなかった。理由は分からない。声を張って本音を言い合った恥ずかしさからなのか、それとも私の馬鹿げた妄想に愛想を尽かしたのか。私たち姉弟はいつもこうだ。結局、喧嘩をしても仲が深まるわけでもなければ悪くなるわけでもない。雨降って地固まる、のではなく、雨が降れば土はぬかるむのだ。ひびの入った関係は直ることなく、深泥のなかで曖昧になっていく。それが、私と弟の関係だ。


 翌朝、私はボサボサの頭で食卓につく。


 味噌汁の芳醇な香りが鼻腔をくすぐると、私はようやく家に戻ってきたという感覚を取り戻した。昨日は散々な目に会ったなあ。まさか弟の部屋にパンドラの箱があったとは……、変な地雷を踏んでしまったものだ。


「お母さんは知ってたの?」

「ええ?……何がよ?」


 父の弁当を繕いながら、母は背中で答えた。


「いや、正臣のアレ」

「アレって何よ、お笑い?」

「それは知ってるよ。…ていうか、一緒に見に行ったでしょ、あの子のライブ」

「へえ?そうだったかしら?昔のことは忘れたわ」


 まだ数年前のことだ、…覚えてるくせに。母はあの事実を忘れたいのかもしれない。有名大学に通いながら勉強もしないで、あんなことをしていた弟の愚行を、世間体を気にする母親様には耐えられなかったのだろう。


「そうじゃなくてさー…、拳銃のこと」


 私はそう言って、ずずずと味噌汁をすすった。


「ああ、アレ?知ってたわよ。高校の時、こっそり買ってたもの」

「そうだったの?」

「そうよ。随分と熱心に集めてたわ」

「怒んなかったの?」

「私は怒ったわよ。でもお父さんが、男にしか分からない世界がある、って黙認してたのよ」

「へえ……」

「ま、でも…、お父さんも若い時はそういう収集癖があったから、自分の姿を正臣に映していたのかもしれないわね」


 あの父が正臣にも気を掛けていたなんて、少し意外だ。どちらかと言えば、弟の面倒を見ていたのは母で、父は私に執心するあまり正臣のことなど気にもしていなかった。学校のことについても、将来のことにしても、父が真剣に考えるのは私の時だけだ。弟には関心がないと思っていた。


「お母さんはもう怒ってないの?」

「そりゃそうよ。別にいま集めてるわけじゃないんだから、来る時が来れば処分するだけよ……、ほら、アンタこれも食べちゃって。お母さん、お裁縫の教室行ってくるから」


 母はそう言って、小鉢いっぱいに盛られたほうれん草のお浸しを突き出す。背中で結んだエプロンの紐を解いて、その場を去っていく。「ひってらっはーい」と私は箸を咥えて、その背中に手を振った。


 一人きりになった食卓で、白米をかき込み、味噌汁をすする。

 

 チクタクと時計の秒針の音がし、ホッホーホホと鳩の鳴き声が聞こえてきて、ブゥーンと遠くからバイクのエンジン音がやってくる。


 私は、せわしない日常を記憶の外に放り出して、一時の貴重な静寂を享受していた。


 ふと窓の外に目を遣ると、朝霧に包まれた山々がある。その手前に、防風林に囲まれた石瓦屋根の木造家屋が軒を連ねている。さらにその手前には、休作中の畑が広がっていて、窓を開けるとその土臭い匂いが入ってくる。


「あ、れ……?あんな家あったっけ?」


 私は一人呟くと、窓枠に身を乗り出して目を凝らす。

 古い家々の中に、一軒だけ明らかに新しく建てられたような屋根が見える。周囲が竹垣と松林に囲まれていて、全体の様子は分からないが、その間隙に垣間見る白い壁は決して古くないように見えた。


 小首を傾げて訝しんでいると、再び母が食卓に戻ってくる。パタパタとスリッパの音をさせ、冷蔵庫を開ける。それからキッチン横の食品棚を開けて閉めては、何か小言を呟く。「まあいいか」というように溜息をついてようやく、私に気が付く。


「あら、もう食べたの?食器洗っといて……ってアンタそんな所で突っ立って何してんの?」

「いや、あんな家あったっけと思って」

「どれよ?」

「あれ」


 窓の外を覗く母に、私はその家の方を指さした。


「ああ、あれ。椿つばきさんのお宅でしょ?」

「椿?」

「前は…、かなえ川の橋越えた、喜多田の集落に住んでたんだけどウチの方に引っ越してきたのよ、もう三年前になるかしらねえ」

「椿?椿って…、どこかで聞いたような…」


 古い記憶を思い起こそうとする私。母は何かを言おうとしたが、掛け時計の時刻を見て諦めたようだった。「本当に私行ってくるわね」と言って、リビングのドアに手を掛けた。

 その時同時に、扉の向こうから別の人影と向かい合わせになった。…正臣だ。クセっ気の強い髪は、縦横無尽に絡み合っていて、寄れたパジャマ姿から寝起きだということはよく分かった。朝に弱い弟は、気怠そうに母と二言三言会話を交わして、ドカッと偉そうに食卓の椅子に腰かけた。


 まだ少し腫れの引いていない頬をさすりながら、味噌汁をすする。


 私に気づいていないのか、もしくは気づいていないように振舞っているのか、弟は私に目もくれず、淡々と日常を過ごしていた。その開いていない眼を窓の方に向けるが、私の姿を正確には捉えていないようだった。しばらくしてまたズズズと味噌汁をすする。

 

「……」

「……」


 それほど広くない空間に、無言のままの二人。


 私は辛抱ができなくなって、彼の前の席の椅子を引いた。


「おはよう」

「……ぉん」


 弟は仏頂面で唸り声のような返事をした。


「ねえ?頬赤いよ」

「……」

「その、昨日は、ごめん」

「……」

「でもアンタもアンタだからね?あんな他人ひとに誤解されるような物持って、可笑しなライブ行って、私のこと馬鹿にして…」


 ってあれ?昨日、何で喧嘩したんだっけ?そもそも、あれは喧嘩だったのだろうか。お互いに感情を爆発させて、昔から言えなかった悩みを言い合っただけじゃなかろうか。


「でも殴ったのは悪い、ごめん」

「……別に」


 別にって何よ。ちゃんと答えなさいよ。

 …ただこれ以上、小言を言えば、私はきっと母のように映る。やめとこう。


「……」

「……」

「……あ、あのさ、アンタ…、椿って名前覚えてる?」


 私はふと窓の外の家に目を遣って、横目でそう問いかけた。


「なんで」


 正臣が一瞬、箸を止める。


「私、あのお宅初めて見たから、お母さんに聞いたのよ。そしたら三年前に引っ越してきたって……、で名前聞いたら『椿』って言うから何かどっかで聞いたなあ…と思って」

「姉さん、ホントに覚えてないの?」


 気づけば正臣はじっと私の方を見つめていた。なんだ、急に食いついてきたぞ。


「アンタ知ってるの…?」


 正臣は呆れたようにわざと溜息をついて、再び箸を動かした。


「ねえ、ちょっと!教えてよ!私が覚えてない……ってどういうこと?私、そんなお宅のこと…椿さんなんて知らないって」

「……」

「ちょっと正臣、説明して」

「……」

「説明しなさいって!アンタまた殴るわよ」


 正臣は心底ひとを蔑むような目で私を見る。

 それから視線を落として、ボソリと呟いた。



「……姉さんを『魔法使い』にした人じゃないか」







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