Bad Orange / 白居 美佳

#11 Fight

 ウッドスプリングのベッドに飛び込み、杏子と作り上げた企画案に目を通す。スケッチブックにボールペンで書き殴った粗末なものだけれど、ここにはたくさんもの夢がある。

 私はスケッチブックをぱたんと閉じると、それを胸の内に抱きしめた。死んでも離すもんか、誰にも渡すもんか、これは私の希望だ。込み上げる喜びを我慢できず、私はベッドの上で悶え転げ回った。

 感情を爆発させる女児のごとく激しく動き回る私。キシキシとすすり泣くベッド、そしてマットレスがこれ以上は付き合えないと私をに放り出した。


「あうっ!……あ痛つつつ」


 落下の衝撃で腰を強く打ってしまった。私は腰をさすりながら体を起こす。年甲斐もなく、。こんな姿、会社の人間には見せれない。長瀬チーフ然り、若宮にも。完全無欠のキャリアウーマンを演じ、見事にプレゼンを成功させるのだ。

 

 私は椅子に座り机に向かうと、再び企画案に視線を落とす。

 企画概要を説明するのが主であるが、それと並行していくつかのマジックを披露する予定だ。今回のテーマは『社長を魔法使いにする』ことである。錆びた有刺鉄線でがんじがらめになった社長の心を解いてやるのだ。そのためには社長自身が『魔法使い』になったと錯覚させるマジックを仕込む必要がある。そして私自身もマジックを習得しなければならないのであるが、短い期間でそれを習得するのは難しい。杏子の言葉を借りれば、オフビートを混ぜれば素人でもマジックができる。彼女の言葉を信じればたとえ形にはならなくとも、社長一人にことは可能なんだろう。それにこれは企画本始動前の、試金石となる。ここで大人一人『魔法使い』にできないようでは、この企画の顛末も目に見えている。


 これは今後の運命を懸けた、大事なスタートラインなのだ。


 スケッチブックとにらめっこをし、ああでもないこうでもないと呟くこと一時間。全体の流れを把握し、細部のブラッシュアップが済んだところで私はあることに気が付いた。

 

 一人暮らしを始めて早数年、生活の拠点といえども日常必要のないものは購入しないし、要らなくなれば捨ててしまう。このプレゼン…、いやマジックを成立させるためには『小道具』が足りない。そういう専門のお店で買うのもいいが、私が真にやりたいのはマジックではないので、調子のいい時だけ専門家に頼るのは気が引けてしまう。近所のホームセンターで買い揃えてもいいが、その後の処分に困る……。こうなったら行くべき場所は、あそこしかない。


 気づくと私はスマートフォンを片手に、慣れた手つきで数字をタップしていく。そらでも言える、実家の電話番号だ。


 実家は電車を乗り継いで二時間ほどの山田舎にある。私は母に今から向かうと言って電話を切った。いつも年末に帰ることが多いので母は驚いていたが、相変わらず嬉しそうに声が上ずっていた。親はいつでも子が可愛いものなのかな……、それにしたってだと思うけど。


 



「あ、あ……、正臣」


「姉さん、なんでオレの部屋に…」


「アンタこれ、なに……」


「返してよ、大事なものなんだからさ」


 私は鈍い光を放つ黒い拳銃を、決して手放すまいと強く握る。

 自分でも分からないが、いまこれを弟に渡してはいけない。私の体が危険信号を発している。なにか良くないことに巻き込まれようとしているのだと。


「アンタの押入れを勝手に開けたのは…、謝る。ただ私、コレを探してただけで」


 私は脇から、小さな扇風機を取り出す。USBケーブルを繋いで動く、小さな卓上型の扇風機だ。


「なんでそんなものが要るんだよ」

「ちょっと仕事で使う、から」

「どこでも買えるだろ、そんなの」

「他にも探してるものがあったのよ」


 正臣が一歩私に近づく。

 私は体を揺すって、ゆっくりと後ろに身を退く。


「なによ、近づいてこないでよ」

「なに怖がってんの、姉さん」


 図星を突かれた私は「ひっ」と息を飲んで、目を泳がせる。


「べべ別に怖がってなんかないし?アンタが汗臭いから避けてるだけだし?」


 半ば仕返しのように精神攻撃を浴びせるが、正臣の感情は微動だにしていないようだった。その薄いフレームの眼鏡を持ち上げて、飄々と私を見下ろす。


「いいから、それ返して」


 正臣は面倒臭そうに頭を掻く。反対の手を私に差し伸ばす。


「か、返せるわけないでしょ!アンタこれ、拳銃……こんなのどこで手に入れたのよ!」

「だから、返し」

「お母さんいつも言ってたでしょ!人様に迷惑を掛ける人間にだけはなるなって!じゆ、銃刀法って法律知らないの?これは人を傷つける道具!アンタそれ分かってるのっ……!」


 私は昂る感情に任せ、正臣に向かって叫ぶ。


「警察に連絡するから……!そのまま動かないでっ!」


 勇気を振り絞り、スマホの電話を起動させる。

 その手を掴む正臣を、私は必死に振り払った。彼はそれでもしつこく私からスマホを取り上げようと、腕を絡ませ、私の指の一本一本を折るようにスマホから引き離してゆく。バタタと足で床を蹴り、必死に抵抗をする。弟と言えど、もう立派な大人の男だ。私が力で適うわけもなく、ほどなくして耗弱した私の手からスマホが床を滑っていった。

 私は最後の手段に声を張り上げようとしたその時、正臣が何かを言っているのが聞こえた。


「レッ!―――ガッ―――ダッ――!」


 え?なに?


「それっ!モデルガンだからっ!」


 モデル…ガン?

 私は口を開けて乱れた息を整える。


「…はあ、はあ、はあ、え?モデルガン……?って何?」


 正臣は呆れていた。私の上に馬乗りになっていた弟は体を起こしてゆっくりと離れ、深い溜息をついた。


「それは、模造拳銃。実銃に似せて作った偽物だよ」

「偽物?で、でも……」


 私はその拳銃の重さを確かめるように、手のひらでそれを上下させる。


「偽物でも……亜鉛合金と鉄の金属粉を混ぜた特別な樹脂を使ってるから、重厚感や肌触りはよく似てる」

「にしてもリアルすぎない?本物みたいじゃん。なんかよく見る形っぽいし…」

「イタリアベレッタ社の最新機銃ベレッタPx4を精巧に模したモデルで、シャープなラインに施した銃把も、シンボルのベレッタ刻印もディティールまでこだわり抜かれてる。実銃と見破るのは確かに難しいよ。実際、映画でも使用されてるモデルだし」

「じゃ、じゃあ、そこまで本物と一緒なら、その銃も本物と同じように撃てるんじゃないの?」

「改造すればいけるかもね。でも実弾持ってないし、それ自体発火モデルじゃないから衝撃に耐えれないと思う」

「こんなのどこで買ったの?」

「末広町の、ミリタリーショップで」

「なんで買ったのよ」


 正臣は私の質問が可笑しかったのか、鋭い犬歯を唇に突き立て「くく」と喉を鳴らす。この子は昔から意地の悪い笑い方をする。得体の知れない恐怖、悲しいかな、それが弟に抱いた最初の感情だった。


「なんで…って、それ芝居に使ってた時のやつだよ」

「芝居?」

「姉さん知ってたでしょ?オレが『お笑いライブ』出てたの」


 覚えている。内気な性格から友達に恵まれなかったあの正臣が、喜劇サークルの後輩と『お笑い』を始めた時のことを。私はこれで彼も少しは外向的になるかと思い、その経過を見守った。高校を卒業して、大学に入るとその活動はより活発になっていった。稽古があるからと言って家にはほとんど姿を見せず、週末は中古のカブでどこか遠くに出掛けていた。私は次第にの恐怖を抱くようになった。

 そこで両親と相談し、三人で正臣のライブを見に行くことにした。正臣には伝えず、こっそり彼の後をつけた。行きついたのは郊外にある小さなライブハウスだった。収容人数の少ない小さな劇場だったので、私たちはここまで来れば見つかっても構わないと腹を括って、最前列で彼の出番を待った。


 流行の曲をリミックスした出囃子に乗って、三人が現れる。


 ………狂気に映った。少なくとも私と両親の眼にはそう映った。

 三人は「拳銃で頭を打ち抜かれると新人類になる」という設定のもと、新人類と現代人の種族を越えた、奇妙なやり取りを演じていた。最後には全員が新人類になってしまったところで、ドヴォルザークの『新世界より』が延々と流れ続ける。

 笑いに飢えた玄人たち他の観客は、そのシュールなネタを見てクスクスと笑う。私と両親は何が起きたのか分からないまま呆然とした。もちろん誰の表情にも笑みはなかった。


 最後に三人は観客に向かい一礼をして、舞台は暗転する。


「どうも……ありがとう…ございました…、ガンナーズの…三人でした―――――」


 私はあの日の司会の言葉をつぶやく。

 

「あれ姉さん、よく知ってるね…。もしかして応援に来てくれてた?」


 正臣が笑っている。


「ガンナーズ、っていうトリオでやってたんだよ。芝居のどこかに拳銃を使うのがポリシーでさ……、あの時はあれがカッコいいと思ってたんだよね」


 私は追想の記憶から現実に戻ると、立ち上がりおもむろに彼の頬を叩いた。

 乾いた音が室内に響く。


「いって……なにすんだよ」

「こんなことばっかりしてっ!お母さんたち、心配させないでよっ!」

「こんなこと……?ふざけんな!こんなことって何だよっ!こっちは真面目にやってたんだぞ!オレだって、インコだって、ブロッコリだって!あれに青春の全てを懸けてたんだぞ!なんも知らないくせに勝手なこと言うなよ!」

「アンタいくつよ……?いつまでそんなことやってんのよっ…!」


 正臣が私の胸倉をつかんで壁に押し付ける。私は息が詰まり、激しくせき込んだ。


「姉さんまで母さんみたいなこと言うなよっ!もう辞めたんだよ!お笑いは辞めたんだ!やれるもんなら、やってたかったよ!でも違うだろ…?辞めさせたのはアンタらだろっ!どいつもこいつもオレの人生をめちゃくちゃにしやがってっ……!」


 私は正臣の腕をぐっと掴んで離そうとする。万力のように締める彼の腕にますます力が入る。


「それにっ!姉さんに言われんのが一番ムカつくんだよっ!いっつもいつもオレをコケにしてさっ!やりたいことやってる大人は言うことが違うよな!大人の言うことは違うよな!大人の言うことはさっ!」


 ようやく振りほどいた腕を勢いそのままに、再び彼の頬を叩いてやった。今度はグーだ。


「……っつてえ離しなさいっ!何すんのよバカ!!」

「いってえ……なあっ!大人のくせにすぐ手上げるなよっ!」

「うっさい、このモヤシ男!誰が大人よっ!私だって全っ然大人じゃない!いまだに仕事に私情を挟む子供ガキなの!この目で『魔法使い』を見たいって今でも真剣に考えてる、幼稚な子供ガキなのっ!」

「『魔法使い』……?」

「杏子を見て思った!心底羨ましいと思ったっ!自分の夢を実現するために、真っ直ぐひたむきに走る杏子の姿…、心底かっこいいと思った!『魔法使い』になりたいっていう真っ直ぐな思い、羨ましいと思ったのよ!」

「姉さん、何を言って…」

「私は回り道をしてるんだっ!危険な道を渡って、苦労して掴む成功があることを私は知らないっ!挫折だって知らないっ!私は子供なのっ!大人じゃないのっ!私は今もまだっ……、なのっ……!」


 正臣はハッと息を飲む。そこにかつての姉を重ねたようだった。ソファの裏に隠れ、リモコンを手に、弟の帰りを待つ姉の姿を―――――。


「姉さん……」

「だから今度こそ自分の手で掴む。その過程を踏むために、帰ってきたの」

「まだ、そんなことやってんの……?」


 正臣は意趣返しに私の言葉を真似る。


「仕方ないでしょ。諦められないんだから」


 くく、と喉を鳴らして笑う正臣。そっと私の前にを差し出した。


「え……、これアンタの大事なものなんでしょ」

「『魔法』の小道具には持ってこいだと思うよ。本物にそっくりだから」


 私は少し考えて、それを受け取った。確かに使い道はある。

 ミスディレクション…、客の注意を引くのに、これほど適したものなどないからだ。


「ありがとう。また返しに来る」

「いいよ…、もう使わないし。それに姉さんも、こんな遠いところまで大変だろ…?」


「ううん、絶対に戻ってくる。を持って…、戻ってくるから」




 


 



 



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