#10 Gunners
今日彼らがライブで披露したネタは、かつて私が書いたものだ。私がネタを書かなくなって彼らはやむなく自分たちで作ったネタを披露し始めた。しかしネタを書いたことのない彼らにとってネタ作りは苦行だった。苦労してようやく出来たネタも客には全くウケなかった。そこで彼らは私の書いた膨大な量の台本データを原案に、ネタを作り始めた。彼らが芸人として認められたのはそれから、だ。
だから今日もこうして私が見に来るライブに合わせて、私のネタを披露する。私には才能があると証明するために。私を再び『お笑い』の世界に引き込むために。徹田と石波、白居のお笑いトリオ『ガンナーズ』に戻るために―――。
私はそれでも現状のまま仕事を続けたい、と二人に伝えた。インコは更に感情的になって私に熱弁を始めた。ブロッコリは拳を握ってただ私を睨みつけていた。
今日はたくさん飲めよと奢ってやるつもりだったが、二人は毎日の夕食もままならないはずなのに「そんな気遣いは要らない」と怒って居酒屋を後にした。どうやら行きつけのバーで飲み直すらしい。最近末広町で面白いお店を見つけたんだと、インコが騒いでいた。
そういえば最近あの町に行かなくなったな、そんなことを考えながら、残された私は彼らの消えゆく背中を目で追う。それからジョッキに残った泡の消えたビールを一気に飲み干して、店を出た。
実家に戻ると、私は妙な違和感を覚えた。
それほど広くもない玄関の
「これ…」
見慣れない靴があった。ローヒールの黒いパンプス。私くらいの年齢のOLが履いているなら、こんな靴だろうか。私は首をひねりながら上がり
「おかえりなさい」
母が夕食の残りにラップをかけている。
「今日金曜でしょ、随分早かったのねえ。いつもはもう少し遅いのに」
「後輩と飲んでた。でも用事があるからって言ってすぐ帰った」
「後輩…って徹田君と石波君?またアンタ、あの何とかライブってのに行ってたの?ねえ?」
仕事帰りのサラリーマンが『後輩』と言えば職場の後輩を指すのが普通だが、その点、母は私のことをよく知っている。『後輩』があの悪友二人を指すことを。
「まだあんな馬鹿なことやってんの?あんた」
「今はやってない。ちょっと様子を見に行くだけだって」
私が『お笑い』を辞めた原因の一つは両親の反対もあったからだ。私を有名私立校に通わせ、その行く末が『お笑い芸人』では親戚に示しがつかなかったのだろう。子供に賭けた投資金をムダにしないために、私を就職させることで強引に元手を回収しようとしたのだ。
「もうあの子たちとは関わっちゃ駄目よ」
「だから、アイツらとはそういうんじゃないって」
「そう。もう二度とがっかりさせないで頂戴よ」
分かってる、てのに。十分大人らしく生きてるじゃないか。
「それより母さん、新しく靴でも買った?」
「靴?買ってないわよ。何のこと?」
「玄関に黒いパンプスが―――」
母は「ああ」と声を上げ、明るい声色で答えた。
「あの子が帰ってきてるのよ」
「あの子って」
「仕事に必要なものを取りに来たんだって」
「もしかして、姉さん?」
「そうよ。え?やだ今朝言わなかった?」
そう言えば、そんなようなことを言っていた気もする。だが朝は余裕を持って出社するタイプじゃないので、いつも限界まで布団にこもり、急いで支度を始める。他愛もない話をする母の言葉に耳を傾ける暇などない。
「そう。もう風呂入ってた?」
「まだなんじゃないかしら。どうしても欲しいモノがあるって急いで二階に上がってたわねえ」
「欲しいモノ?……まあ、いいや。先に入れって言っといて」
「何でよ。アンタ今から二階に上がるんでしょ、アンタが言ってきなさいよ」
僕は言葉に詰まった。母の言うことはもっともだが、私は姉に会いたくなかった。ありていに言えば、会う勇気がなかった。太陽のように眩しく輝いている姉、日陰で虫を喰い潰す私。どんな顔をして会えばいいのか。
「あ、ついでにバスタオルの位置も教えといて。あの子場所が変わったの知らないだろうから」
母はそれっきり僕の顔を見ようとしなかった。もしかすると母は私が気後れしていることに気づいているのかもしれない。それでも行ってこいという母なりの厳しさか、私は無言のうちにそう推察する。
どちらにせよ、行くしかないか。適当に挨拶を交わして、風呂に入れと言うだけだ。適当な挨拶、か。私にそんな器用なことができるか。できないな。「風呂に入れよ」、これだけでいいか。
私は階段を上って姉の自室だった部屋に向かう。『美佳の部屋』、木工材で作ったお手製のプレートが掛かったままだ。母がいつ帰ってきても居場所があるようにと、自分の大好きな愛娘のためにキレイにしている部屋だ。私は部屋の前に立って一息つこうとするも、突然胸が苦しくなって思うように呼吸ができなくなった。ああ、呼吸ってどうやってするんだっけ。どのタイミングで息を吸えば、自然に吐くことができるんだ。そんなどうしようもないことを考え始めたのも束の間、私の体は部屋の前に着いた勢いのまま、ドアをノックしていた。なんだか…、心と体が追いついていないみたいだ。
返答を待つ。しかし、反応はない。
私はもう一度ドアをノックする。やはり反応がない。
寝ているのかもしれないと、私はドアに耳をすませる。姉はとてもいびきがうるさいので寝ていれば気づくはずだが……。
室内は静かだった。
「姉さんいる?先に風呂入ってくれよ」
私は無音の部屋に向かって声を掛けた。やはり返事はない。どこか外に出掛けているのだろうか。
「どこ行ったんだよ…」
ひとまず荷物を自分の部屋に置きたいと思い、その場から足を一歩引いた。
その時だ。部屋から大きい物音がした。何か重さのある物体が落下した音。床に衝突した音。ただそれは私の目の前の、姉の部屋からではない。廊下の突き当たりにある私の部屋からだ。
私は嫌な予感がして、急いで自分の部屋に走って向かった。
靴下で滑る足元に注意しながら器用にブレーキを掛けながら、自室のドアノブを握る。
逆流する風圧を顔で受け止め、私は室内を確認した。
「あ、あ……、正臣」
姉は床にへたれ込んでいた。
私を見て、その顔は次第に引きつった。
鬼とか、悪魔とか、幽霊とかそんな空想の生き物に恐怖する顔ではない。
目前に差し迫った恐怖に怯える顔だ。
そう……、ちょうど殺人犯を見るような、そんな顔。
「姉さん、なんでオレの部屋に…」
姉は臀部からずずずと後ろに下がり、生唾を飲み込んだ。
「アンタこれ……何」
姉はそれを私に渡すまいと両手で握り込む。
「返してよ、大事なものなんだからさ」
私は姉の握るそれを虚ろな目で見つめた。
防錆処理を施した、黒く光る
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