Section2

ZIP / 別府 京志郎

#5 Dorian Gray

 「せーんぱいっ」


 彼女が甘ったるい声で僕を呼ぶ。微かにオリーブオイルの香りをかぐわせて、艶めかしく光沢を放つ唇が僕の視線を奪う。口元をじっと物欲しそうに見つめていると、彼女は僕の視線に気づいて小悪魔のように舌なめずりをした。


 「ごちそうさまでした」

 「僕のサラダチキン勝手に食べるなよ」


 彼女は嬉しそうににんまりと笑い、僕はがっくりと肩を落とす。自分のプレートからオリーブオイルのかかったサラダチキンが彼女の口に運ばれていくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。

 今日は結衣と二人で、駅前に広く軒を構えるアジアンカフェに来ていた。オープンテラスで仲良くお皿をつつき合う僕たちは、仲睦まじいカップルに見えるかもしれない。

 ただあれからも、結衣とは相変わらずグレーな関係が続いていた。僕は彼女の気持ちに気づきつつも、自分の思いをはっきりできずにいた。彼女の愛の猛襲に前線で迎えながら、この局面を打開できる有効策が見出せずにいる。全面降伏か、徹底抗戦か。


 「それにしてもよく食べるね。太らない?」

 「よく食べてよく寝るのは、健康な体を保つ上で大事なことですよ。太るわけないじゃないですか」

 

 よく食べてよく寝て、よく太る。それを生業にしている人間もいるのだが。


 「そういう先輩は普段から小食ですね。体重気にしてるんですか?」

 「まさか。こんな骨と皮で出来たような人間を捕まえてよくそんなことが言えるよ」

 「へえ、そうですか」

 「なんだよ」

 「先輩は、人が『太ってる』ってどうやって判断してるか知ってます?」


 結衣は鼻を鳴らしてニヤニヤと笑みを浮かべた。


 「どうやって?」

 「はい。今までに出会った人間を一人ずつ思い浮かべてください。あの人は太ってたって思う人はいませんか?」

 「それはまあ、いるかな」


 僕はふと小学校のとき同じクラスだった山ちゃんの顔を思い浮かべた。銀のアルミ皿に、山のように盛られた白飯をぺろりと平らげる彼の幸せそうな顔が、印象に残っている。


 「どうしてその人のことを『太ってる』って思ったんですか?まさか体重を聞いたなんてことはないですよね?」

 「ないよ。でもあの子は太ってた」

 「なぜそう思ったんですか?」

 「……お腹が出てて、いつもTシャツが張ってたし、見るからに太ってるなあって感じだったよ」

 「体型ですか」

 「うん」

 「違います」


 彼女はすました顔で、短く否定する。


 「え?」

 「じゃあ先輩は、足が長くてスラっとしたモデルさんが、お腹だけぽっこりと出ていたら『太ってる』って思いますか」

 「いや、それは…」

 「この人は妊娠中だ、って気づくんです。だから人は体型で『太ってる』って判断はしないんです」


 悔しいが彼女の言うことも一理ある。 


 「―――あ、そう言えばあの子、よく食べる子だったっけ。給食の時の幸せそうな顔は今でも忘れられないよ」

 「つまり、大食漢だったということですか?だから『太ってる』っていうイメージがあるってことですか?」

 「多かれ少なかれ影響はあるだろ」

 「違います」


 結衣はまたも僕の解答をバッサリと切った。彼女の満足げな顔を見ていると、このやりとりがしたいだけではないかと疑わしくなってくる。冗談じゃないぞ。ちゃんと答えはあるんだろうな。


 「では先輩は……、その、聞きにくいんですが、私のことを『太ってる』って一瞬でも感じたことありますか?」


 そうだ、彼女もよく食べる人間だ。しかし、お世辞でなく彼女を1ミリたりとも太っていると思ったことはないし、むしろ脚の線が細くて、くるぶしが人形の関節みたいに細くて、いつか折れてしまうのではないかと心配になることすらある。『太ってる』とは真逆の印象を抱いていたくらいだ。


 「その様子だと感じたことはなさそうですね。安心しました」

 「もしかして、それを確かめたかっただけじゃないだろうな」

 「はい」

 「はい?!」

 「意外と脱いだら肉付きいいんですよ、私。だから少し気にしてて」


 彼女とは以前付き合っていたが、お互い何のプライドがあってかプラトニックな関係を続けていた。だから彼女の裸体など見たこともないので、肉付きの良さなど知るはずもない。細身のイメージが強い彼女がそのブラウスを脱ぐと西洋裸婦のごとく豊満な肉体が露になると思うと―――。


 「あ、先輩。いま想像してますね、私の裸」

 「


 僕は精一杯、喉を締めて低い声を出した。上ずる声を抑えるためだ。


 「

 「急にダンディな声になりましたね。どうしたんですか」

 「いや、何でもない」

 

 軽く咳ばらいをすると、僕は居ずまいを正した。


 「そういえば先輩、さっきからって言ってますけど、もしかして初恋の相手でも思い浮かべてるんですか」

 

 気づけば、結衣が半目で僕をじっとりと見つめている。 


 「まさか」

 「じゃあその人の名前言えます?」

 「山ちゃん」

 「本名は?」

 

 何をそこまで詮索したがるのか。僕は溜息と一緒に彼の名前を告げた。

 ―――――山森やまもり貴文たかふみ

 すると彼女はおもむろに一枚のメモ用紙とペンを取り出し、その名を書いた。それを僕の前に突き出すと、僕の口から答えを求めるように上目遣いをする。


 「山ちゃんの本名だろ」

 「これを見て何か気づくことはありませんか」

 「気づくこと?まさか……、名前の感じから『太ってる』って言いたいのか?」


 彼女がこくりと頷くと長い黒髪が彼女の頬をさらりと撫でた。


 「ちょっと、それは言い過ぎじゃないか?」

 「では先輩の名前…『別府京志郎』と『山森貴文』どちらが太ってる人間かと言われたら―――――どっちですか?」

 「それは…僕を出すのは違うだろ。やっぱり自分のイメージがあるわけだし、山ちゃんも同じようにさ」

 「それでは架空の名前でいきましょう。『佐々木ささきゆう』と『内山うちやまさとし』ではどうですか?」


 確かに、佐々木悠は爽やかな好青年を思わせる一方で、内山聡はむっちりとした巨漢を思わせる。


 「どうですか?何となく内山さんの方が太ってる感じがしないですか?」

 「それは…、するけど」

 「どうしてそう感じるか分かります?」

 

 僕の知り合いに内山聡という人間はいない。でもきっと記憶の片隅に内山聡という人間がいるのだ。昨日テレビで見たニュースキャスターがそうか、お昼を買いに行った時のコンビニ店員の名前がそうだったか、内容を全く覚えていない授業の講師がそんな名前だったか。内山聡という人間のイメージ像が知らず知らずのうちにインプットされている。

 そう考えればいまここに不思議な問題が生ずる。なぜ自分の知る『内山聡』が全員、


 「先輩、もうお気づきですよね。人は名前を与えられると、その名前が背負う社会的期待に応えようとするんです。『佐々木悠』ならクールで知的な人間に、『内山聡』なら大らかで円満な人間に。そして人はそのイメージを実現しようと容貌を変化させていくんです。すると『佐々木悠』は凛としたイケメンに、『内山聡』はふくよかな丸顔になっていくんです」

 「名前によって顔つきが変わっていくってことか?」

 「そうです。これは『ドリアングレイ効果』が一部関係しているためと言われています。由来となったオスカー・ワイルドの長編小説『ドリアングレイの肖像』では、主人公ドリアングレイが悪に染まっていく度に、彼の肖像画が次第に醜悪になっていくんです。これにちなんで性格が顔を変える現象を『ドリアングレイ効果』と言います。名前の持つイメージが固有の性格を形成し、ドリアングレイ効果によって性格が容貌を変化させていくのです。つまり、名前が顔つきを変えていくというわけです」

 

 僕は小首を傾げた。彼女の話は小難しくて話の顛末が分からなくなる時がある。


 「では、最初の問いに立ち返りますよ。人はどのようにして『太ってる』と判断すると思いますか」

 「てことは、名前なのか……?」

 「はい。正確には名前と、名前によって形成された顔つきです。先輩のクラスメートだった山森貴文くんは、名前の持つイメージとそれに見合った顔つきのせいで、『太ってる』と思われていたんです」


 山ちゃんの体重を聞いたことはない。聞かなくても『太ってる』から、重いものだと思っていた。小さいころなどそれほど背丈に差もなかっただろうから、案外自分と変わらないくらいの体重だったのかもしれない。

 じゃあ、僕も『別府京志郎』のイメージにあった顔つきに変化してきたということなのだろうか。、か。大学に入って付けられた『ジップ』というあだ名は、必然的に僕に大学デビューを促していたのかもしれない。


 ふと彼女の顔を見るとにんまりと幸せそうな笑みを浮かべている。


 「これって実は大事なことなんですよね」

 「どういうこと?」

 「自分の子供につける名前がその子の人生を左右するってことですよ。名前が性格から顔まで決めてしまうんですから。大事なことです」

 「はあ」

 「そこで先輩に相談です」

 「なんの」

 「私たちの子供に、何て名前をつけましょう。明るく天真爛漫な子に育ってほしいなら、太陽くん!心が広くて優しい子なら、宏樹くん。知的で聡明な子なら…、総一郎くんとかどうでしょう!みんな将来が楽しみですね!」

 「勝手に話を進めるな。あとなんでみんな男の子なんだよ」

 「先輩によおく似た子供が欲しいからです。たっぷり愛情を注いであげますからね」


 彼女が上機嫌に鼻歌を歌う。どこかで聞いたことがあるそのメロディーは平和な昼下がりの午後を美しく彩っていた。



 

  


 

  

 

 

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