#4 No Name
「なあ聞いてるか?兄ちゃん、なあ?」
ボロボロになった野球帽の陰から、虚ろな瞳がこちらを睨む。
「聞いてんのかっつってんだ、俺ぁな」
ほんのりアルコール臭を漂わせた、初老の男性が窓口カウンターにもたれ掛かる。
「ええか?何度も言わんぞ。俺ぁな、還付金が戻るっちゅうから申告したんや。アンタらがそう言ったんや、申告しろっちゅうて。なあ?」
眠たげな眼をこすったかと思えば、首をもたげて大きく息を吸い込む。
「それを、なんや、急に戻らんて。そんな話あんのかいな、なあ?アンタが言ったんちゃうか、そうやろ。ワシこれでも記憶はええ方や、そうや、アンタが言ったんやろ?……なあてっ!」
大きな破裂音が響く。
その男は体重を預けるように体をくねらせながら平手で窓口のカウンターを叩いた。周囲の職員が迷惑そうに私たち二人を見る。
「落ち着いてください。先ほども申し上げましたが、申告をすれば必ず戻ってくるというわけではないんです。扶養親族が増えたとか、医療費をたくさんお支払いいただいていたとか、そういったご事情の上でしっかり関係書類を揃えて申告して初めて還付金が戻ってくるんです」
私はフレームの細い丸眼鏡を人差し指の先でゆくりと持ち上げる。
「いずれにしても一度申告内容を確認する必要があります。申告していただいた時に一緒にお控えをお返ししていると思います。それはご自宅で保管していただいていますよね?」
男はぶつぶつと呟いて、こちらを見ようとしない。確認できる書類がないということだろう。私は男が突きつけてきた源泉徴収票を返して、「話はこれで終わり」というように落ち着いた口調で言葉を締め始める。
「それからお父さんの場合は、給与から所得税が差し引かれていなかったようですから、お返しする税金もなかったということになりますね。では―――」
そこで男性の目の色が明らかに敵意めいたものに変わった。
一瞬にして張り詰めた空気に私は、ああ、きっとこれは怒られるのだと身を構える。
「だぁれがお父さんじゃボケえ!」
「すみません」
「こちとら生涯独身や、家に女なんてずっとおらんのじゃ!それをなんや……それ!お前どういう神経してんねや!」
「申し訳ありません」
「なあ?どういうつもりで言ったんや。なあ、言ってみい!」
「不適切な言葉遣いでした。申し訳ありません」
「ホンマなんやねん!けったくそ悪いわ」
「すみません」
「あんな兄ちゃん、俺ぁ―――――」
それから小一時間ほど男性からの説教は続き、話が終わったころにはすっかり庁舎の窓から夕陽が差していた。トボトボと自席に戻ると、課長が厳しい顔をして私を手招きしている。分かっている。彼が私を呼ぶ理由も、彼が何を言いたいのかも。
「お呼びですか、課長」
「あのさ、白居くん」
こないだの応接研修あったよね……だろうか。
「こないだの応接研修あったよね」
ビンゴ。
「あの時、講師の先生言ってたよねえ。あれ、何て言ってたかなあ」
課長はわざとらしく天を見つめては、考える素振りをする。こうやっておどけた調子で相手の返事を待つ、この人のいつものやり口だ。
「お客さんの呼び方に気をつけること、ですね」
「分かってるじゃん、白居くん。じゃあ、なんでさっきの方に『お父さん』なんて呼んだの。ああやって不愉快に感じるお客さんがいるから気をつけようって話だったでしょ」
「はい」
「なんで言ったの」
「え」
「いや、だから分かってたんでしょ。なんで言ったの」
「それは…、親しみを込めて呼んだ方が理解していただけるかと思って、つい」
課長はいやらしく口角を歪めて、私の顔をじっと目で舐めた。
「白居君さあ」
分かってる。私はぐっと奥歯を噛み締めた。
「白居君は最初からあのお客さんを突き放すような対応をしていたよね。だってもしあのお客さんを思うなら、パンフレットや資料を使って丁寧に説明することができたわけでしょ。それに申告内容に不服があるなら、税務署に案内してあげるのが優しさってものだろう。あの人を思うなら、ね」
それも、分かってる。
「でも白居君はそれをせずに、一辺倒な解答ばかりしていたよね。いや、いいんだよ?それが悪いって訳じゃない。あれ以上突っ込んだ話をすればきっと収まりがつかなくなっていたと思うしねえ」
分かってるんだよ。
「でも社会人として働く以上、そこは筋を通さないと。丁寧な対応をするならする。しないならしないで、簡潔明瞭に答える。曖昧な対応だとお客さんも困るからさ」
分かってる。分かってる。課長が言いたいことも、自分がやらなくちゃいけないことも全部分かってる。だからこれ以上、無駄な説教はやめてくれ。
「―――じゃあ、次からは気を付けて。もう何回も言わないからね。はい、退庁準備して。半にはここ閉めちゃうから」
課長はノートパソコンを閉じると不意に席を立ち上がり、私の肩を軽く叩くと、急ぎ足でその場を去っていった。そういえば今日は娘さんの誕生日だから早く帰りたいとボヤいていた。今から駅前の洋菓子店でケーキでも買っていくのだろうか。それともこの時間なら市街地のデパートはまだ開いているだろうから、娘さんの大好きなアニメキャラクターのぬいぐるみでも買って帰るのかもしれない。とは言え私にとってどうでもいいことだ。無駄な説教が早く終わってくれれば、それでいい。
今日は、金曜日。世のサラリーマンが密かに胸躍らせる日であり、文字通り『金』を落としていく日でもある。窓口の向こうで、疲れた顔に笑い皺を寄せた職員たちが連れ立って歩いている。きっとこれから夜の歓楽街に繰り出すのだろう。楽しそうだが、敢えてあの輪に飛び込みたいとは思わない。「疲れる」ことが分かっているからだ。先輩に気を使ったり、後輩に気を回したり、お酒ではごまかせない心労が覆いかぶさることが分かっているからだ。だから極力あの手の誘いには乗らない。課業後という聖域に飛び込んだ公務員はかくも強気になれるものなのだ。同じ部署の職員も私のこうした性格を知っているから、誰も誘って来ようとしない。ああ、不干渉社会バンザイ。
*
私の名前は
歴史の教科書に出てきそうな古風なこの名前はしばしば実年齢と見た目の年齢を狂わせる。きっと名前からは一国の城主や有名な思想家を思わせ、白髪に白ひげを蓄えたような人間を想起させるのだろう。しかし実際には、撫で肩に胴長の、全く覇気を感じさせない体つき。鉛筆で書いたような細い切れ目に、幸の薄そうな淡白な顔つき。少しフレームの大きい眼鏡が小顔を強調させる、典型的な日本の若者顔と言える。病院の待合室で看護師に名前を呼ばれ席を立つと、皆ギョッとした顔で私を見上げる。それはいつものことで慣れている。しかし、同世代の若い人たちが集まる席だけはやはり恥ずかしくなる。必ず、大正生まれとか明治生まれとか知りもしない過去の偉人の名前を挙げては私を笑い物にする。世間ではそれを口に入れることなく「美味しい」という。自分の名前を馬鹿にされて、それが良しとなる社会もどうかしているが、結局のところ私もその状況を「美味しい」と思っている一人である。小さいころは自分の名前が古臭いと言われ、その都度腹を立てていた。そのうちそれが大衆の意見と分かると、羞恥心を抱くようになった。そして最終的に、それが他の人間にはない自分だけの個性と分かると急に気が楽になった。今でも小馬鹿にされると恥ずかしくなるが、それでも心のどこかに拠り所があればそんなことはどうでもよくなる。会話のきっかけにちょうどいいと考えることもある。白居正臣なんて平成生まれの現代人なんているわけないだろう、そんな風に。
しかし、あだ名をつけられた経験はない。とりわけ背格好に特徴があるわけでもなく、半分空気のように過ごしてきた学生生活のおかげで、あだ名を付けられたことはない。「シラちゃん」「オミ」など名前の一部を拾ったような、言いにくいからつづまったような、そんな呼ばれ方しかしてこなかった。それは私にもわかる。白いままのキャンバスを見せられて、この絵に名前を付けてと言われれば誰でも困ってしまうだろう。
中には飲み会の席で私の古臭い名前とこの丸眼鏡を嗤って、「文豪」とか「日本兵」とか呼んだりする。しかし、それはあだ名にカウントしない。なぜならそれはその場その場で私に付けられた記号だからだ。数百ビットの絵文字と同じなのだ。遠目に見た時、私は紬の無地袴を着た文豪か、帯青茶褐色の軍服に身を包んだ日本兵に見えるのだ。
私の人生は無色そのものだった。
私には一人姉がいる。白居美佳、「美しく」そして「
姉は私の人生をどう思うのだろう。華やかだった自分の人生と比べて、目に映らない私の希薄な人生を嗤うだろうか。姉とは長い間話していない。姉は大学の時に上京してしまったので、その後のことはよく知らない。たまに実家に帰っては来るのだが、親や親せきの熱烈な歓迎を受けてもみくちゃにされているので、敢えて私が口を挟むような機会はない。
ただ親から、旅行会社の企画課で働いているという話は聞いている。人を笑顔にしたい、きっとそんな気持ちで仕事をしているに違いない。…私とは違う。もう年も熟してきているから、大きい仕事も任されているのだろう。重要なツアープロジェクトの企画を担っているに違いない。すべては、皆の笑顔のために。
さすがかつて私を笑顔にしようとした人間だ。
さすが私を「魔法使い」にしようと考えた人間だ。
あの当時、私は指を一振りして「魔法」を使っていた。テレビに、エアコンに、室内の照明に、ありとあらゆる無機物に命の息吹を吹き込んでいた。自分の指の動きと連動して、テレビがつく。いつも決まった時間に見ていた大好きなアニメの事を思い浮かべながら、指を振るとチャンネルがひとりでに変わった。快感だった。自分の指先一つで何でも自分の思い通りになる気がした。私の欲望は過激になっていった。大嫌いなニンジンよ消えて無くなれ、朝起きたら宿題が終わっててくれ、そんな願いで「魔法」を使っていた。ただテレビの時のように上手くいかなかったので、ニンジンを消すときは目をつぶりながら指を振るようにした。宿題は机に広げたままにして寝ていれば全て綺麗に済んでいた。
私はいよいよ自分が「魔法使い」になったのだと思い込み始めた矢先、ある日のこと、いつものようにテレビを見ていると退屈なニュース番組が始まったので「消えろ」と言って指を一振りした。テレビは思い通りに消えたのだが、黒い画面に反射して映ったのはソファの陰で身を潜める姉の姿だった。私はてっきり自分一人だけだと思っていたので驚いて「何をしていたのか」と姉を問い詰めた。姉は正直に事の次第を話した。笑顔だった。私に夢を見させたかったのだと笑っていた。私は指を一振りする時、実はずっと姉が隠れていたという恐怖と今までのすべての魔法が虚構だということにショックを感じ、三日三晩ふさぎ込んでしまった。両親と姉は大げさな奴だと笑い飛ばした。
ただ今ならこう思える。姉が私に隠れて悪事を企んでいたことより、姉の悪事に気づかず大人になることの方がよっぽど怖いということに。
今でもふとあの時の感覚が蘇ってしまうからだ。「魔法」が使えるあの感覚を。全てが思い通りになる、あの感覚が。大人になった今なら分かる、それは非常に危険で
だから、あの企画に参加すべきではなかった。
出会うべきでなかった。
『マジカル・ジャーニー』―――この世で唯一、魔法が使える瞬間に。
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