#3 Cherry.K

 そう、サラダボウルだ。

 夜のファミレスは朝や昼と違い、様々な理由で来店する客が多いから、その日によって店の雰囲気は大きく異なる。終電をなくして路頭に迷う学生やサラリーマンが来店すれば、店内は狂乱の地獄絵図と化し、夜の街を徘徊するいい年した大人たちが明かりにつられてやって来れば、世界の隅っこみたいな陰気臭い場所になる。それでもここに同じ顔の人間はいない。みなそれぞれ多様なドラマを抱えて生きてきた、人間だ。そういう意味で、ここはサラダボウルだと思う。決して色とりどりの新鮮な野菜たちとは言えないけど、みなが確かに色を持っている。ような色を。


 さて今日は何色だろう。そんなことを考えながら、擦り切れて色の禿げたエプロンの、腰の紐をギュッと締める。体のラインがくっきり出るくらいきつく締めるのが好みなので、今日も思い切り両の腕でそれを引っ張る。それを後ろ手で鏡を見ながら、慣れた手つきでちょうちょ結びをする。


「……よしっと!おっけ!今日も仕事すっかね!」


「やる気あんねえ、頼むよサクちゃん」

 

 休憩室のパイプ椅子にだらしなく腰を委ね、天井を見上げる中年男性が一人。大量のトマトソースがペンキをぶちまけたように、油の跳ねたシミが満点の星空のように、鮮やかな模様がキッチンの白いエプロンに描かれている。今日はよほどランチが忙しかったと見える。


「あ山川さん、お疲れ」

「おう」

 

 彼は副店長の、山川さんだ。バイトの私と違い、社員ではあるが、年が近いので気楽に話す間柄にある。三十路になったばかりだが、既に三児のパパだと言うのだから驚きだ。


「サクちゃぁん、今日もランチ大変だったんだからあ」

「何かあった?」

「いや、ちょっと、ほんのちょっとよ?ほんのちょっとオーダーが溜まったくらいで、殿が飛び出してきてさ。大層な顔して、やれ早く運べだの、やれ長居する客を追い出せだの煩くてさ、つい俺カっとなって…」


 店長は本社から派遣されてきた若い社員が勤めており、その居丈高な振る舞いと乱暴な口ぶりから「殿」と陰で呼ばれている。ちなみに山川さんは、異動の多いこの職場で任期五年目を迎えるベテランで、陰の店長でもある。


「カっとなって?」

「いつもの三倍のスピードで仕事した」

「ふっ、なあんだ。トマトソースそんなにしてるから、殿にぶっかけたのかと思ったわ」

「これか?これは…、赤いと三倍のスピードで接近すると言うからな」

「なんの話?」

「ま、気にすんな。のジョークだよ。ジョーク」

「ふうん」


 話の内容などどうでもいいが、山川さんは自分のことをもうだと思っていることに感慨深い気持ちになる。年上とは言えアタシが彼とそれほど年が離れてないことはよく分かっているはずだ。それでも彼が自分を年増の人間と意識しているなら、アタシに対してもそう感じているんだろうなと思う。

 すでに家庭を持ってる彼から見て、未だに結婚相手も見つからないアラサーフリーターはどう映っているんだろう。特に何の感情を抱いてなくても、立場を替えたいと思うことはないだろう。きっと。


「それより、サクちゃんどうなの。は。明日もあるんだろ」

「まあ、ね」

 

 アタシは眉を八の字に下げて器用に口角を上げ、精一杯の笑顔を繕う。


「今日、深夜入っちゃって大丈夫なわけ」

「明日って行っても夜だし、大丈夫。気遣ってくれてありがとう」

「なに言ってんのサクちゃん。俺ら応援してんだからさ。サクちゃんの夢の為ならなんだってするって。そうだ。シフト誰かに代わってもらおうか?ディナーだけやって、深夜は暇そうなやつに任せてさ」


 ズキッ。心臓がきしむ、この音を聞いたのは人生で何度目だろう。


「このあとのシフトだと……、ああ、別府なんかたぶん暇だろ。アイツ本格的に就活入る前に稼ぎたいって言ってたしなあ。それにサクちゃんの為なら喜んでシフト代わるぞ、アイツ」

「へえ…、アタシ彼に怖がられてると思ったけど……」

「そうなん?俺はむしろ逆かな、と思ってたけど……まあ、いいや。で、どうする?寝ときたいだろ」

「いいっていいって。昼にぐっすり寝て行くから」

「でもさ、ああいうのって……、俺分かんないけど、すっごい集中力使うんだろ?大事をとってしっかり休んだ方がいいんじゃないか?」

「集中力なんてそんな…、しっかり練習してれば、誰でもできるし」

「誰でもっちゅうことはねえだろ。才能のある人間にしかできないことだろ」

「……山川さんにもできるよ」

「無理無理。俺は至って普通の人間さ。

 

 ズキリ。脇腹より上の、心臓より下の、よく分からない臓器の隙間みたいな部分が激しく痛む。この痛みも随分と長い間経験してるけど、やっぱり慣れないもんなんだなあ。


「どうする?やっぱり深夜は代わってもらうか」

「……いいよいいよ。ホントその気持ちだけで十分だって、山川さん」


 今アタシはどんな顔をしているんだろう。これ以上笑い続けるのは苦しいわ。

 そんなアタシの気持ちを知ってか知らずか山川さんはそれから「そうか」と一言、再び全身の力を抜いてパイプ椅子に身を預けた。



 *


 

 アタシの名前は Cherry.K 、みんなを夢の世界に誘う魔法使い。

 轟々と燃える火を指先一本で自由に操り、ウインク一つでドレスに着替え、ありとあらゆる場所に瞬間的に移動する。時には頭の中を覗いて、相手の行動をピタリと予知してみせる。今欲しいと思うモノをこの場に出すことだってできる。空だって自由に飛び回る。時間を止めることだってできる。


 だから人々は私を魔法使いだと思っている。

 

 私の指の動きを合図に送風機が動き出せば、火は蛇のように動いて見える。一瞬でも客の目線を外せば、衣装の早着替えなんて難しくない。瞬間移動は私によく似たスタッフが客の背後に一瞬現れるだけ。相手の行動を予知しているように見えるのは、実は私が相手に行動の選択肢を与えていないからだ。今欲しいと思うモノを当てるのも簡単で、これも自由に回答するような形式を採りながら、実は質問の中で解答が絞られていく。空を自由に飛び回るのはワイヤーを使った目の錯覚で、時間を止めるのは対象の客以外が全員サクラで、ピタリと固まっているだけだ。


 そんなただのマジシャンである私を本物の魔法使いだと思っている人間は何人いるだろう。年端のいかない少年少女はいざ知らず、いい年した大人は、内心でそのカラクリを露にしようと血眼になっているに違いない。

 いつもステージで繰り広げられるのはそんな勝負だ。いかに客を上手く騙せるか、魔法を使っているというていを、その現場の空気感をいかに保てるか、それがマジシャンの双肩に掛かった重荷だったりする。


 何が夢の世界に誘う魔法使いだ。人間の好奇心と猜疑さいぎ心を食い物にしている商売じゃないか。


 

 桜見さくらみ杏子きょうこ、数え年で29歳の、自称マジシャン兼フリーアルバイター。芸能人みたいな名前と、生まれ持ったこの端正な顔立ちで、学生のころから「アイドル」と言われてきた。おかげさまで多くの友人に慕われ、恋愛遍歴を語らせれば一晩で尽きることはなく、実に華々しい青春を送ってきた。私は常に誰かの一歩先に立ち続けてきた。

 人生の歯車が少しずつ狂い始めたのは、大学で四人目の彼氏と付き合い始めたときのことだ。彼の趣味がマジックで、飲み会で華麗に披露する姿に私は惚れてしまった。今にしてみれば皆が楽しくお酒を飲んでいるときに、得意のマジックをこれ見よがしに披露して女の子にちやほやされたいだけの、よこしまな自己顕示欲の塊を好きになるなんて私もどうかしていた。それでも当時は彼のことをよく知りたいと思う一心でマジックを始めてみた。これが予想以上に私の遊び心を掻き立て、一緒に大学の奇術サークルに入るまでハマってしまった。程なくして彼とは別れたが、私はその後も腕を磨き続け、学生マジシャンが参加する地方の大会で優勝を収めるほどの実力を持つようになった。そして、就職活動もほどほどに私はプロマジシャンとして生きていくことを決心し、上京。それから都内のマジックバーを転々とし、民間の奇術団体に登録して地方の営業に回る毎日を過ごしている。目下、マジシャンの収入で食べていくなど到底できるわけもなく、起きている時間のほとんどをファミレスのバイトに充てている。

 

 自分に自信が持てなくなったのはいつからだろう。アイドルと周りに持て囃されていた私はどこに行ってしまったのだろう。あの頃、私の玉座を支えていたかつてのクラスメートたちは立派な大人になっている。ある者は会社で重要な役を任され、ある者は努力により地位と名声を得、ある者は巧みな頭脳で巨万の富を我が物とし、ある者は体に新たな生を宿しながら自然のさがを全うしている。

 対する私はどうだ。夢と希望を持って華やかな舞台に立ったはいいが、自分は周囲の人間と違う「何か」を持っていると信じて疑わず、ただいたずらに年を重ねてきた。

 自信を持てなくなったのは、いつからだ。そう自問しても私は何か自分が別の方向を向いて話しているような感覚に陥る。自信を持たなくなったのではない。いつだって私は自信を持って、自分のマジックを披露している。私はいつか成功するのだとそう信じて、毎日毎日客を騙し続けている。自信を持たなくなったのではない。。私はやがて自分が自信と呼ぶそれを信じられなくなって、自信を持てなくなった。自身を保てなくなった。


 それから、私は魔法使いから詐欺師になった。自分のしているこの行為が人を欺くための技術と理解して、私は舞台に立つようになった。いつでも辞めたいと思った。でも、やめられなかった。もう自分の手に何も残っていないと気づいたからだ。マジシャンでない私はすでに私でないという恐怖が私に存在証明のジレンマに陥らせる。


 だから、今日も舞台に立つ。



 魔法使いだけが持つとされるオッドアイ―――――カラーコンタクトを入れる。

 魔法使いが使うサンザシの木の杖―――――百円ショップで買った木製の杖を手に持つ。

 魔法使いを象徴する三角帽子―――通販で買ったパーティグッズの帽子を被る。


 

 「次に登場するは―――その瞳が妖しく光る世紀の魔術師、今宵も皆さんを夢の世界へと誘います!CherryちぇりいいいKけぇい!!」



 プロレスみたいな司会の言葉を合図に、出囃子の音頭が重低音を響かせる。七色の光線がステージを彩り、無人の舞台にまばらな拍手が間を埋める。コツコツと安いブーツの足音が室内に響き、その魔法使いは現れる。


 目深にかぶった三角帽子から、瞳が色を覗かせる。


 深夜のファミレスで見た、くすんだ色の瞳が―――――。 





 「ありがとうございました!」


 私は無精ひげの似合うマジックバーの店長に頭を下げ、出演料5,000円の入った封筒を握りしめると、その場を後にした。夜の歓楽街はまだ明明とネオンが光って、客引きが道行く人間の足を止める。背広を着ている人間たちがその甘言に耳を寄せる中、私は颯爽とその間隙を縫って速足で歩いていく。分かっている。どうせこの街で私を呼び止めようとするものなどいない。こんな時間にこの街を女性一人で歩くなんて、か、かのどちらかだ。この街を知っている人間は、誰も怖がって声なんて掛けて来ない。こうして逃げるようにそそくさと帰っても意味はないが、やはりここの雰囲気は慣れないのだ。欲望渦巻くこの街の雰囲気が。それでも、他所に比べてここは仕事の受注が多い。理由はどうあれ、人の集まるところに需要が集中するものだ。

 お酒の入った大人たちには、私くらいの年齢の女性マジシャンなんて、



 「……はあ」


 私は誰に聞かせるでもなく、一つ大きな溜息をついた。


 交通費をかけたくないという理由でアパートから50分かけて乗ってきた、愛用の自転車をコンビニの駐輪場から押してくると、私はへこむタイヤの空気圧を確認しながらサドルに跨る。


 「……よっと、さて帰りますかー」


 最近独り言が多くなっていけないと自戒していると、周囲の光に紛れた自転車の淡いライトの先に、一人の女性がなにやら熱心に本を読みこんでいるのが見えた。

灰色のパンツスーツにネイビーのカットソー、カジュアルな服装だがオフィスビルから出てきたところを見ると、仕事帰りのOLらしい。こんな時間までご苦労なことだと、私は彼女の脇を通り抜ける。



 「あれちょっと」


 「ぅわって!あぶ―――」


 その女性はこともあろうか、自転車で走り抜けようとする私の背中の生地を掴んで引っ張ったのだ。不自然に自分のお腹に張り付く服の違和感に気づき、私は足を止められたが、思い切りよくペダルを踏んでいれば私は自転車ごと地べたに叩きつけられていたに違いない。この女、何てことをするんだ。


 「あれ杏子じゃん」

 「……って、あ」


 その女には見覚えがあった。こんな通り魔みたいな真似をされれば恐怖こそするのが人間というものだが、この時ばかりは相手が相手ということもあり、私は呆れに似た感情を抱いていた。


 「こんな時間に何してんの、杏子」

 「それはどう考えてもアタシのセリフでしょうが。こんな時間に何ほっつき歩いてんの、美佳」


 白居しろい美佳みか、学生時代から親交の深い友人だ。大学はそれぞれ別に通っていたが、同じ上京組としてたまに連絡も取り合っていた。ここ数年はなかなか顔を見せられずにいたが。


 「私?仕事だよ仕事。最近ちょっと忙しくなってね」

 「へえ、旅行会社だっけ?」

 「そうそう、ちっちゃい旅行会社。人が少ないから何かと大変でさあ、話せば長くなるんだけど……、とにかく今大変なのよ」

 「そっか」


 ああ、あの美佳も立派に社会人してるんだ。前から分かっていたことだが、久々にこうして会ってみると、改めて精神にものがある。


 「杏子は?マジックやってる?」

 「やってる。今日も夕方からこなしてきたとこ」

 「ほえー、ヨンステって何?ステージ四回分ってこと?」

 「そう、まあ一回は短いし、ギャラも安いけどね」


 肩を上げて舞台道具の入ったバッグを背負い直すと、ほとんど重みを感じない財布が中で跳ねる。


 「週に何回かしか仕事ないからマジシャンとしてはまだ食べていけなくてさ、この大通り沿いのファミレスでバイトしてる。ほとんどバイト代で生活してるから毎日生きていくのも大変よ。これじゃあ、どっちが本業か分かんないわ」


 美佳の顔が神妙な面持ちになっていく。


 「世界大会とかも出たけど、やっぱり上には上がいてすごいよ。プロとして生きていくなんて夢のまた夢って感じ。このまま続けても芽が出ないかもしれないね」


 美佳はついに笑み一つ零さなくなった。

 ここまで言えば、大体の人は私を可哀そうな人とレッテルを貼ってそれ以上突っ込んだ話をしなくなる。仲のいい友人にまでこんなことを言い始めるなんて、とうとう私も来るところまで来たと思う。しかし最早、ちっぽけなプライドをかざしても意味がないと、そう思わざるを得ない年齢になったのだ。


 さあ、美佳。久しぶりに会った私を哀れむがいい。

 


 「え杏子、もしかして今暇なの?」


 「え?」

 「え」

 「いまアタシに暇って聞いた?」

 「聞いたけど……、違うの?仕事ないんでしょ」

 「そう、だけどぉ……」


 この女は……いつもそうだ。再び呆れが私の語気に乗る。


 「それならいい話があるよ杏子」


 彼女の目が爛々と輝く。


 「いい話?」

 「そう、私と一緒に夢の続きを描こう」

 「夢の続き……?」


 「魔法使いになりたいって夢、叶えたくない?」



 この日、彼女から聞いた夢の舞台―――『マジカル・ジャーニー』。

 私にとって夢は夢でも「悪夢」と化す夢になろうとは、この時の私には知る由もなかった。

 


 

 



 

 

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