#2 ZIP

「お!ジップ!…授業終わった?」

 

 僕は、バイトのスケジュールを確認するために起動させていたスマホから目線を剥がすと、背後からやって来た友人の方に振り返る。


「コージか。終わったよ。てか授業じゃなくて説明会だったけど」

「説明会?」

「就職説明会だよ。コージ行ってないの?」

「ああ……、忘れてた」

「早いとこだともうエントリーシート受け付けてるよ」

「エンタラ……なに?」

「エ・ン・ト・リ・イ・シ・イ・ト」


 僕はわざとらしく口を大きく開けては、ができるくらい思い切り引いてみた。


「なにそれ」

「知らないの?あの、まあ、履歴書みたいなものだよ」


 あと数ヶ月で四年生になろうという大学生がよもや知るまいと思い、僕は適当に答える。


「知らね。だって俺、就職するかどうか分かんねえし」

「え?コージ就職しないの?」

「あ、絶対しないってわけじゃないけど。今は悩み中というか、どうしても行きたいっていう方に気持ちが傾いたら行くかもしれない」


 コージは歯切れの悪い喋り方をする。目線が教室棟の三階くらい上の方を向いていて、少し落ち着きがないようにも見える。僕は彼にも訊かれたくない質問はあるのだなと口ごもる。


 「ん……。あ、そっか」


 僕だって就職に対する不安がないと言えば嘘になる。これまで数度の受験を経験してきて、その度に人生の選択に悩んできた。ただ毎度考えていたことがある。もしここで道を誤ったとしても、またもう一方の道に戻れる。この試験がダメなら次がある。高校受験がダメでも大学受験がある。いつかきっと軌道修正できる。そんな風にあらぬ幻想を抱いてきた。しかし、いまその道がはっきりと見えて怖くなってきた。会社に入ればそれなりの給料を貰って、たまに上司に叱責されて、でも気の合う同期なんかと飲みに行く時間が楽しくて、そのうち若手の階段を登り切って、激しい出世争いに揉まれると、心も体も憔悴しきって、気づけばどこにでもいるサラリーマンになってて、定年が近づくと老後の楽しみに思いを馳せて、老いた人間の一日がひどく短いことに気づいたときに……死ぬ。

 誰に教えられたわけでもない、そんな人生の既定路線が目に見えてきて、僕はいまその分岐路に立たされていることに、恐怖を覚えるようになった。


 だからコージの気持ちも分からないでもない。でもこの時、僕の心の内を占めていたのはコージへの共感ではなく、微かな苛立ちと怒りだった。


 

「やりたいことがあるんだよ」

 

 コージは鼻で笑いながら、言葉を続ける。


「俺、院に行こうと思っててさ」

「院?」

「就職したら、今の能力それ一本で勝負…って感じじゃん。俺さ、もっと専門知識身に付けたいんだよな」


 コージは勉強をしない方ではない。大学の授業も、二日酔いを理由にたまにサボることはあるけれど、いつも単位単位と言ってはノートを熱心に読み込んでいたり、どちらかといえば健全な方の大学生だ。ただ、それは無事に卒業するために必死にもがいているだけで、学問それ自体が好きなわけではない。本来なら大学院に行くような人種の人間ではない。


 でも僕には分かる。彼は大学院に行くことによって


「そっか、院か」

「ジップは?就職すんの」


 当たり前だろ、と語気を強めて言い返す自分を想像して思いとどまる。


「あ就職するのか。説明会行ってたんだもんな」

「う、うん。とりあえず、ね。どんな感じかと思ってさ」

「実際、どうよ。就職したいと思った?」

「それは、まあ…」


 直球な問いかけに言い切ることのできなかった自分の不甲斐なさと、コージへの当て外れな苛立ちが入り混じる。なんだこれ。


「あれ、ジップもそんな感じ?だったら一緒に院行っちゃう?」

「いや、それはいいよ」

「じょーだんじょーだん。ゼミの高橋先生が推薦してくれんだけど、一人だけならって感じだったから…、俺もジップもってのは多分無理だな」

「大丈夫だよ。さすがに、院は行かないと思うから」


 コージの眉がピクリと動く。


「はは。さすがに、って」

 

 僕は「あ」と声を漏らして、慌てて彼の言葉を追う。


「違う違う、そういう意味じゃなくってさ。俺なんかのレベルで院に行けるかって話」


 そう切り替えしてはみたが、コージより僕の方が学業に関しては優秀で、周囲もそう認知しているだろうし、お互いそれを了解している節もある。彼がテスト前に必死に読み込むノートも元は、僕が授業内容をまとめたものだ。その僕が大学院に行けるレベルじゃないからと突っぱねるのは、それはそれで嫌味に聞こえるだろう。


「はあ、そういうこと?いやジップの実力で行けへんかったら俺も行けへんやんけえ」


 彼は下手な関西弁でおどけてみせる。僕も示し合わせたように苦笑いを浮かべる。


 駄目だ、なんだかこの話題はギクシャクとしてしまう。別の話題に換えよう、そう思った矢先にコージのスマホに着信が入る。


「あ、コージ電話」

「マジ?……ホントだ、やべ、バイトの先輩じゃん。あれ、今日シフト入ってたっけ。悪いジップ、また今度!」


 そう言いながら、はきはきとした口調で電話口の相手と話すコージの後ろ姿が、建物の影に消えていった。


 時刻は三時を指している。バイトの時間まではまだ余裕がある。食堂で少しゆっくりしてから行こう。そう思い立った僕は、講堂前の大広間を横切って食堂のあるA棟へと歩いていく。夕方からの授業に備えて腹ごしらえをしようと、生協の売店でお菓子を買う生徒たちの列を掻き分け進んだところで、ポケットのスマホが短くピロリンと音を立てる。


『先輩、いま空いてますか?』


 同じ学科の後輩からのメールだった。

 僕は素早く『ひま。食堂にいる』と返すと、『了解です。そちらに向かいます』と数秒の間に返ってきた。


 四年生にもなると、この時間帯はどこの席が空いているかなんて勘はすぐに働いて、なんとなくあそこの席は空いているだろう、とヤマを張る。これが確かにピンポイントで空いていると、少し得意げな気持ちになる。千里眼でも使ったような気分になり、自分は実は魔法が使えるのでないかと子供じみたことを考えたりする。しかしそれがと理解したのは遠い昔のことだ。立派に成人した人間の考えることではないことはよく知ってる。


「あ……」


 そう声にならない声を漏らしてしまった。ヤマを張っていた席が埋まっている。

 ほら、人間の勘なんて頼りにならないし、魔法なんてものも存在しない。こういう日々のふとした気づきが、童心を捨てた僕の成長に繋がっているんだ。


 仕方がないので、後輩に一言『目的地変更。図書館前のカフェに』とメールを入れ、踵を返した。



 *



「いつもそれ飲んでますよね、先輩」

「そう、かな。特に意識したことないけど」

「無意識ってことはよっぽど好きなんですよ。先輩の魂が欲しているんです」

「そういうもんかな」

「先輩、知ってますか。人間の恋愛と食事って、そもそもの性質が同じなんですって。一食の間にあれもこれも食べたい人は浮気性が酷くて、逆に一品ずつ完食したい人は一途だけど束縛が激しい。一品の中に味の変化を求めたい人は飽き性で長続きしない。急いでメインディッシュから食べる人はすぐにヤリたいだけ。サイドメニューからゆっくり食べたい人は、慎重だけど恋愛を大事にしたい……とかそういう感じらしいんです」

「へえ、確かに言われてみれば、そうかもね」 


 腰を浮かしてストローを口に咥える彼女を見つめる。

 すると、それに気づいた彼女とと目が合った。


「あ、見ないでくださいよ」

「え何で」

「さっきも言いましたよね。食事は恋愛と一緒なんです。人に食事してるとこを見られると、恥ずかしいなあって思うときありません?」

「ある、かな」

「私はいま恋をしてるんです。このカフェオレと熱いキスをしようとしてるんです。そんなとこ見られたら恥ずかしいですよね」

 

 彼女は口を真一文字に結んで上目遣いに僕を見る。


「それは言い過ぎでしょ」

「言い過ぎじゃないですよ!そういうもんなんです!先輩には分からないでしょうけど―――――!」


 そう言って眉をひそめたまま、ずずずと音を立て一気にカフェオレを吸い上げていく。水位がみるみる下がっていき、一息でそれを飲み干してしまうのではないかと思われたが、彼女はそれをビールジョッキよろしく机上に叩きつけた。表面についた結露が元の高さを表していて、その飲みっぷりが実に大胆だったかを物語っている。


「お腹壊すよ」

「私はいまとあっつういキスを交わしました。先輩に見せつけるために」

ね」

「どう感じました?少しでも妬ましく感じてくれました?」

 

 部活帰りの中学生がコンビニで買った紙パックのジュースを、すごい形相で飲み干すみたいな、そんな芸当をされて色情を催すはずがない。


「感じるわけないだろ。なんでそんな甲斐性のない無機物に対抗心を燃やさなきゃいけないんだよ」

「じゃあ、甲斐性のある有機物だったら嫉妬してたんですか?」


 僕は何を思ったか「しまった」と口を押さえる。よく考えれば何もいないのだが、上手く彼女に乗せられた気がして悔しかったのだ。


「例えば…、向こうの席に座っている外国語学部のハーフイケメンとキスを交わしてたら、嫉妬してたんですか?」

「……知るか」

「あれ先輩?こっち見てください?顔が赤くなってますよ」

「なってない」

「なってますよ」

「なってない」

「そうですか。それならそれでもいいです。顔が赤くなってるのに、赤くなってないと言い張る先輩も……、可愛いです」


 彼女には何をどう言い返しても無理だ。正解なんてないのだろう。黒も白も、すべてグレーにしようとする人間だ。言い返す気力を持つだけ無駄と言ったところだろう。

 

「まったく、先輩は素直じゃないですね」

「どっちがだよ」

「これは私なりの愛情表現ですよ。と言っても私は、トレンディドラマみたいな熱い展開が好きなんですけどね。君のことが好きだ……からの、激しいハグ!これが王道じゃないですか」

「そうか?」

「王道ですよ。でも先輩には直球で勝負しても無理だと分かりました。だから回り道をして、邪道を選んでいるんです。同じ道を歩かないと出会えませんから」


 そう言って悪戯な笑みを浮かべる彼女を僕は直視できなかった。


「先輩」

「なに」

「こっち見てくださいよ」

「なんで」

「こないだの返事まだ聞いてないからですよ」 


 一つも二つもトーンを落とした声に僕はギョッとして、横目で彼女をちらと見る。その真っ直ぐな瞳が僕の左頬に突き刺さっている。


 あれは一年前、隣席の学生とペアワークを行う授業に参加した時のこと、その相方ペアというのが彼女だった。僕たちはお互い共通の趣味があるわけでなく、とりとめもない話をしているだけで馬が合った。そのうち授業外でも求めて会うようになり、程なくして付き合うこととなった。その数か月のお互いの距離の詰め方を考えれば、必然の帰着だったと言える。

 しかし、それも長くは続かなかった。理由はよく覚えていないが、些細なことで喧嘩したのだと思う。メールの返信が遅い、とかそんなありふれた内容だったような気もする。それまで積もり積もった不満もあったのだろうが、きっかけというのは、かくもどうでもいいことが発端となる。結局、僕の方から別れを切り出し、彼女もそれに二つ返事で承諾したのが一か月前のことだ。


 そして彼女の言う「返事」というのがその数日後のことで、何やら難しいことを色々とまくし立てていたが、「やっぱり寄りを戻したい」というのが彼女の主張だった。その時、僕自身も目まぐるしく動く別れと出会いに頭が追い付かなくなり、「少し時間が欲しい」という曖昧な返事をしてしまった。今にしてみれば、黒も白もグレーにしたがるのはお互い様だったというわけだ。


 

「返事……聞いてないですよ」

「そうだね」


 ようやく僕は彼女に向き直って一息つく。


「今日ここに呼んでくれたのは、返事を聞かせてくれるためじゃないんですか」

「いや、それは……。というか、呼んだのはそっちだろ」

「私は『空いてますか?』って聞いただけですよ。先輩が呼んだんじゃないですか」

「僕は『食堂にいる』って言っただけだ。呼んではない。そっちが一方的に来たんじゃないか」

「そうですか。じゃあ、なんで行き先をカフェに変えたことまで教えてくれたんですか。その時、先輩は食堂にいたんですよね。私のことは放っておいて、勝手にカフェに来ればよかったじゃないですか」

「いや、それは……、無意識のうちに」


 彼女は体を起こしてグイっと顔を寄せる。


「無意識ってことはよっぽど好きなんです。魂が欲しているんですよ。先輩が、私を、無意識のうちに」

 

 ブラックコーヒーがカランと音を立てる。僕はそのまま何も言い出せなくなった。分からない。僕は彼女が好きなのか。確かにこうして空いた時間に、彼女とおしゃべりをすることが多い。ただ僕にとってそれは、寂しい口元の気を紛らわせてくれる読書中のコーヒーと同じで、本意気で彼女が好きでないという何よりの証拠だ。つまり、その、嗜好品のようなものと言えば、きっと彼女は僕の頬をひっぱたくだろうが、要するにそういうことだった。だから、ひと月前に別れを切り出した。何となくそれが最善の方法だと思ったのだ。


「無意識ってそういうことじゃないですか?」

「……」


 僕は黙ってしまった。 


「先輩は口元までジップになってしまったんですか」


 彼女は僕の「ジップ」というあだ名を、もじったつもりなのだろう。それから真剣な顔つきで、僕の唇に親指と人差し指の爪先を当てながら、唇の線に沿って横に引いていく。ジッパーを開くようなその仕草を僕はじっと見つめた。いつもなら「やめろよ」なんて言いながら、彼女の奇怪な行動に身じろぎしたことだろう。


結衣ゆい……、泣くなよ」


 彼女の涙が僕の思考を停止させた。

 

 こうなったら男の僕がやることは一つしかない。彼女をそっと抱き寄せる。彼女の額が僕の薄い胸板をトンとノックする。


 ああ……、またグレーになる。


 



 本名、別府べっぷ京志郎きょうしろう

 どうしても温泉のイメージが先行するこの名字に悩まされてきたのは、幼少時代に遡る。父方の実家が銭湯を経営していたことが、更に輪をかけていた。生まれつき色白の僕は、白い水泳帽を被ると「温泉たまご」と言われ、体育の後でほんのり赤らんだ顔でタオルを首にかけると「風呂上り」と冷やかされ、そして掃除中、机を動かそうと力んだ時におならをしてしまった時は「硫黄臭い」と一年間いじめられた。


 そんな僕が温泉の呪縛から解き放たれたのは、大学生になってからのことだ。それまで「別府」と呼ばれていた僕の名前は、第二外国語として受講していたスペイン語教師の一言によって、劇的な変化を遂げることになった。


―――――Joséホセはスペインでは一般的な名前ですが、愛称としてJoselitoホセリートPepeペペなんて言い方もします。カタルーニャ語ではこれをJosepジョゼップ、愛称をPepペップと言って……。


 愛称をPepペップと言って。Pepペップと言って。Pepペップと―――――。


 その時、皆の耳には「Pep(ペップ)」が「別府(ベップ)」に聞こえたのだろう。僕の近くに座っていた友人たちが、意味ありげに笑みを浮かべた。その日から僕の名前は「ジョゼップ」になり、二音節がどうにも言いづらいと「ゼップ」になり、なんかおしゃれだという理由で「ジップ」になった。

 かくのごとくして、硫黄臭い僕の名前は、近未来的な名前へと変貌を遂げた。僕を温泉たまごなどと呼んでいた昔の友人が聞けば驚くのだろう。僕だって最初は戸惑いもあったが、それもここで四年目を迎えれば気にもならなくなった。生まれながらにして「ジップ」という名前だったとそう思うことさえある。


 このあだ名は得をすることが多かった。友人にその名で呼ばれると、別の友人から「どういう意味?」と必ず聞かれる。あれこれ説明しているうちに、その友人も面白がってその名で呼ぶようになり、そしてまた別の友人が…と輪がどんどん広がっていった。

 のちに彼女となる結衣ゆいと話し始めたのもそれがきっかけだった。自称温泉通で、ラジオ好き、おまけに海外サッカー好きという三点揃い踏みの彼女は、僕の名前に大層興味を示したようだった。僕は、温泉については過去のトラウマがあるし、ラジオなんて夏の神社でしか聞いたことがないし、海外サッカーなんて縁遠いものに関わりがなければ、未だに何と関係しているのかも分からない。

 そんな僕でも思わぬところから出会いの幅が広がっていった。世間から言わせれば僕は「大学デビュー」というものをしてしまったのかもしれない。それまでの学生生活にもそれなりに満足していたが、今いる大学の方がよほど充実しているように思う。たくさんの友達に囲まれ、いとおしい彼女がいる。僕の気概がどうあれ、芋臭いさなぎから、世間のイメージする大学生という華やかな蝶に羽化してしまったのだろう。


 しかし、それは全て「ジップ」による効果だ。


 だから時にふと思うことがある。この名前が幼少時代の僕に付けられた名前だったら?硫黄臭い湯上り温泉卵などというレッテルを貼られることなく、世界の秘湯に詳しいスパニッシュなラジオパーソナリティーとして、スマートな人間になっていたかもしれない。


 実はこんなに魅力的な人間だったんだと、旧友たちに知らしめてやりたい、そんな衝動に突き動かされる時がある。


 そのためには過去に戻れる、もしくは人々の印象操作ができる、そんな「魔法」が使えれば―――――と我ながら馬鹿げたことを思う。


 でも、その考えが馬鹿げていると思えば思うほど、それは夢として肥大していく。


 馬鹿げていると思うから夢であり続ける。


 だから、それが馬鹿げたものでも何でもなく、夢が夢でなくなる瞬間、そんな瞬間が訪れるなんて思いもしなかった。


 『マジカル・ジャーニー』―――あの企画に参加するまでは。


 



 



 

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