そうして集中力を途切れさせないために一度休憩を挟みつつ、ほかの原稿の校閲をしていると、しばらくしてその櫻田が戻ってきた。行ってくる、と言って出ていってから、優に四時間半は経っている。櫻田が校閲を頼みに来たのが午後一のことだったので、外はおそらく、徐々に日が落ちて空がオレンジ色に染まりつつある頃だろうか。

 残念ながら校閲部は地下にあり、窓もないので想像するしかないが、額にびっしょりと汗をかきながら、はあはあと肩で荒く息をしている櫻田を見ると、外も相当、暑かったと思われる。今日の都心は真夏日まで気温が上がる予報だった。……さすがにご苦労だ。

「ご、ごめん。喉がカラカラだったんだ、助かる」

 冷えた麦茶を差し出すと、そう言ってあっという間に飲み干した櫻田は、口の周りに付いた水滴を半袖シャツの肩口で拭って「あー、生き返るー……」と天井を仰いだ。顔も赤いし、外はちひろが想像するよりもっと暑かったに違いない。

「あの、さっそくで悪いんですけど、校閲は一通り終わったので、編集さんに少し手直しをしてもらいたいんです。データの入稿までもう時間がありません。お願いします」

 しかし、櫻田のことを気遣うのもここまでだ。

 校閲部のドアに注目していたが、小野寺さんと思しき人が入ってくる気配は未だない。ここは櫻田にやってもらうしかないのだ。文芸誌の校閲も、本になる際の校閲と同じく第三稿まで。午後十時がリミットなので、すぐにでも取り掛からないと間に合わない。

「わかってる。とりあえず小野寺さん本人にも会えて掲載の許可はもらった。好きに文章をいじってくれていいっていうことだから、その原稿、もらうね」

「あ、はい」

 ――けれど。

「どこで作業しようかな。あ、あそこのミーティングテーブルがいいかな……」

 そう言って校閲部の中をきょろきょろと見回した直後、突如として櫻田の背中が崩れ落ちた。一拍遅れてドタン、という大きな音がし、ちひろの目の前で櫻田が倒れる。

 あまりに大きな音に、普段ヘッドフォンや耳栓をして作業に集中している同僚たちも何事かとちひろに注目する。そんな中、身が竦んで動けないちひろの代わりに、竹林が駆け寄って櫻田を抱き起こす。すると櫻田は先ほどよりもさらに赤くなった顔で苦しそうに表情を歪めていて、意識はあるようだが、自分の力では起き上がれない様子だった。

「大丈夫ですか、櫻田君! 斎藤さん、ありったけの氷と、氷水で冷やした濡れタオル、それとペットボトルに冷えた麦茶を移して大至急持ってきてください」

「……え、え……」

「早くっ! 熱中症です、まずは体の表面を冷やさなければなりません!」

「は、はいっ……!」

 竹林の今までに聞いたことのない厳しい口調に弾かれるようにして、ちひろは慌てて給湯室に向かう。震える手で流し台の下からボウルを取り出し、蛇口から水と、冷凍庫の氷をザバザバ入れる。その中に鷲掴んだタオルを入れて、冷えたところで絞っていく。

 その間にもフロアのほうからは竹林の声が響いていた。

「冷房を最大にしてください」

「ノートでも本でもなんでもいいです、櫻田君を扇いでください」

 その指示で校閲部の同僚たちがバタバタと床を行き来する足音も忙しなく響いてくる。

 やっとタオルを絞り終わると、ボウルに張った氷水を持って竹林の元へ急ぐ。渡し終わっても、今度はペットボトルに冷たい麦茶を移す作業が待っている。

 どうにか麦茶入りのペットボトルを抱えて竹林の元に戻ると、先ほどよりは幾分顔の赤みは引いたものの、櫻田は固く目を閉じ苦しそうに眉を寄せたままだった。

「ワイシャツは脱がしました。濡れタオルの代わりに、今度はそのペットボトルで首筋と脇を冷やしましょう。本当は足の付け根も冷やすといいんですけど、ここではさすがに下は脱がせられませんから。お腹周りだけ、ゆったりさせてあげるしかないですね」

「は、はい」

「斎藤さん、あとはビニール袋で氷枕を作って、タオルで巻いてきてもらえませんか。タオルもそろそろぬるくなってきましたし、もう一度冷やしてきてください」

「はい、わかりました」

 ただオロオロしてしまうだけのちひろに、竹林が優しく指示を飛ばす。さっきは切羽詰まった状況でつい口調が厳しくなってしまったが、少し落ち着いてきた櫻田の容態に竹林もほっとしたのだろう。その顔には安堵の笑みが広がっていて、そんな竹林を見ているうちに、ちひろも少しずつ冷静さを取り戻していった。

 やがて自力で動けるようになった櫻田は、ちひろに付き添ってもらいながら医務室へと向かった。残念ながら校閲部にはスポーツドリンクなんていう熱中症に適した飲み物はなく、理想的な水分補給もままならない。当然だ、校閲部は体育会系ではない。黙々と机に向かって一字一字、字を追うのが主な仕事なので、甘い系の飲み物やチョコレートが所狭しと冷蔵庫には収められている。ふと冷静になって考えてみると、実にカオスな空間だ。

 でも、甘いものは脳の働きを活性化してくれる。ちひろも会社用に廻進堂の羊羹を常備しているくらいだ。どの出版社の校閲部も冷蔵庫は甘いものだらけ、というわけではないだろうけれど、幻泉社の校閲部に限って言えば、あの状態が普通なのである。

 また、応急処置だけだったので、その点でもやはり心配だった。きちんと医師の診察を受け、必要なら病院へ行ってもらわなければならない。その判断は、専門家に限る。

「ごめんね、ちひろちゃん。びっくりさせちゃって。さっきは本当にありがとう」

「……いえ。そんなことより、まずはきちんと休まないと。それに私、部長から指示をもらうだけで一人だったらきっと何もできませんでした。手や足も震えて、まるで役立たずだったんです。お礼なら、部長や校閲部のみなさんにしてください」

 ふらふらと覚束ない足取りの櫻田を支えながら、医務室への廊下を進む。櫻田は元気がないながらもヘラリと笑ってくれたけれど、ちひろは、ただただ自分の不甲斐なさを噛みしめるだけだ。……あんなに自分が何もできないなんて思わなかった。そのことがひどくショックで、それ以上に櫻田対してとても申し訳ないのだ。

 この真夏日の中、一番暑い時間帯をろくに水分も摂らず、帽子も被らず、小野寺さんに掲載の許可を得るために駆けずり回っていたのだろう。それなのに自分は時間がないからとすぐに編集に取り掛かるように言い、ろくに休憩を取らせようともしなかった。

 なんて私は自分のことしか考えていないんだろう……。

 ちひろはキュッと唇を噛みしめる。

「いやいや、ちひろちゃんがそんなふうに思うことなんて一つもないでしょ。目の前でいきなりぶっ倒れられたんだ、そりゃ、俺だって全身が竦み上がって何もできないよ」

「でも……」

「こういうのは、普段から距離が近い人より、少し離れた立場にいる人のほうが機敏に動けたり機転が利いたりするもんなの。距離が近ければ近いほど、何もできないんだよ。きっとそういうふうに出来てるんだろうね、人間って。だから全然、気にすることじゃないよ。むしろ、ちひろちゃんが狼狽えてくれて、ちょっと嬉しかったりするし」

「え」

「それくらい、俺との距離が近くなったって証拠じゃん?」

「……バ、バカ言わないでくださいよ。親しくなんかないですし」

「ぶはは」

 なんなんだろう、もう……。さっきまで倒れていたくせに、ちょっと動けるようになったら、まるで息をするように調子のいい文言をスラスラ並べ立てたりして。

 だから櫻田と関わるのは嫌なんだ。嫌な面だけ見せてくれればいいものを、今の言葉でだいぶ救われた気がして、不覚にもちょっと涙が出てしまいそうだった。



 それから医務室で医師の診察を受けた櫻田は、とりあえず大事ないということだが、無理をしてはいけないということで、しばらくベッドで休むことになった。

「どうしても休まないとダメですか?」と尋ねる櫻田に、常駐医の日下部くさかべ女医は「死にたくなかったら私の言うこと聞きなさい」とぴしゃりと言い捨て、切れ長の目を細める。

 内科、整形外科、精神科等、さまざまな分野の知識を広く深く身に付けている彼女は、とても優秀な医師であることは間違いないが、言うことを聞かない人については少し……いやだいぶ、おっかないという噂だ。その噂通り、彼女からは四の五の言わせない迫力があり、口先だけの男・櫻田も、さすがに「すみません……」従うしかなかった。

「でも、どうすっかなぁ」

「……小野寺さんの原稿の編集、ですか?」

「そう。ここで作業したりすることって――」

「倒れたときに頭も打ったと聞きましたよ? もっとバカになりたいんですか?」

「……ということだから、編集部の誰か手の空いてる人に頼むか、こうなったら小野寺さん本人に会社に来てやってもらうしかないんだけど。でも、できれば俺以外の編集者の手が入った原稿にはしたくないのが、本音なんだよなぁ。どうしたもんだろ……」

「ですね。休息にどれくらいの時間が必要かは、先生の判断にお任せするしかありませんけど……夜十時が時間厳守なら、ちょっと厳しいかもしれないですね」

 パーテーションの向こうから聞こえてきた日下部女医の、医師とは思えない冷え冷えとした発言は聞かなかったことにして、ベッドに横になった櫻田とこれからの作業について話し合う。櫻田がこんな状態なので、ほかの編集者に頼むか、小野寺さんに来てもらうのが一番だろうけれど、彼の担当として自分が編集したいという櫻田の気持ちもわかる。

 だって櫻田と小野寺さんは先輩後輩の間柄だ。小野寺さんが短編文学賞で賞を取ったときは嬉しかっただろうし、自分が担当に付いたときも、もちろん嬉しかったはずだ。

 小野寺さんだって、まったくの見ず知らずの編集者に担当してもらうよりは、知っている人に担当になってもらったほうが気持ち的に余裕も生まれるだろう。

 どれくらい親しいのかはわからないけれど、小野寺さんの意図するところや伝えたいことを上手く汲み取り洗練された文章に組み立て直すなら、きっと櫻田が適任のはずだ。

 二人で首を捻り、自然と目がパーテーションの向こうに行く。今の会話は当然、日下部女医にも聞こえていたはずだ。少し、お情けをかけてはもらえないだろうか。

 が。

「何やら切羽詰まった状態のようだけど、三時間は休んでもらわないと、私の立場がないわ。熱中症を甘く見てはいけないの。子供や高齢者が危ないのは注意喚起をしているから周知されているけれど、体力のある大人でも無理をすると危ないんだから」

 ちひろたちの視線を感じたのか、日下部女医は取り付く島もない。ちひろと櫻田はパーテーションのこちら側で苦笑し合うと、厳しいですねと肩を竦めるしかなかった。

「櫻田さん、どうしましょう……?」

「うーん。ここは妥協して編集部に頼むしかないかな……」

「……ですかね。櫻田さんもこんな状態なんですし、今回は仕方ないですよ」

「でもなぁ……」

 こうしている間にも刻一刻と迫るリミットの緊張と焦りから、ちひろの頭からはすっかり前回の宣言が抜け落ち、櫻田のほうもまた、名字で呼ばれているのに気づきもしない。

 要は二人とも、三時間の休息はかなり痛いのだ。今はちょうど午後五時だから、このまま櫻田の回復を待って編集作業に入るとなると、どんなに急いでも第二稿までが限界となる。編集にも校閲にもどうしてもそれなりの時間はかかってしまうし、中途半端なものを本誌に載せるわけにもいかない。かといって、代原の代原なんてあるのだろうか。

 櫻田が体を休めている三時間の間になんとか第二稿まで終えられれば、残りの二時間で間に合わせられる可能性も見えてはくるだろうけれど……。

 櫻田には不憫だが、ここはやはり断腸の思いでほかの編集者に編集を任せたほうがいいかもしれない。第三稿だけでも櫻田が編集できれは、彼も少しは溜飲が下がるだろう。

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