――と。

「あ、小野寺さんの携帯ですか? 私、幻泉社の常駐医の日下部と申しますけれど、あなたの担当編集の櫻田さんが熱中症で倒れられて、今、会社の医務室で寝ているんですね。で、彼が休んでいる間、あなたに原稿の直しをしてもらいたくてお電話したんです。彼、ほかの編集者の手が入ったものにはしたくないって駄々をこねてて。今すぐ幻泉社にお越しいただくことはできないでしょうか。――つーか、休めっつってんのにベラベラ喋りやがって医者の言うことなんて一つも聞きやしねーんだよ。今すぐ来やがれっ!」

 日下部女医がとんでもない電話の切り方をした。ちひろと櫻田は、驚きのあまり目が点になり、ついでに開いた口も塞がらない。なんということだろう、日下部女医はもしかしてヤンキーだったのだろうか。まあ、いつもキリっとしたメイクをしているし、口もそんなにいいほうには見受けられなかったけれど、あんなドスの効いた声とか反則だ……。

 そういえば櫻田のジャケットは、と動転する頭で思い返してみると、診察を受けた際、椅子に置きっぱなしにしたままだった。どうやら彼女は、そこから櫻田のスマホを拝借して小野寺さんに電話をかけたようだ。確かに、堂々巡りの会話をしていたちひろと櫻田の声はうるさかったことだろうと今なら想像できる。休めと言っているのに仕事に戻ろうとするわ、ちひろはなかなか出て行かないわで、彼女の怒りも限界だったのだ。

「わかりました、だって。よかったわね」

 戦慄していると、パーテーションの繋ぎ目の部分から日下部女医がにっこり笑う。完璧なスマイルだけれど、それが逆に怖くて二人とも彼女の顔を直視できない。

「……はい、ありがとうございます」

「すみませんでした、ありがとうございます……」

「わかればいいのよ」

 ちひろと櫻田は、つつつ、と目を逸らし、恐怖に慄きながら一礼するしかなかった。

 そうして、ひとまず櫻田を日下部女医に預けてロビーに向かったちひろは、そこで小野寺さんの到着を待つことにした。受付の子たちの定時も迫っている。しどろもどろになりながらも、なんとか彼女らや警備員に事情は説明したし、校閲部に通してもらえるように取り計らったものの、自分のホームで待つ気になんて、とてもなれない。

 十枚ほどの原稿を手に、今や遅しと小野寺さんを待つ。

 こういうときほど時間の流れが恐ろしく早く感じてしまうものだ。早峰カズキのときはあれほど定時上がりにこだわっていたちひろだったが、今はそんな気すら起こらないほど目の前に迫ったタイムリミットのことで頭がいっぱいだった。



 それから約四十分ほどして、小野寺さんと思しき男性がロビーに駆け込んできた。短髪で、土黒く日焼けしたガタイのいい体に、すぐに工事関係者だと合点がいく。時刻はそろそろ午後六時になろうかという頃だ。相当急いで来たのだろうと簡単に想像がつくほど全身汗だくで到着した待望の小野寺さんの姿に、ちひろの顔には安堵の色が広がった。

「小野寺康介さんですね。お待ちしておりました、私、校閲部の斎藤と申します」

 ロビーの出入り口付近できょろきょろと辺りを見回している小野寺さんに駆け寄る。声をかけると、一瞬、安心したように眉尻を下げた小野寺さんは、しかしすぐにはっとした表情になって心配顔で口を開く。一瞬の安心した顔は、おそらく幻泉社が思ったより大きい会社だったからだろう。ちひろも最初はそうだった。そのお気持ち、お察しする。

「そうです。……あの、それより柾の奴が熱中症で倒れたって聞いて――」

「はい。でも大丈夫ですよ。三時間ほど休めば大丈夫だろうと常駐医の日下部も言っていましたので、午後八時には戻ってくると思います。実際、ベッドに横になってからも意外と元気でした。あんまりうるさすぎて、先生に怒られてしまうくらいで……」

 言うと、小野寺さんが何とも言えない顔で苦笑した。日下部女医のドスの効いた催促を思い出したのだろう。何か言いたげに口を開くが、彼女が怖いのか、それとも櫻田に申し訳なく思っているのか、声には出さずに閉口し、一つ、小さく頭を下げる。

「――あの。櫻田や日下部から聞いているとは思いますが、小野寺さんにはさっそく、原稿の直しをしていただきたいんです。入稿まであと四時間しかありません。櫻田のわけのわからないわがままに付き合わせてしまって大変申し訳ないのですが、私と一緒に校閲部に来ていただけませんか? すぐに作業できるように準備は整えてあります」

 しかし、いつまでもここで世間話をしているわけにもいかないのが実情だった。大急ぎで来てもらって早々、お茶も出さずにこちらの都合を押し付けてしまって心苦しいが、この原稿を最良の形で入稿するためには、小野寺さんの協力が不可欠だ。

 日下部女医が怖いからって、来ない選択肢だって彼は十分に持っていた。それなのにこうして駆けつけてくれたということは、やはり彼も〝駄作〟だなんて言っていても自分の作品に我が子のような気持ちを抱いているのだろう。それに、掲載するからには、よりよい作品になるよう精一杯、自分の持てる力を奮おうとしてのことだろう。

「すみません、まずは柾を見舞わせてもらえませんか」

「え……」

「五分、いや、三分でいいんです。俺と会っていたせいで柾は熱中症になってしまったんです。この通り俺は工事現場で働いているので、日陰なんてありません。なのにあいつ、ずっと『お願いします』って頭を下げ続けて。元気な……って言ったら変ですけど、ちゃんと顔も見たいし、直接謝りたいんです。あのとき、けっこうぞんざいに扱ってしまったので。少しだけ時間をくれませんか。そのあとは斎藤さんの言う通りにしますから」

 けれど小野寺さんは、困惑するちひろに構わず深く腰を折った。

 こちらとしては五分でも三分でも惜しい。でも、自分のせいで櫻田が倒れたと思っている小野寺さんにとっては、その五分、あるいは三分でも謝罪には足りないのだろう。

「……わかりました。では、本当に三分だけです」

「いいんですか?」

「こうなったら、ジタバタしても仕方ありません。櫻田の体調に気を揉みながら原稿を直していただいても、そんなにはかどるとも思えませんし。それなら、早いうちに櫻田に会って、彼に上手く焚きつけてもらうに越したことはありません。急ぎましょう」

「はい、ありがとうございます」

 逡巡したのち、ちひろはくるりと踵を返す。櫻田なら絶対に「先輩のせいじゃないですよ、それより原稿!」とかなんとか言って上手く小野寺さんのやる気を引き出すだろうけれど、その櫻田が今はいないのだ。このまま無理に直しの作業に入ってもらっても、きっと櫻田のことが気になって集中できない。今のちひろにできる最大限の作業効率アップの方法は、小野寺さんを櫻田のところに連れて行くこと。それしか思い浮かばなかった。

 それに、先ほど櫻田が倒れる間際、相手を顧みずに自分の主観を押し付けてしまったことも、ちひろの胸を痛めている。櫻田と関わるようになってからというもの、すっかり自分のペースを崩されてしまっているが、その分、人間っぽさは出てきたように思う。

 きっとちひろの校閲には、作者の思いに寄り添うことが、もっともっと必要なのだ。間違いや矛盾点を指摘するだけではない、プラスアルファの何かが――。

 櫻田のおかげで、それがちひろ自身にも少しだけ、わかってきたような気がする。



「……三分って約束じゃなかったっけ?」

「そうなんですけど、もう少し、いいかなって」

「櫻田君もバカだけど、あなたもけっこうなおバカさんよね。これじゃあ、何のために私が彼を呼び出したんだか、わかりゃしないわ。悠長に構えている暇はないんでしょ?」

 小野寺さんを医務室へ案内してから、早十分。約束の三分をとうに過ぎても二人の会話を中断させようとしないちひろを見兼ねて、日下部女医が大仰にため息をつく。

「はい。実は、とんでもなく切羽詰まってます。でも、櫻田さんも小野寺さんも、会話の中身は作品のことですから。こうして作家と担当編集が作品について心ゆくまで話すことって、きっと双方にとってとても重要なことなんじゃないかと思うんです。新しいアイディアとか発想とか、作品に向き合う温度とか。こういうことでしか得られない感覚的なものや熱量の共有がいい作品を生むんじゃないかって。二人を見ていると、そんなふうに思えてくるんです。それに、ポンポン弾む会話って、聞いてて楽しくないですか?」

 ふっ、と笑って尋ねると、綺麗に描かれた日下部女医の片眉がピクリと持ち上がった。

 私に意見しようだなんて百年早いわ、なんて言われるのかと思って内心でヒヤヒヤしていると、しかし日下部女医は拍子抜けするほど呆気なく眉を元の位置に戻す。

「そうかもしれないわね。作家と編集には二人だけの、校閲には校閲の、医者には医者の矜持があるから。それはきっと、ほかの人が何を言おうと変わらないものなのよ。あなただって校閲としてのプライドがあるように、私にだって医者としてのプライドがあるわ。あの二人も、バカそうに見えても持っているのよね。……ふふ、今夜は熱いわ」

「ですね」

 日下部女医と再び、ふっと笑い合う。小野寺さんを連れてここへ来たときは、だから休ませたいんだよこっちは、という気持ちが包み隠さずお綺麗な顔面に現れていた彼女だったけれど、やはりそこはメンタルケアの知識も豊富に持っている医師だ。櫻田や小野寺さん、それにちひろの気持ちも一つも遜色なく汲み取ってくれたようである。

「ああもう。大の男が二人してピーチクパーチクうるさいったらないわ。……仕方ないわね。ベッドから出ないことを条件に、ここで編集することを許可してあげましょう」

 すると日下部女医が、わざとらしく皮肉を交えた。ぱあぁっと喜色が浮かんだ顔で「ほ、本当ですか!?」と勢い込んで尋ねると、彼女はため息交じりに言う。

「斎藤さんは知らなかったでしょうけど、櫻田君、私が少し席を外した隙に勝手に出て行こうとしてたのよ。ちょうど、聞き分けの悪い社員に辟易していたところだったの」

「な、なんと……」

 だから再度医務室を訪ねたときの彼女の顔が怖かったのだ。櫻田め、何をしやがる。

「ということで、疲れたから私はもう帰るわ。使い終わったら、あなたたちはそのまま出て行って。施錠は私から警備員に頼んでおくから、午後八時にはここを出ること」

「重ね重ねすみません、ありがとうございます……」

「いいわよ、別に。斎藤さんのせいじゃないんだから、あなたが謝ることじゃないわ。それに、病床でも気持ちが熱い男って、見ていて嫌いじゃないし。あとで櫻田君に言伝(ことづて)しておいてもらえる? ――私、黒毛和牛のサーロインステーキが大好物なの」

「……あ、はい……」

 ふふふふ。

 呆気に取られるちひろをよそに、妖しい笑みを残して日下部女医が帰っていく。

 ということは、今日のことを大目に見てあげる代わりに、大好物を奢れと。きっとそういうことなのだろう。今日、実際に彼女と対峙したり話したりして、肉食系女子っぽい雰囲気や顔立ちをしているなと思ったけれど、まさか本当に肉が好物だったなんて。

 しかも彼女は、口にこそしなかったものの、絶対に分厚いお肉をご所望だ。どこかの高級店の高級黒毛和牛のサーロインステーキ……間違いなく諭吉が何枚も飛ぶお値段だ。

 幸いなのは……いや、どうせあとから知ることになるんだから、この場合はなんと言ったらいいのか。ともかく櫻田は小野寺さんとの話に夢中で日下部女医が帰ったことに気づいていないことだろうか。とりあえず条件付きで仕事をしてもいいと許可をもらったことだけは、きちんと伝えておこう。そう思い、ちひろはそのまま一時退室し、原稿のコピーや筆記用具など、校閲に必要なものを地下の校閲部に取りに行くことにした。

 そういえば小野寺さんにまだお茶も出していなかったなと思い立ち、校閲部の冷蔵庫から、竹林が〝みなさんで食べてください〟と自由に取り出し可能になっているお菓子を適当に見繕い、冷たい麦茶ととともに盆に乗せて持っていく。

 実はちひろも、この時間なのでけっこうお腹が空いていた。何か口に入れてエネルギーを補給しなければ、午後十時のリミットまで、とても持ちそうにない。

「お待たせしました。小野寺さん、櫻田さん、作業しながら何か食べま――はぇっ!?」

 しかし、医務室に戻ってみれば、なんと櫻田と小野寺さんがベッドの上で取っ組み合う勢いで胸倉を掴み合っていた。ピンと張り詰めた一触即発の空気に触れて、ちひろの全身から冷や汗が吹き出る。一体全体、どうしてこうなった!?

 つい数分前まではポンポンと会話を弾ませ、作品について熱く語り合っていた二人だったのに、ちひろが席を外している間に一体何が起きたというのだろうか。

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