それからしばらく、美崎糸子は静かに海を眺めていた。ふ、と薄く笑うとちひろに背を向け、潮風に綺麗な黒髪をなびかせながら、ただぼんやりと遠くの水平線を。

 どれくらいの間、そうしていたかは、わからない。けれど、やがてちひろのほうに再び体を向けると、作中の結子のように寂しそうに笑ってぽつぽつと語りはじめた。

「……私の妹は、私と違ってお転婆さんでね。うちの両親はこういうものだと特に反発もしないで育ってきた私とは正反対で、よく両親に反発して怒ったり泣いたり、とても忙しい子だったわ。私が就職で実家を出て、運よく作家デビューして。しばらく続けていた兼業作家から専業作家になったときに、これで一生食べていくっていう覚悟で『結婚も出産もしないで独身を貫く』なんて言ってしまったものだから、十歳歳の離れた妹は、両親からそれはもうしつこいくらいに婿を取れ、子供を産んで家を守れって言われたの」

 それから彼女は、余談だけど、と言って自分のことも少し話した。

 美咲糸子――本名・藤田美津代ふじたみつよは、幼少期の頃からとにかく内気で人見知りも激しく、いつも一人で絵本を読んだりお絵かきをして遊んでいたというくらい、周りの人と関わることが苦手な子供だったのだそうだ。そのうち自分で物語を書くようになっていったというのが、彼女が作家を志すようになった原点だ。本当はせっかちでもないし、長子ということもあって、ちょっと抜けていたり、おっとりしているところもあったという。その反面、妹の結子さんは近所の男の子と一緒に日が暮れるまで泥だらけになって遊んだり、ケンカで男の子を負かすくらい負けん気が強い活発な女の子だったのだそうだ。

 まるで正反対の性格の姉妹は、当然、両親に対する向き合い方も正反対に育つ。

 自分の中で理不尽なことだと思ってもじっと耐える姉に対し、結子さんははっきりものを言い、たびたび大ゲンカになっていたという。当時、大学進学や就職で東京に住んでいた姉の元に「しばらく泊めて」と家出をしてくるのも一度や二度ではなかったそうだ。

 仕事をしながら各小説賞に応募していたのが、美咲糸子が二十五歳の頃まで。十歳下の妹は中学生かせいぜい高校一年生で、思春期や反抗期の真っ只中では、さぞかし両親と自分だけの生活は息苦しいものだったのだろうと思うと、美咲糸子はぽつりとこぼす。

「でも、しばらくは、それでもっていたの。私のところへ家出をしてくるのが、彼女にとっていいストレスの捌け口だったり、クールダウンできる場所だったんでしょう。両親も彼女が私のところへ来ているのがわかっていたから、大騒ぎすることはなかったわ。落ち着けば家に帰ってくるってことも含めてね。親にも落ち着く時間が必要だし」

 ふ、と笑って美崎糸子は続ける。

「それから妹は、高校卒業と同時に地元の会社に就職して社会人の道を歩きはじめたわ。私のほうはまだその頃も会社勤めをしながら、ちょこちょこと作家をしていてね。三十歳を過ぎて結婚だの出産だのって急かされるようになってきたのをきっかけに、三十四歳のときに専業作家で食べていくことと生涯独身でいることを両親に打ち明けたの。今まで私は自分でこうしたいと言ったことはほとんどなかったから、両親はずいぶん驚いていたけど、最終的には認めてくれたわ。……でも、その頃からなのよね。両親が妹にプレッシャーをかけるようになって、彼女がますます息苦しい思いをするようになったのは」

 海を見つめながら、美崎糸子は後悔を滲ませたような声で言う。

「……職場の上司と不倫しちゃって」

『ヒッチハイク・ランデブー』の冒頭だ。主人公の名前を妹さんと同じ〝結子〟にしたのは、おそらくはこのことがあったからだろう。派遣社員かどうかの違いはあるにせよ、結子さんの身に起きたことを事実のまま、書いておきたかったのかもしれない。

「妹は彼に妻子がいることを知らずに付き合っていたの。実際のところはどうなのか、私にはわからないけれど、息苦しい実家暮らしの中で彼の存在が唯一の息抜きになっていたことは、間違いないと思う。そうやって三~四年、付き合っていたかしら。ある日、彼の奥さんが会社に乗り込んできて、社員の前で妹を執拗に罵ったそうよ。会社にいられなくなって当然よね。その後、彼のほうはどうなったのかはわからないけれど、会社を辞めた妹は、あとから彼がこっそり手渡してきた手切れ金を持って、ふらっと家を出ていったんだそうよ。ちょうど私のほうは、有難いことに執筆の依頼がどんどん増えていって、かなり忙しい頃でね。……不倫の話を聞いたのは、両親がどうやっても妹を見つけ出せないから、お前も心当たりを探してくれ、って電話で泣きつかれたときよ」

 美崎糸子は――いや、美津代さんは、そう言ってはらりと涙をこぼした。

 潮の匂いをまとって風が海から陸に向かって吹き上がり、彼女の涙をさらっていく。

「全部私のせいだと思ったわ。たった一度のわがままが妹の人生をめちゃくちゃにしたって。だって当然よ。長女なのに進学と就職で東京に出たきり帰ってこないし、作家で芽が出はじめてきたからって、生涯独身を貫くつもりだとか……。私は作家であり続けることの覚悟を示したつもりだったけど、妹は裏切られたも同然のことだもの。両親の関心は妹の結婚に向いて、姉の私は仕事が忙しくて。妹は誰にも寄りかかることができなかったのよ。家族の誰も妹の本当の気持ちを見ようとしていなかった。……家族なのに」

 きっと、そんなときに優しくしてくれたのが、職場の上司だったのだろう。

 結子さんは、自分をがんじがらめにするたくさんのしがらみからの逃避を見い出していた。唯一ほっと息をつける場所、自分を解放できる場所が、彼の隣だったのだろう。

「妹がいなくなったって連絡をもらって、私も仕事を放り投げて探し回ったわ。でも、心当たりなんてあるわけがなくて、ほとんど当てずっぽうでね。……ほんと、どこまでも情けない姉よ。こういうときに妹がどこに行きそうか、見当もつかないんだから」

 結子さんもつらかっただろうけれど、美津代さんもずいぶんつらい思いをしたのだろう。もう過ぎ去ってしまったものだからこそ、どれだけ後悔を重ねても一つたりとも消えることのない思いがそこにはあって、ちひろの胸は激しく締め付けられる。

「でも、幸いなことに、それから一ヵ月後くらいだったかしらね、学生はちょうど夏休みが終わる頃よ。洲崎の近くで捜索願の特徴によく似た女性と若い男性が一緒にいる、って連絡をもらってね。もちろん、すぐに洲崎まで向かったわ。両親にも同じ連絡が来ていたけど、何か察するものがあったんでしょう、私だけで迎えに行くことになって。……見つけたときの彼女――結子は、すっかり寂しそうに笑う癖が出来上がってしまっていたわ。子供の頃はあんなに歯を見せて鷹揚に笑うような子だったのに、しばらく会わないうちにまるで彼女の中から太陽が消えてしまったようだった。その傍らには、高校生くらいの男の子が寄り添っていてね。結子に一生懸命話しかけていたり、笑わせようとしていたり。見つけたはいいけれど、しばらく声はかけられなかったわ」

 ふっと目を細めて、忠犬みたいでとっても可愛らしかったの、と美津代さんは言う。

「どういう理由で一緒にいるのか、そのときはわからなかったけれど、『ヒッチハイク・ランデブー』の真紘のようなことがあって、いろいろなものから逃げ出したんだって。そのすぐあと乳がんを患っていることがわかった妹が、苦しい闘病生活の末、たった半年で逝ってしまう、ほんの少し前、病院のベッドの上でそう話してくれたの。ふふ、いいネタでしょ、なんて得意げな顔をしてね。もう……笑う気力もなかったくせに」

 そう言った美津代さんの目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれはじめた。櫻田が、いつのものかわからないハンカチをスーツのポケットから取り出し、美津代さんは「あら、なかなか気が利くじゃない」とからかいつつ、それを受け取って涙を拭いた。

 顔を上げると、美津代さんは美咲糸子の顔に戻って言う。

「校閲ちゃん。あなたが先に謝ったように、『ヒッチハイク・ランデブー』からは何も見つからなくて当然なの。騙すようなことをして、本当にごめんなさい」

「いえ、そんな……。私のほうこそ、妹さんのことまで調べてしまって……」

 深く腰を折ると、しかし美咲糸子は「ううん、顔を上げて」と言う。

「あの小説そのものが、あのとき結子と一緒にいてくれた彼へ向けたメッセージと、私の後悔が詰まったものだもの。私の経歴を調べないことには、岬の灯台守さんの友人には行き着かないわ。それに『ヒッチハイク・ランデブー』には私のすべて詰まっている、って言ったでしょう? それでいいのよ。校閲ちゃんの〝目〟は正しいわ」

「でも……」

「――いつか、結子と一緒にいてくれた彼が洲崎を訪れてくれることがあったなら、なんて思って、あの小説を書いて。妹と彼を寝泊りさせてくれた気のいいご夫婦の家が売りに出されていることを知って、取り壊されたり、新築の家になるよりは、って思って買い取って、住みはじめて。妹と彼の思い出のものを少しでもそのままの形で残しておきたかったのよ。……完全に私の自己満足だし、悪あがきのようなものだけどね」

 ふるふると首を振ると、美崎糸子はかすかに微笑み、燈台に顔を向ける。

「……ちょうど、あの燈台の近くだったのよ、二人を見つけたのは。夏休みの終わりが迫って、妹が不倫相手の彼から渡された手切れ金も底をついて、おまけに私が迎えに来ちゃったものだから、妹と彼は、ここで別れるしかなくなってしまった。小説の中ではとってもいいシーンになっているけど、実際は雰囲気もなくてね。でも、私の顔を見て諦めたように笑った妹に、どこから見つけてきたのか、季節外れのマーガレットの花を一輪、彼が渡したことだけは本当よ。思うんだけど、きっとあの二人は、一緒にいる中でお互いがお互いに本当の意味で救われ合っていたのよ。マーガレットには〝信頼〟っていう花言葉もあるの。彼は妹に、そんな意味を込めてマーガレットの花を贈ったんだと思うわ」

 そう言った彼女の顔は、切なさと後悔を存分に孕んでいながらも、どこか清々しげですっきりしているようにも見えた。必要があって調べたはいいが、やはり申し訳ない気持ちが先に立っていた。でも、結果的にこれでよかったのかもしれない、とちひろは痛む胸の奥で思う。きっと美崎糸子も覚悟の上だったのだろう。まるで、見つかっちゃったわ、と言いたげな横顔からは、ほんの少しだけ笑みがこぼれている。

「ああ、もう。校閲ちゃんの言う通りだわ!」

 すると美咲糸子が大きく伸びをしながら、太陽に向かって両のこぶしを突き上げた。いきなりのことに驚いていると、ちひろに顔を向けた彼女は笑って、

「彼がいつか洲崎を訪れてくれることがあったなら、なんて待っていたって無駄よね。マーガレットの花束を持って押し掛けるくらいじゃないと、妹に笑われちゃうわ。……それに、言わなきゃいけないのよ、妹の最期を。小説の中で主人公の結子がときどき感じる胸の痛みに不思議に思う箇所がいくつか出てくるでしょう? あれで実際の結子の病状も仄めかしていたつもりだったけど、やっぱりけじめとして伝える義務が私にはあるんじゃないかってずっと思っていたの。行かなくちゃ。彼、埼玉のどこに住んでいるの?」

「あ、サイトの情報だと、川越市のほうだとか――」

「わかったわ! ちょっと今から行ってくる!」

 ちひろが言い終わるが早いか、そのまま勢いよく走り出してしまった。

「え? ええっ?」

「ぶはっ。どこが抜けてておっとりなんだよ。しっかり妹さんと同じじゃんか」

 驚きの声を上げて目を白黒させるちひろの近くで、櫻田が吹き出しつつツッコミを入れる。活発な妹さんとはまるで正反対だと言っていたけれど、実際の彼女は、もしかしたらいざというときほど妹さん以上に突拍子もなく駆け出してしまう人なのかもしれない。

 ふっ、とちひろの顔にも笑顔が浮かぶ。そんなちひろを見て、櫻田も笑っている。

「ちょっと! ボケっとしてないで駅まで車出してちょうだい」

 すると、いったん階段を駆け下りていった美咲糸子が、再びカンカンカンと階段を駆け上がってきた。ちひろと櫻田はお互いに目を見合わせ、ぷっと吹き出すと、

「はいっ!」

 声を揃えて同時に駆け出す。どうやらちひろも櫻田も、まだまだ美咲糸子の強烈なキャラクターに付き合わされることになるらしい。

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