そんな彼女の後ろ姿に、本来の美崎糸子はこちらのほうなんじゃないかと、なんとなくちひろは感じるものがあった。綺麗な海や景色を見ると心が穏やかになるものだけれど、それにしては彼女は、とても寂しそうな背中をしていたように思う。

 これは「校閲の〝目〟で」と言った彼女の条件からは大きく外れたものだが、美崎糸子という人物そのものについて考察を加えるべきことなのかもしれないと、ちひろは思う。

 だってあの作品を読んでも、どうしたって完璧だとしか結論付けられない。だったら、作品から滲み出る〝美崎糸子〟を掘り下げていくしかないのではないだろうか。

「それって、どういう……?」

 向かいの席では、櫻田が食後のコーヒーを飲む手を休めて怪訝な顔をしている。今まで疑問に思たことはないという顔だ。でも、そりゃそうだとちひろは思う。

 作品は、作家自身の内面を削って作られる。けれど作家は作品とはまったく別のところで生きていたりもする。いい例が、櫻田が愚痴をこぼしつつ言っていた〝作家先生の変にアクティブなところ〟――つまり子供の迎えのためだけに編集者を呼んだり、ベッドに誘ったり、というところだ。今の例とは少し違うが、早峰カズキは両親のひどい過干渉に苦しみながらも作品を通して彼らに訴えかけていたし、美崎糸子も櫻田からちひろの話を聞いて洲崎まで呼んだ。〝変〟という範囲を広げるなら、早峰カズキも美崎糸子も、櫻田が苦労させられる作家であることに、きっとそう大きな違いはないだろう。

 それならもう、作家自身を読み解くほか、ない気がする。美崎糸子の背景と『ヒッチハイク・ランデブー』を組み合わせた考察による〝新しい何か〟を。

「美崎先生がわざわざ校閲の〝目〟で、と仰られたからには、単行本と文庫本のちょっとした修正の具合から発生した文字や削除された文字を洗い出してみたり、章タイトルの頭文字を繋げたり、ローマ字表記にして単語にならないか入れ替えてみたり、私なりにいろいろしてみました。けど、これというものはなかったんです。それに先生がそう仰られたということは、きっと先生ご自身の体験に基づいた作品でもないと思うんです。それなら私を試す意味がありませんし。そうやって考えると、もう先生ご自身を掘り下げていくしかない気がしてくるんです。……編集さんはちょうど先生の隣に並んでいたので、お顔は見えなかったと思うんですけど、展望台で『私に見つけてもらえるなら、それが運命なのかもしれない』と言ったときの先生は、すごく切ない顔をしていたんです。これはあくまで私の勘なんですけど、先生はわけあってあの家に住まわれているのかもしれません」

「……わけ? って、なんだよ」

「それは私にもわかりません。だから少し、外に出て調べさせてください」

 ベーグルを皿に置き、ちひろは先ほどまで考えに耽っていたことを櫻田に改めた。さらに怪訝な顔をしていた櫻田は、その瞬間、はっと目を見張る。

「ちひろちゃんが自分から外に出て調べものをするなんて……!」

「……そんなに驚かないでくださいよ」

「いや、でも、どういう心境の変化なの? もしかして編集者の仕事に興味持っ――」

「そんなわけないじゃないですか。先に美崎先生からサインをいただいているからです。サイン本は何冊か持っていますけど、名前を入れてもらったのは美崎先生が初めてなんです。そんな先生のご厚意に一矢報いたいじゃないですか。あと、廻進堂です。早く買ってきてくれないと、そのうち、そちらの相原編集長に虚言癖で訴えますからね」

 櫻田の言葉尻を勢いよくぶった切る。誰が編集者の仕事に興味なんて持つか。ちひろはあくまで校閲部の一社員に過ぎないのだ。人間関係も電話も苦手なちひろに編集者などという多くの人と関わらなければはじまらない仕事が務まるわけがない。

「!」

 編集長の名前を聞いて、櫻田がみるみる顔面を硬直させる。話に聞いただけで詳しくは知らないが、早峰カズキの件で相当絞られたことだけは知っている。何かあれば相原編集長の名前を出そうと機会を窺っていたけれど、このタイミングで正解だったようだ。櫻田の財布事情なんてちひろには関係ない。廻進堂の念書はいつまでも有効なのだ。

「まま、待って、編集長にだけは……!」

「じゃあ、よろしくお願いします」

「でもほら、野球観戦もプレゼントしたし、今もこうしてご馳走してるんだし……ね?」

「編集さんが勝手にやっていることじゃないですか。知りませんよ、そんなの」

「そんなぁ……!」

 情けない顔をして天井を仰ぐ櫻田を尻目に、ちひろはようやくベーグルの続きを食べはじめた。店内で食べる際に温め直してもらったのだけれど、考えに耽っていたり話したりしていたせいで、もうすっかり冷めきっている。

 けれど美味しいことに変わりなかった。本の中でベーグルは腹持ちがいいというくだりがあったように、その後のちひろのお腹も、いつまでも満腹だった。


 *


「――で、新しいものは見つかったのかしら?」

 その週の週末、日曜日。前もって櫻田にアポを取ってもらっていたちひろは、また櫻田の危なっかしい運転で房総フラワーラインを南下し、美崎糸子の家にお邪魔した。

 この前と同じようにロールケーキとコーヒーでもてなしてくれた美崎糸子は、けれどマシンガンは炸裂させず、応接間にちひろたちを通すと開口一番、そう言う。

「とりあえず、といったところなんですけど、はい、一応」

「あら。じゃあ、さっそく聞かせてもらっても?」

「その前に、洲ノ崎燈台の展望台までご一緒していただいてもよろしいですか? 私、あそこからの景色がすっかり気に入ってしまって。また先生と眺めたいんです」

「あら、可愛いことを言ってくれちゃって。いいわ、行きましょう。ここのところ、ずっと雨降りばかりだったけど、今日はこの間みたいに綺麗に晴れているし、きっと景色も最高だわ。気持ちよく謎解きしてもらうには、いい景色といい空気が必要よね」

 そうしてひとまずロールケーキとコーヒーをご馳走になったちひろたちは、櫻田の運転でまた洲ノ崎燈台の展望台へと向かった。美崎糸子の言葉通り展望台からの眺めは今日もとても気持ちがよく、海から吹き上げる潮風もちょうどいい。展望台にはちひろたちのほかに人はおらず、すっかり貸し切り状態だった。野鳥のさえずりが耳に美しい。

「さて。じゃあ校閲ちゃん、よろしくね」

 柵に背中を預けた美崎糸子が、後ろにいるちひろを振り返って続きを促した。はい、と返事をしたちひろは、その場でバッグからサインしてもらった『ヒッチハイク・ランデブー』の単行本と文庫本を取り出し、その表紙をそっと撫でつつ水平線に目を向ける。

 やっぱり、誰であれ人と話すのはかなり苦手だ。櫻田と話すのは不可抗力によって慣れてきてはいるが、今日の相手は植木賞作家。展望台からの景色が気に入ったとは名ばかりで、本当は水平線でも見ていないと、また一年くらい寿命が縮まってしまう思いだ。

「……あの、まず先に謝らせていただきたいんです。私の目では、この本からは新しいものは何も見つけられませんでした。謎なんてどこにもなくて、ただあるのは、何度読んでも、いつ読んでも一つも色褪せない二人の主人公の恋の物語でした」

「そう」

「でも、作品には書き手の人柄が反映されます。鏡のようにキャラクターが正反対に映ることもありますし、自身の投影のように書き手とキャラクターの目線や考え方などが同じ位置にある作品もあります。先生は、この『ヒッチハイク・ランデブー』に先生のすべてが詰まっていると仰いました。それはきっと、本当です。でも、もしこの本が先生ご自身の実体験を小説化したものなら、私をお試しになる意味がないと思ったんです。単行本からちょうど十年、文庫化からも七年経っていて、校閲だって完璧なのに、そこから〝何か新しいもの〟は、ある意味見つからなくて当然の結果なのではないでしょうか」

 そう言うと美崎糸子は静かに瞑目し、手で〝どうぞ〟と先を促した。櫻田としばし目を見合わせたちひろは、こくりと頷き合うと再び口を開く。

「そこで、少し外に出てみることにしたんです。強行旅だったので、作中の二人がヒッチハイクで辿った道筋をすべて回ることはできませんでしたけど、この近辺のことも作品には登場していたので、ここだけでもと思って。昨日、櫻田さんと回ってきました。景色も海も、ここで暮らす人たちも、作品の中とまったく同じですね。優しくて強くて凛としていて、二人がここを旅の最終地点に選んだ意味がわかるような気がしました」

 二人の旅の最終地点は、地名こそ創作だけれど、地形といい、土地の様子といい、ここで間違いなかった。もちろん、今彼女が住んでいる家も登場する。

 調べてみると、作品の刊行から植木賞の受賞までが半年ほど。今の彼女の家が売りに出されていることを知ったのが受賞から数ヵ月後のことなので、逆算すると一年は前にこの土地のことや家の描写を美崎糸子は書いていたということになる。

 取材のために訪れたのかもしれないし、昔この土地に旅行に来たことがあると岬の灯台守さんのまとめサイト載っていたので、そのときのことを思い出して書いたのかもしれない。あるいはインターネットや旅行雑誌などから適当に選んだだけかもしれないけれど、とにかく作品の旅の終着点は、この洲崎が舞台で間違いないと思う。

 ――そうじゃなかったら、彼女がここに住む理由が根本から崩れてしまう。

 すると美崎糸子の口元が、かすかに弧を描いた。どうやら正解らしい。

 自分で書いたシーンを思い出しているのかもしれない。あるいは、執筆当時のこと、もっと前のことを思い出しているようにも、とちひろの目には映る。懐かしそうに口元を緩める姿は、作品の女性主人公、結子が笑ったときの描写にとてもよく似ていた。

 話を続ける。

「先生は、かつて洲ノ崎燈台の周辺にはマーガレットが咲き誇っていて、マーガレット岬なんていう別名で呼ばれていたことはご存知でしょうか?」

「ええ、知っているわ。マーガレットの花で花占いをするシーンがあるもの」

 尋ねると、目をつむったまま美崎糸子が答える。作品の中では、真紘がマーガレットの花畑から一つ花を摘んで結子に持っていき、ふざけ半分で「このまま一緒にいるか、それぞれの日常に戻るか、花に占ってもらおうよ」と花占いをするシーンがあった。

 今はかつてのその名を復刻させようとマーガレットやひまわりの花が植えられているそうだけれど、それはごく最近の話。刊行当時、または執筆当時はマーガレットの花は咲いていなかっただろう。けれどそれをあえて印象的なシーンの一つとして組み込んだということは、美崎糸子自身にもマーガレットは思い出深い花であることに違いない。

「そうですよね。ご自身でお調べになったり、親しい方からお聞きになったり、ここが昔〝マーガレット岬〟と呼ばれていたことは、いくらでも知りようがあります」

「そうね。その話は確か、知人から聞いたわ。花言葉は、真実の愛や、恋占い。フランスでは、愛している、少し愛している、とっても愛している、全然愛していない、の四つの言葉で花をちぎって、本格的に占うなら正午に太陽に向かってはじめる、とかなんとか。その人もフランスの花占いを真似てやってみたそうよ。結果は、全然愛していない、で最後の花が尽きてしまったそうだけれど。……それがどうしたの?」

「いえ。では、先生の熱烈なファンの方に〝岬の灯台守〟さんという方がいらっしゃるのはご存知でしょうか? その方のまとめサイトに、以前友人が作品とまったく同じ土地を旅したことがあり、どれも素晴らしくて涙が出たと言っていたことが書かれています。岬の灯台守さんの感想として、偶然にしては出来すぎた運命めいたものを感じる、そういえば友人は、普段花にはとんと興味を示さないのに、マーガレットの花だけは道端などで咲いているとよく眺めて花占いをしていたような気がする、と。……男なのに、って」

 そう言うと、美咲糸子の表情がわずかに変化した。驚いて目を見張ったり「え」と声を発したりすることはなかったけれど、ほんの少しだけ唇を噛みしめる。

 まるで胸に去来する大きな感情の塊を静かに飲み込んでいるようだった。『ヒッチハイク・ランデブー』が書かれた当時の美咲糸子の背景を辿ってみても、ちひろにはこれが、彼女が試した〝何か新しいもの〟としか、結論付けられなかった。

 す、と息を吸い、ちひろは続ける。作品からではなく、美咲糸子本人の経歴や背景から紐解いた一つの仮説は、彼女からすれば、なんてことをしてくれたんだと思うようなものだ。校閲の目で、という条件を完全に無視しているし、こうやって調べられることも、有名税なんて言葉ではまったく割に合わない。けれど――。

「……先生、先生が探している方は、岬の灯台守さんのご友人なのではないですか? サイトの更新はもうずいぶん長い間止まっていましたし、メールフォームも凍結されていたので、こちらからは連絡の取りようがありませんでした。ですが、友人の方はその後、ご実家の花農家を継ぐために埼玉のほうにお帰りになられたそうです。一度、東京で大学生活を送られたみたいですね、ご友人は。岬の灯台守さんの当時のプロフィールに〝東京で大学生をやっている〟とありましたから、岬の灯台守さんとご友人は、大学で知り合ったのかもしれません。載っているものを全部信じるわけではありませんけど、もしご友人が今も埼玉で花を作っているんだとしたら、今からでもけして会いに行けない距離ではないと思うんです。お叱りを受けることを覚悟で先生の経歴を調べさせていただきました。先生の……亡くなられた妹さんのためにも、そのことをお伝えしたり、彼の〝今〟を見てきていただくことはできないでしょうか。――マーガレットの花束を持って」

 彼に妹さんの今を伝えることはできる。美咲糸子が彼の今を見に行くことはできる。

 古いものだから当然、彼が今も家業の花農家をしている確証はないけれど。

 でも、マーガレットの花は、毎年必ず咲く。必ず咲くのだ。

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