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駅へ向かう車の中で、後部座席に座ったちひろと美崎糸子は、タブレットで岬の灯台守さんのサイトを開き、二人で眺めた。「読めば読むほど友人があのときの彼とダブって怖いくらいだわ」とこぼした彼女は、けれどすぐに「でも、こうしてファンでいてくれることがとにかく嬉しいし、この人がいなかったら、その後の彼のこともわからないままだったでしょうから、これも一つの運命よね」と言って、カラカラと笑った。
やがて館山駅に着くと、彼女は「ここからは一人でいいわ」と言って颯爽と駅舎に入っていった。その凛とした後ろ姿を見送りながら、ちひろは、これできっと美崎糸子はスランプから抜け出せるだろうという強い確信に胸が熱くなった。運転席で「先生ってこんなにパワフルだったんだなぁ……」と苦笑している櫻田も、なんだかんだでちひろと同じような確信を持ったらしく、後部座席を振り返ると白い歯を見せてニシシと笑う。
「先生の新作、すぐに校閲させてやっから、スケジュール開けて待ってろよ~。川越から戻ってきたら、作品の打ち合わせにプロット作りに忙しくなる。俺もとことん先生のわがままに付き合ってやるんだ。ちひろちゃんには負けらんないし!」
「そうですね。校閲が誰になるかは、そのときの運次第ですけど、私もぜひ先生の校閲をさせていただけたらと思います。それもこれも、櫻田さんの頑張り次第ですね」
すると櫻田が「あ!」と声を上げた。その顔が、いつかのようにニヤニヤとだらしないものに変わっていく。何事かと思って数瞬後、ちひろは、しまった! と後悔する。
……また〝櫻田さん〟と言ってしまった。いくら気が抜けていたからとはいえ、度重なる幻滅に次ぐ幻滅でちひろの中の櫻田の評価は限りなくゼロだというのに。なんということだろうか、また変に櫻田の奴を喜ばせてしまったではないか。
「いいんだよ~、いつでも〝櫻田さん〟って言ってくれて。なんてったって、俺とちひろちゃんの仲じゃん。柾さん、って呼んでくれても全然オッケー。むしろ大歓迎!」
猛烈な恥ずかしさのあまり耳の付け根まで真っ赤にしながら櫻田から顔を背けると、相変わらずニヤニヤした口調で奴がそんなことを言う。だから、なんでそうなる。
「もう絶対に呼びませんっ! この間も似たようなことを言ってましたけど、編集さんと私の仲って一体、どんな仲なんですかっ。いい加減、調子のいいことは言わないでください。こっちは貴重な土日休みを返上して洲崎を回ったり、先生のところへ伺ったり、いろいろしたんですから。これで廻進堂までまたお預けにでもなったりしたら、口だけじゃなく本当に相原編集長に訴えに行きます! もう待っていられません!」
ちひろはたまらず、くわっと櫻田のほうに顔を向け、声を荒げて猛抗議する。
本当にどこまで調子がいいんだろうか、この男は。仕事の顔をしていたと思ったら、何が嬉しいのかだらしない顔でニヤニヤ笑ったりなんかして、あー気持ち悪い。
名前でなんて誰が呼んでやるものか、とちひろは鼻息荒く思う。数多の小説で読んできたからわかる、こういうバカは一生、こういうバカのままだ。廻進堂の和菓子のため、今までは嫌々ながらも仕方なく許容してきたけれど、これ以上は付き合いきれない。
「ちょっ、ここで編集長の名前は反則でしょう……!」
「何が反則なもんですか。念書、忘れたんですか? 当然の権利を主張してます!」
「ちひろちゃ~ん……!」
「気持ち悪い声で呼ばないでくださいっ」
櫻田は絶対、サブキャラたちのイラつきポイントの結晶のような男だ。運転席で急にあたふたし出した櫻田を冷ややかな目で一瞥すると、ちひろは後部座席のドアを開けて、一人ずんずんと駅舎に向かって歩いていく。慌てて助手席の窓を開けた櫻田が「ちひろちゃん、どこ行くんだよ~!」と情けない声で呼び止めるが、ガン無視だ。必要以上にイライラさせられるし、調子がいいし、一緒にいるとバカが移りそうだ。
「うそ……」
しかし、切符を購入してホームに出ようとすると、ちょうど一時間に一本の電車が出ていくところに遭遇してしまった。あの電車にはおそらく、美崎糸子が乗っているだろう。もし乗り合わせていたら、つい今しがた別れたばかりなのに、お互いに格好がつかないし気まずい思いをすることになっただろうけれど、今は断然そっちのほうがいいとちひろは思う。なんていうタイミングの悪さだろうか。これもすべて、櫻田のせいだ。
そうして駅舎の中で湧き上がる行き場のない怒りとともに途方に暮れていると、少しして櫻田が慌てて中へ駆け込んできた。レンタカーを返して走ってきたらしい。駅舎の片隅にちひろの姿を発見すると、すべてを察したようにニヤリと笑って、
「どうせだから、近くの『喫茶マリンちゃん』でお茶でもしない?」
立てた親指を駅舎の出入り口に向け、ちひろはがっくりと項垂れるしかなかった。
*
それから三日後。
櫻田経由でちひろにメールが届いたとかで、再び櫻田が校閲部に顔を出した。今日も奴の手には廻進堂の和菓子の袋はなく、ちひろは早々に眉間にしわを寄せる。
「まあまあ、ちひろちゃん。そんな顔しないで、これ見てよ」
しかし、そう言われて訝しみながらもプリントアウトした紙を読んでいくと、次第に眉間のしわが消えていった。代わりにかすかに手が震え、目が潤んで字が追えなくなる。
それは、美崎糸子からのメールだった。
マーガレットの花束を携えてしらみ潰しに探した川越の花農家の一つにあのときの彼がいて、五年前に結婚して子供も二人生まれ、家族や奥さんとともに日々花を育てている、ということが書かれていた。また、妹の結子さんのことも覚えていて、作品を読んで何度も洲崎に行こうとしたが勇気がなくて行けなかったこと、一生忘れられない思い出だと話していたこと、春になれば家の敷地内いっぱいにマーガレットの花が咲き、まるで白い絨毯みたいでとても綺麗なんですよ、と目を細めて笑っていたことも書かれていた。
結子さんがもうこの世にはいないことは、『ヒッチハイク・ランデブー』や、その後、美崎糸子が受けた文芸誌のインタビューで妹さんのことに触れた記事などから薄々わかっていたという。当時は美咲糸子という作家のことは知らなかったが、大学生のとき、読書好きの友人である
単行本としては驚異的なスピードで売り上げを伸ばしていた『ヒッチハイク・ランデブー』を彼が実際に手に取ったのは、発売からわずか三ヵ月で第八刷まで重版になっていた頃だったという。大田原さんに言われてすぐに本屋に駆け込むと、帯にでかでかと『植木賞候補作』と付けられたそれを手にレジに列ができていて、すごく不思議な感覚がした、と彼は日に焼けた顔に目尻のしわを刻みながら懐かしそうに微笑んだそうだ。
そのとき美崎糸子は、心の底から書いてよかったと思ったという。若くして亡くなってしまった結子さんの生きた証というよりは、やはり家族なのに結子さんを救えなかった自分のどうしようもなさが今でも先に立っていたけれど。結子さんにも、この彼にも、ようやく許してもらえたような気がして涙が止まらなかったと、そこには書いてある。
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