3
「うぎゃあぁぁぁ――!!」
しかし、そんな三佳の同情心はあえなく粉砕される。
『ふふ、ふふふふふ……。見つかっちゃったぁ』
残っている物もなく、ただガランとしたクローゼットの壁から出てきたのは、目が落ち窪んだ真っ白な顔の女の霊。メデューサのごとくウネウネした髪が頬に張り付いていて、見るも恐ろしい姿だった。さらに恐ろしいことに、頭部しかないのである。
再び腰を抜かす三佳をよそに、狭いクローゼットの中をあっちへフラフラ、こっちへフラフラと頭だけで漂う様は、下手なホラー映画よりホラーだ。
……でも、なんとなく。なんとなくではあるが、嬉しそうに見えなくもなかった。
〝見つかっちゃった〟ということらしいけれど、その実、どういうわけか、まんざらでもなさそうな感じに見えるのだから、こちらとしてもリアクションに困る。
「か、かくれんぼ……?」
『ふふふ、そうね。もういいかい? って探してくれる人はいないけど』
「ぎゃーっ!! 会話できちゃってる!!」
つい思ったことが口について出れば、普通に会話ができてしまい、その点で三佳はまた叫び声を上げた。今までこんなことはなかっただけに、やはり早坂が言うところの〝びっくりするくらい憑かれやすい体質〟と関係あるのだろうかと、否が応にも思わされる。
ただ三佳は、霊やあやかしや自分の体質を、まだ心から信じたわけではなかった。
早坂のオオカミ姿は見たし、あれだけの睡魔も早坂が祓ってくれたとたんに嘘のようになくなった。今だってバッチリ霊が見えているし会話も成り立っている。でも、往生際が悪いと言われようと、夢であってほしいという願いも十分に持ち合わせているのだ。
……いや、願っている時点で九割九分、信じているようなものだ。それでも、こんなところにほとんど丸腰状態で閉じ込められた挙げ句、霊が出てきて会話もできるという、この奇妙奇天烈な状況を鑑みるに、やはり夢であってほしいと切に願わざるを得ない。
『ねえ、ついでだし、もう一つ見つけてもらいたいものがあるんだけど、いい?』
「……つ、ついでの意味を知るのが怖いんですけどっ!」
が、やはり霊には三佳の切なる願いなど関係なかった。
しまった、返事しちゃったよ! と大慌てで手で口を押えるものの、時すでに遅く、霊はまた嬉しそうに狭いクローゼットの中をフラフラ漂いはじめてしまう。
――ていうか、まさか体とかじゃないよね!?
その考えに至った三佳は、霊が出てきた際に尻もちをついたままになっていた両足が今さらながらガクガク震えはじめた。もし霊の探してほしいものが三佳の想像どおりなら、きっと自分の遺体だ。骨だ。それは断固拒否したい。ぜひとも拒否させて頂きたい。
だって、こちとらハウスクリーニングが仕事であって、遺体探しなんてまったくの専門外。フィールドがまるっきり違うのだ、頼まれたところで無理なものは無理である。
それに、この世には警察という正義の味方がいる。
仮にこの霊が失踪者だったとして。捜索願も出されているとする。だったら、場所や時期や名前や年齢などの詳しい情報を教えてくれれば、早坂に話をして警察に動いてもらうことができるのではないだろうか。いいや、きっと動く。絶対に動く。
だからそれまで、あともうちょっとだけ辛抱してほしい。もう少しだけ発見を待ってくれたら、警察が必ず見つけてくれる。身元を明らかにしてくれる。そうすれば、三佳もその状態で霊の安らかな冥福を心から祈ることができる――。
『やぁねえ、そんな大げさなものじゃないわよ』
すると霊は、そう言っておかしそうにフワフワ揺れた。
「じゃ、じゃあ、何を探して……?」
『写真よ。って言っても、ある場所はわかっているの。ただ私、こんな体でしょ? いや、体っていうか、普通の人には見えない存在って言ったらいいかしら。とにかく、私じゃ写真を手に取ることもできないし、物を避けて探すこともできない。そこに満を持して視えるし話もできるあなたが来てくれたじゃない? 嬉しくてつい、中に押し込めちゃったのよね。ふふ、でも、あなたが来るまでが、もう本当に大変で大変で……』
「た、大変……?」
聞くと霊は、まるで水を得た魚のように嬉々として語りはじめた。
『そう。もともと私、この部屋に住んでたんだけど。酔っ払ってたのよ、転んだ拍子にうっかりバスタブに頭を打ち付けちゃってね。打ち所が悪くて、そのまま死んじゃったの。シャワー浴びてたときだったから、お湯も出っぱなし。だけどこれが、下の部屋の人が夜勤で外出してたの。いつもどおり仕事に行ってただけだったのに、帰ってきたら部屋が水浸しになってて、でも上の部屋の人――つまり私は一晩の間に冷たくなっちゃってたものだから、何をしても、うんともすんとも言わない。もうね、あのときばかりは申し訳ないわ、でも裸を見られるのが恥ずかしいわで、どうしたらいいかわからなかったわよ』
「そ、それはまた……」
なんとも不幸な話だ。このとおり、本人は明るく語っているが、死んでも死にきれなかっただろう。それに、誰だって裸を見られるのは愛する人の前だけがいい。仕方がなかったこととはいえ、その言葉で片づけるには、あまりに不憫な最期である。
『ここまで言えばもうわかるわね? そのあとはアパートを管理してる不動産屋が出てきたり、警察がやって来たりして、もうてんやわんやの大騒ぎよ……』
すると霊は、言葉を失う三佳の前で悲しげに揺れると、疲れたように頭を振った。
『結局、二部屋ともダメになっちゃったから、不動産屋は床の張り替えやら天井の修理やらで、事後処理に追われたわ。何より痛手だったのは、自分たちが管理する部屋で人が死んだことで生じる損害の大きさよね……。警察も私の死因は不運な事故死としてくれたけど、部屋を貸せる状態に戻すには時間もお金もかかるし、借りたい人が現れた場合、不動産屋はそのことを開示しなきゃならない。……これじゃあ誰も住みたがらないに決まってるわ。下の部屋の人もすぐに引っ越しちゃったし、ほかの部屋に住んでいた人も、そのうちみんなどこかに行っちゃったわ。――残ったのは私だけよ』
「……じゃあ、それ以来、ここに一人で……?」
『そうね。もう丸二年になるかしら。私が死んだのは三年前なんだけど、その後一年の間に部屋の住人はみんな引っ越して行っちゃったから。それでもちょこちょこ住む人はいたの。だけど二年って案外短いのね。その間に誰も寄り着かない物件になっちゃって、不動産屋はますます採算が取れなくなって、私はここから離れられなくなって……』
「……そう、だったんですか……」
なんて悲しい出来事なのだろうか。ということはつまり、この霊は二年の間に地縛霊化しつつある、ということなのかもしれない。三佳が今まで遭遇してきた数々の不運やプチ不幸なんて可愛いもの、まるで不運でも不幸でもなかったと思えるほどだ。
……いや、そもそも比べるものでもないだろう。だって三佳は生きている。
『ふふ、そんなに悲しそうな顔をしないでよ。私まで泣けてきちゃうわ。でもね、わかってるのよ。私がこの部屋に憑いているばっかりに良くないことが起きるって。私がここに留まっているせいで余計な
「――わ、わかりました! 私が探します、私に探させてください!」
とうとうシクシクと泣き出してしまった霊に、三佳はドンと胸元の刺繍を叩く。
さっきは人間に恐怖を与えるのは恨みや憎悪や愛憎といった負の感情に起因するところがあると思った。けれど、余計なものまで集まってきていることを自覚しているなら、部屋に近づいていくにつれて空気が変わっていったことも、ドアを開けた瞬間の圧倒されるような禍々しさも、この霊とは無関係なんじゃないだろうかと思う。
それに霊は、何も恨んでなんかいないと思う。
彼女はきっと、生前の〝未練〟に縛られているだけなのだろう。それがおそらく〝余計なもの〟が引き起こす負の空気の中に違和感として覚えた大きな悲しみの感情だ。
――だったら、私が未練から解放してあげなきゃ。
三佳はそう思った。だいたいの事情は掴めた。ぜひ手助けさせてほしい。
『ほ、本当に!?』
「はい。写真なら、きっと私でも探し出せると思うんです。どこにあるかもわかっているんですから、話は早いですよ。それに、故人の思い出のものを、残されたご家族や大切な人、あなたのように亡くなってからも探し求めている人にお返しするのも、ハウスクリーニングの仕事の一つだと思うんです。……もちろん、悲しみはけして消えません。けど、そうしてお返しすることで、少しだけでも心が安らかになって頂けたり、浮かばれた気持ちになって頂けるかもしれません。私の仕事は、そういう仕事でもあると思うから――って言っても、今年入社したばかりのぺーぺーなんですけどね。でも、頑張ります!」
驚いた声を上げる霊に、三佳は一つ大きく頷くと笑って答える。
本当は恐怖心がまだまだ勝っている。おそらく霊は目を見開いたのだろうけれど、もともと落ち窪んでいるので表情で感情は読み取れないし、このとおり気さくな人柄ではあるものの、何より頭だけというのが、どうにも背筋がゾワゾワして落ち着かない。
けれど、言ったことは本心だ。
ただ物件を綺麗にするだけがハウスクリーニングの仕事というわけでもないだろう。夜に赴く物件での掃除はおそらく、そういった〝思い〟も掃除するのが仕事だ。
もちろん怖い思いはする。危険な目にも遭う。でも、視えるし話せる三佳は重宝してもらえる。早坂にもそうだけれど、彼女のように事情を抱えた霊にも。
『ありがとう。本当に、ありがとう……』
「いえ。これが私の仕事ですから。それより例の写真ですよ。どこにあるんです? 探しますから教えてください。必ず見つけますから」
絞り出すように礼を言った彼女に、三佳はもう一度大きく頷くと、笑った。
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