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 とはいえ、明日の飯の権利を握られている以上、三佳に選択肢はなかった。

 夜――出やすいという深夜の時間帯を待って〝お掃除物件〟とやらに赴くと、そこは、ごくごく普通の二階建てアパート。ひとり暮らし用で、古いわけでもないが新しいわけでもなく、本当に〝ごく普通の〟という言葉がぴったり当てはまる物件だった。

 逆を言えば目立つところがない。アパートなんてだいたい似たようなものだけれど、例えば、外壁が赤や青で塗られていて印象に残るとか、屋根の形や素材がほかとは一風変わっていて遠くからでも目立つとか、そういった突出したところがないのだ。

 仮眠を取ってくださいね、とは早坂の言葉だ。でも、強制的に向かわせられるのに寝られるわけもなく、むしろ時間が経つごとにギンギンに目が冴えてしまって仕方がない。

 だって、どんなに恐ろしい目に遭わされるだろうと、身も心も縮み上がる思いなのだ。そんな心理状態で仮眠を取れるほど、三佳の精神力は鋼じゃない。

 そんな中見上げたアパートは、しかしある一点でとんでもなく目立っていた。

「……うう、く、暗い……」

 夜なのに部屋の電気が一つも点いていないのだ。

 早坂から衝撃的すぎるカミングアウトを受けたあと、物件についていろいろ説明してもらった際、今は入居者はいないということで、予備知識として真っ暗であることは頭に入っているつもりではいた。けれど、想像するのと実際に目で見るのとでは、抱く印象にかなりの差が生じる。わかっていたとはいえ、そこは不気味に十分目立つ。

「しかも角部屋でしょ、北側二階の。怪談とかオカルト話でもよくあるじゃん、そういうところって溜まりやすいって。もうほんと……ああ、もう……」

 それに、出る・・という部屋は三佳の独り言のとおりだ。

 早坂の話では、北側や二階といった場所にピンポイントに溜まったり出たりするわけではないという。が、やはり角部屋は好まれるそうだ。……何にって、霊にだ。

 三佳も心からそう思う。へっぴり腰になり、懐中電灯で足元を照らしながら鉄製の階段を一段一段、十分に時間をかけて上っていくたびに感じるのは、素人感覚ながら目的の部屋へ近づいていくにつれて空気の種類が明らかに変わってきたことである。

 ――『今夜は記念すべき野々原さんの初体験となるわけですから、当然、無理強いはしません。ですが、部屋の中には必ず入ってくださいね。そこで僕の到着を待つんです。まあ、それは僕のタイミングになってしまうんですが、でも心配はいりません。時間をかけるのはあまり好きではないのでね。さくっとやっちゃいますよ』

 物件説明の際の早坂の言葉が、耳に鮮烈によみがえる。

 聞こえ方によっては、真っ当なほうの夜的なニュアンスに聞こえなくもないけれど。でもこれはあくまで〝危険物件〟の〝掃除〟であって、早坂が言ったとおり、三佳は彼が彼のタイミングで姿を現すまで部屋の中で過ごさなければならない。

 早坂の話にもあった。

 早坂が先陣を切って乗り込んでいったとしても、向こうは(つまり霊は)、彼の力を察して一時的に避難するだけで、しばらくすると元どおりになってしまうと。

 それでもダメ元で「外ではダメなんですか?」と尋ねたところ、返ってきたのは「ふふふふ……」だったので、三佳は早坂の意図するところを推し量るしかなかったのだ。

 ただ、そのときに真新しい作業着を進呈してもらったのは、純粋に嬉しかった。

 薄ネズミ色で、胸元に《早坂ハウスクリーニング》と刺繍が入っている作業着は、正直言ってかなりダサいけれど。でも、嬉しくないわけがない。だっていわば制服、ユニホームのようなものだ。あるのとないのとでは、やはり入る気合いも違ってくる。

 問題の部屋の前に着くと、三佳はその作業着の刺繍をぎゅっと握り、反対の手でドアノブを強く握りしめた。今の三佳の唯一の拠りどころは、そこしかなかった。

「――ぃよっし! 明日のご飯は何にしようかなー!」

 気合いを入れ、できるだけ楽しいことを喋りながら一気にドアを開け放つ。

 普通なら入居者はいなくても鍵は必ず掛かっているものだが、今日は特別にこの部屋だけ、あらかじめ鍵は開けてあるとのことだった。アパートを管理する不動産会のほうも、この部屋のみならずほかの部屋でも一ヵ月と経たずに入居者が出ていってしまい、ほとほと困り果てているとのことだ。それがあって、今は入居者の募集はしていない――というより、できないそうなのだ。これでは不動産会社も商売あがったりというわけで、早坂が〝掃除〟の依頼を受け、三佳がまず送り込まれたと、そういうわけである。

 想像するに、この部屋を拠点にしている霊はアパート全体にまで力を及ぼすほど強力なのだろう。その話を聞いたとき、三佳はどんだけだよ! と声高に思った。また早坂は、今夜の物件は三佳のデビューに打って付けだと言った。けれど、ドアを開け放つなり圧倒されるような重い空気に息苦しさを覚え、どこが!? とも心底思う。

 真っ暗で、部屋のそこかしこから漂う負の空気。それは、ともすれば正気を保っていられなくなってしまいそうなほど濃厚で重厚で、そして――大きな悲しみが感じられる。

「これじゃあ、いくら家賃が安くても住み続けられないよ……」

 玄関先に佇んだまま、三佳はたまらず独り言ちた。

 最寄り駅からも徒歩七分と、そう遠くもなく、加えて徒歩圏内にはコンビニや、小さいながらもスーパーにドラッグストアまであって家賃三万円は、喉から手が出そうなほど魅力的な物件だ。間取り図を見ても、ひとり暮らしをするには十分な広さだし、部屋の中の写真にあったキッチンにバストイレといった水回りも綺麗で充実していた。

 でも、この空気にてられては、出ていきたくなって当然だ。

 早坂からは必ず中に入るようにと言われているが、玄関先でもこれなのだ。部屋の中に充満する空気の重さに、三佳の足は中へ踏み込むための一歩がなかなか出ない。

 ――と。

「きゃあっ!?」

 突如、背中に突き飛ばされるような衝撃を感じ、三佳は悲鳴を上げた。まるで尻込みしている三佳に痺れを切らしたようなそれは、体を否応なしに部屋の中に入れる。

「えっ!? ちょ、待って!!」

 次の瞬間には無情にも背後でドアが閉まる音が響き、次いで鍵の掛かる音までした。

 幸いなのは……と言ってもいいのか。その間、三佳の手にはしっかりと懐中電灯が握られていたので、真っ暗闇の中に丸腰で放り出されずに済んだ。ただ、突き飛ばされて転んだ際に思いっきり手首の内側をコンクリートの玄関に擦ったので痛い。すごく。

「っ。所長……!! 早坂所長っ!!」

 しかし三佳は、直後からドンドン、ダンダンとありったけの力でドアを叩きはじめた。

 擦り傷や打ち身になど構っていられるものか。それよりもっと恐ろしいものの中に放り込まれてしまったのだ。傷の痛みなど、もうないに等しい。

 だって、頭で考えなくても本能でわかる――閉じ込められたのだ、この部屋に。

 にわかには信じられないが、三佳の背中を突き飛ばしたのも、ドアを閉め、鍵まで掛けたのも、きっとこの部屋を拠点にしているもの・・の仕業に違いない。

 どうやらアパートに入居した人の気分や精神状態を悪くさせるだけではなく、三佳のように二の足を踏んだり初めから怖いと思いながらここへやって来た人間へは強行手段にも出られるらしい。何が目的でさらに怖がらせるようなことをするかは、わからない。わからないから、ただただ恐怖でしかない。得体が知れないぶん、それは増幅される。

「所長ってばっ!! こんなの聞いてませんよ、早く来てくださいよっ!!」

 涙声で叫び続ける三佳の精神状態は、もう崩壊寸前だ。

「……、……。……な、なんで来てくれないんですかぁー!!」

 が、残念なことに最大ボリュームで叫んだ声に応えてくれるものはなかった。そうだ、所長は所長のタイミングで出てくるんだった、と思い出したときには、三佳の喉はガラガラに枯れ、ドアを叩き続けた拳はジンジンと虚しい痛みしか残っていなかった。

 代わりに応えたのは、ガタリという何かが動く音だ。

「ひぃっ!」

 引きつった悲鳴を上げながらも条件反射的にそちらに懐中電灯の明かりを向けると、備え付けのクローゼットの扉がガタリ、ガタリ。まるで三佳を呼ぶように動いているのが目に留まる。

 ……もしかして開けてほしいのだろうか。とはいえ、ひとりでに動いているだけで空恐ろしく、加えてまだ早坂が登場するタイミングではないことを暗に示された三佳は、とたんに体中から力が抜け落ち、その場にヘナヘナと腰を抜かしてしまった。

 ――ガタリ。ガタ、ガタ。ガタガタ、ガタリ。

 しかし、その間もクローゼットの扉は動き続ける。しかも、それに呼応するように、あれだけ部屋中に漂っていた禍々しい空気の中に、大きな悲しみのような感情が広がっていくのだから、三佳はもう本当に何が何だかわけがわからなくなってくる。

 三佳を突き飛ばしたのも中に閉じ込めたのも、この部屋に憑く霊の仕業だ。でも、ひどい悲しみの感情も、クローゼットの扉を動かしているのも同じ霊なのだとしたら――あまりに両極端な行動すぎて、三佳にはどちらが本当の霊なのか、わからないのだ。

「しょちょぉ……」

 早坂を呼ぶ声は、もう蚊の鳴くようなものだった。


 けれどそれからも早坂は現れる気配を一向に見せなかった。

「――な、なら、私が開けてみるしかないべ」

 どれくらい経っただろうか、一念発起した三佳は、抜けた腰でどうにかフローリングの床に這って上がると、懐中電灯の明かりを頼りにクローゼットへ向かうことにした。

 恐怖といえども、晒され続ければ次第に麻痺してくる。さらに、まだ早坂が来るタイミングではないイコール自分が何かしらの行動を起こして霊をおびき出さなければ来てもらえないことにも気づいた三佳は、オオカミのくせに鬼だ!、私、女の子だよ!? という怒れる感情を原動力にして、腕の力を使いズリズリとフローリングの床を這っていく。

「うう……。この腰さえ元に戻ればすぐなのに……」

 とはいえ、思うように縮まらないクローゼットまでの数メートルがひどくもどかしかった。これではどちらがより幽霊らしいか、わかりゃしないとも思う。でも、こればっかりは仕方がないのだ。だって三佳の腰はまだ抜けたまま。完全にジレンマである。

 ただ、クローゼットに着いても、何をしてもいいわけではないだろう。床や備え付けの家具に傷を付けては、解決後に入居者を募集する際に修理が必要になるし、その費用を早坂ハウスクリーニングに――三佳に請求されても、金額にもよるが払える気がしない。

 なにせ初めての給料日もまだなのだ。

 それで買うものも、もうずいぶん前から決めてある。

 ――実家のある宮城の家族に花キューピット。

 大した金額は出せないが、それでも見て可愛く世話も楽しい花を贈ろうと採用直後から決めているのだ。それまでは絶対に死ねないし、なんなら明日のご飯にも夢を見たい。

 それに、三佳がクローゼットを開けると決めた直後から、禍々しさがいっそう薄らいでいるのをひしひしと感じる。代わりにどこまでも落ちていきそうな悲しみの空気が広がっていくけれど。でも、怖いよりは幾分マシだ。花を贈るんだ、明日のご飯は何にしようと休みなく未来に楽しい想像を膨らませていれば、なんとか相殺できそうである。

 ……というか、人間の順応力とはなんと逞しいのだろうか。

 これもひとえに昔からプチ不幸に慣れているせいだろうかと思うと苦笑がもれるが、それでも今、数々の不運によって鍛え上げられた何度踏まれてもしぶとくへこたれない精神力や、ちょっとやそっとのことではビクともしない根性をこれでもかと発揮できているんだと思えば、それも悪くないかもしれないという気がしてくるから不思議だ。

 いや、やっぱ違うか。

 ――とにかく。

「よ、よーし。開けますよー……。せ、せーのっ」

 クローゼットまで這っていった三佳は、つかまり立ちで体を起こし立膝をつくと、勢いをつけて扉を開けた。続けて中の隅々まで懐中電灯で照らしながら、万一にも残っているものはないか、薄ぼんやりとしか明かりが取れない中に注意深く目を凝らす。

 こういうのは、だいたいの場合において相場が決まっていると思う。

 霊は生前、思い入れの強かったものや場所に憑いたり、近くにいたりする。そしてこんなふうに生きている人間に恐怖を与えるのは、恨みや憎悪や愛憎や……負の感情に起因するところが多いと思う。完全に素人考えでしかないが、三佳も同じ立場だったら、どうにかして本懐を遂げたいと思うかもしれない。晴らしたいと思うかもしれない。

 たとえどんなもの・・になっても――とは、さすがに言い切れないけれど。でも、見つけてほしい、思っていることや感じていることを知ってほしいとは、たぶん思うと思う。

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