■0.これが事のはじまりなわけで 1

 この話は、三佳がまだ何も知らなかった、四月中旬頃までさかのぼる。


 その頃、どこの新入社員も同じだが、覚える仕事が山積みの三佳の頭は一週間も勤務すればパンク寸前になり、やっと三週間目に突入したときには、昼休みにデスクに突っ伏してしまうほど、体力的にも精神的にも疲労困憊を極めていた。

 その日はどうにも眠気に抗えず、スマホのアラームをセットすると、三十分だけ……と仮眠を取ることにした。一日中、緊張した面持ちでいる三佳に「休み時間まで気を張らなくていいですよ」と早坂が声をかけてくれたのは、つい二日前のことだ。少し目を瞑るだけでも、全然違う。幸い、昼休みはまだ半分残っている。

 とはいえ、人間の心理的に、言われてすぐに〝じゃあ、お言葉に甘えて〟というわけにはいかなかった。掃除は昔からわりと得意な分野ではあったものの、これからはプロとして掃除に赴く。加えて学生時代もそういったバイトをしたことはなく、要するに三佳は素人程度の知識と技量しか持ち合わせていなかったのだ。

 だったら昼休みや帰宅後にプロ仕様の知識を身に付けていくしかないというわけで、早坂にデスクワークを教えてもらいながら、一日でも早く戦力となれるよう、プロが使う掃除用具や洗剤のことなどを一生懸命に覚えようとしていた。

 けれど、今日に限っては本当に限界だった。早坂の温かい言葉に抗うこと二日、とうとう精魂尽き果ててしまったようで、まるで何かに覆い被さられているかのように肩のあたりから背中にかけてズンとした重みがあり、言い表しようのない猛烈な眠気が襲う。

 早坂所長もああ言ってくれたし、ちょっと休んでも大丈夫だよね……。

 そうして三佳は、疲れた体を少しでも休めようと、むさぼるように没睡していった。

 ――のだけれど。

 少しして、ふと頬に柔らかな刺激を覚えて、三佳は眠りから呼び戻された。

 といっても、まだまだ八割方は目覚めていない。夢うつつながら頬にかかる何かを無意識に手で払いのけ、また底なし沼のような眠気の中に意識を埋没させていく。

 アラームは最大ボリューム。しかも寝過ごしてはいけないと耳元に置いておいた。時間になれば嫌でも叩き起こされる手筈だ。それまでは、もう少しだけ休ませてほしかった。

「んん……ん」

 しかし、そんな三佳の胸中などお構いなしに、さわさわと頬を撫でる刺激は一向に止む気配がなかった。徐々に寝苦しくなった三佳は、さらに乱暴にそれを払いのける。けれどやはり、高級な鳥の毛で撫でられているような滑らかな感触は続いた。

「んもう、なんだべさ!」

 とうとう我慢ならなくなった三佳は、それを思いっきり掴む。意識はかなり覚醒しているが、まだ目は開けたくなかった。瞼が鉛のように重く、なかなか持ち上がらないのだ。

「……ん?」

 けれど、あまりの手触りの良さに、三佳は否応なしに薄目を開けさせられた。鳥の毛でもなければ、とことん手触り感を追及した毛布でもない。何かこう……今までに触ったことのない不思議な感触に、それが何なのか確かめてみたくなったのだ。

「うぎゃぁぁぁっ――!!」

 そのとたん、三佳は大きな悲鳴を上げた。

 目の前にあったのは、白い大きな犬の瞳。しかも、なぜか早坂のオッドアイと同じ色をした瞳が、三佳の悲鳴をもろともせず、じっとこちらを見つめていたのだ。

 早坂が犬を飼っているという話は聞いたことがなかったし、野良猫はそこら辺を闊歩しているが、野良犬となると今はとんと見なくなった。しかもここは東京である。そんな都会のど真ん中に――この事務所の中に犬がいるなど誰が想像できよう。あまりにも予期せぬものとの出会いは、三佳を最大ボリュームで叫ばせるには十分すぎた。

「あ、起きました? よく眠っていたので起こすのも忍びなかったのですが……仕事も慣れてきた頃でしょうし、そろそろ野々原さんにお見せしなければと思いましてね」

「ししし、しゃ、しゃべっ……!?」

「はい。実は僕は、オオカミのあやかしなんですよ。これから一緒に仕事をしていくわけですから、事前に知っておくに越したことはないでしょう? ということで、今夜は記念すべき野々原さんの初仕事です。ここにハウスクリーニングに行ってくださいね」

 が、予期せぬことは何度でも起こった。

 放心している三佳をよそに、喋る犬……もとい、白いモフモフの毛に覆われたオオカミ(の、あやかしらしい)の前足が、三佳の前にそっと一枚の紙をスライドさせる。

 パニック状態ながらも恐る恐るそれに目を落とすと、アパートの住所と名前、外観のカラープリントに掃除をする部屋番号。それから、まるでオマケのように太字で強調され、しかもご丁寧に赤で色付けされた【危険物件】の文字が飛び込んでくる。

「こここ、この【危険物件】って何なんですか!? ていうか――誰……いや何モノ!?」

 不穏な赤文字に嫌な予感しかしない。だがそれ以前に、何もかもが、わけがわからなさすぎる。琥珀色と淡いブルーのオッドアイと、泉が湧き出るような穏やかに澄んだ声も口調も早坂のものだ。早坂は自分のことを〝僕〟と言うのも同じ。でも、三佳にはどうしたって、目の前のオオカミのあやかしと三週間見てきた早坂の姿が繋がらないのだ。

 喋るオオカミ(の、あやかし)を目の当たりにした時点で気を失わなかったことを、よかったと捉えたらいいのか、失敗したと捉えたらいいのか……。

 すっかり目が覚めてしまっている手前、夢だと思い込むにはあまりに無謀だ。かといって、どうやって気絶したらいいかもわからないのだから、お手上げ状態だ。

 だって三佳は、今までこういったものとは縁のない人生を歩んできた。

 卒業ギリギリまで就職先が決まらず、生活費の足しにしようとはじめたバイトはすぐにクビになること二十数回という、なかなかに不運な今までではあった。自分でも、よく腐らずに明るく元気に真っ当に生きていられるなと自画自賛したいくらいである。

 でもこれは、どう甘い判定をしたところで、現実からかけ離れすぎているのではないだろうか。そりゃあ、姿形は違えど声は早坂そのもの、自分のことも〝僕〟と呼べば、大方の察しはつくし、ほぼほぼ確信的ではある。けれどもう一方では、絶対に信じてなるものかと、非現実的すぎる現実を断固拒否しようとしている自分もいるのだ。

 受け入れがたいものは、受け入れがたい。だって、こちらにも許容量とか許容範囲というものがある。

 これは、いくら不運に慣れている三佳とて無理である。だって喋るもの。(自称)オオカミだもの。しかも、あやかしだって!? ないない、あり得ない、あり得るはずがない。

 けれどオオカミは、何を今さら、と言いたげにため息を吐くと、

「どこからどう見ても僕――早坂慧じゃないですか」

「どこがですか!?」

「おお、威勢がいいですね。ヒゲがビリビリしますよ」

 言葉尻に被せて語気を強めた三佳に、感心感心とオッドアイを細めた。

 こんな場面で威勢の良さをアピールしたところで、一体誰得なのだろうか。というか、絶対に就職先を間違えた……と今さらすぎる後悔に頭を抱えるしかない三佳の救済は誰がしてくれるというのだろう。きっと誰にもどうにもできやしない。

 ――とにかく。

「……あの、本当に早坂所長なんです……よ、ね?」

「ええ。普段は人間の姿でハウスクリーニング会社をやっていますが、時と場合によってはオオカミの力を全開にすることもあります。まあ、たいていは人間の姿に耳が生えたり尻尾が出たり、といった具合ですが。相手の力や出方を見て、僕も力加減をするんです。弱い相手を前にわざわざ全力の姿を見せるほど、僕はサービス精神に溢れているわけではありませんからね。それに、いちいち全開にしていては僕が疲れてしまいます」

「はあ……」

「あなたはご存じないかもしれませんが、野々原さんはとにかく憑かれやすい体質なんです。さっきの猛烈な眠気は、生前、子育てと仕事と親の介護に旦那の世話に明け暮れ続けた結果、睡眠時間が削られただけでなく病を患ってお亡くなりになってしまった女性の霊が引き起こしたものなんです。どうにも寝たくて寝たくて仕方がなかったんですね。『あ、ちょうどいい器がある、入って眠ろう』――それが、あの眠気の正体です」

「うわ……」

「で、話は前後しますが、そこで野々原さんの出番となるわけなんです。僕の会社は、表向きは普通のハウスクリーニング会社をやっています。でも、裏の顔も持ち合わせているんですよ。……もうおわかりですね? 【危険物件】の処理や解決が、裏の顔です。僕が先陣を切って乗り込んでいっても、向こうは僕の力を察して一時的に避難するだけで、しばらくすると、また元どおりになってしまうこと、しばしばで……。こちらとしては一気に片づけたいわけですから、逃げられると、ほとほと参っちゃうんですよ。その点、野々原さんなら、自分が望むと望まざるとに関係なく霊のほうから寄ってきてくれるので、かなりの逸材なんです。今夜の物件はまさに、そんなあなたのデビューに打って付けの物件です。存分にその体質を活かして頑張ってくださいね。期待していますよ」

「ちなみに、私に拒否権は……」

「ふふ」

「あの、拒否権……」

「ふふふふ、ふふ」

「ないんですねわかりましたよ行きますよ!」

「お見事! それでこそ野々原さんです!」

 いまだにわけがわからなさすぎて頭の整理が追いつかないが、早坂のこの姿にも、もう一つの仕事とやらにも順応しなければ、三佳に明日の飯はないらしい。

 しかもこのとおり、危険物件での掃除は強制である。

 郷土にいる家族の手前、仕事が合わないなんて理由でのこのこ帰るわけにはいかないので、三佳は完全に投げやりで物件の掃除に行くことを了承するしかなかったのだった。

 職権乱用とは、まさにこのことである。

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