「そこまで言うなら、子どもを何匹か作りましょうか」

「はいっ!?」

 しかし早坂は、涼しい顔でそんなことを言う。確かアニメ映画にもあった。ただ、向こうはオオカミと人間の間の話だ。そこに〝もののけ〟はなかったように思う。

「いや、野々原さんなら、なんだか産めちゃう気がするんですよね」

「……」

 けれど早坂は、唖然とする三佳を無視して、ううむ、と真剣に考え込んでしまった。

 この人は一体、私の覚悟をなんだと思っているの……。

「バカなことを言ってないで早く帰りましょうよぉぉ!!」

 妊娠中の仕事はどうしましょうか、育児休暇もたっぷり取ってもらいたいですけど職場的には早く戻ってきてほしいのも本音ですし……などと何やらブツブツ言いはじめた早坂の声を遮り、三佳はすっかり晴れ渡った青空の下、盛大に声を上げた。

 朝からそういう話はやめてほしい。じゃあいつならいいのかと聞かれれば、それはそれで困る(少しだけ、ほんの少しだけ、満更でもないかな……なんて思ってしまい、そんな徹夜明けの自分に戦慄だ)けれど、少なくとも今していい話ではないような気がする。

 もしかしたら、数時間前までのことがあって、気落ちしているかもしれない三佳を元気づけようとしてくれているだけかもしれない。でも、寝不足の頭ではしっかりした判断ができるか自信がない三佳にとっては、冗談でもこれ以上話を広げてほしくはないのだ。

「もう! ちゃんと起こしましたからね! お疲れ様でした、お先に失礼します!」

 三佳の大声に笑いっぱなしの早坂のことなんて、もう知るものか。乱暴にあいさつをすると、三佳はプリプリしながら踵を返し、早々に帰ることにする。

 始発はとうに動いている。さっさと帰ってシャワーを浴びて、とっとと寝てしまおう。そして、明日の朝にはすっかり忘れ、いつもどおり事務所に出勤するのだ。

「野々原さん、忘れ物です」

 するとふいに、三佳の肩にふわりと手が添えられた。

 反射的に振り返ると、逆光になって顔の輪郭さえよく見えないというのに、早坂のアンニュイな瞳の色だけは必要以上によく見え、三佳は咄嗟に目を逸らす。

「……あ、ありがとう、ございます……」

「大事な作業着です。しっかり洗濯してくださいね」

「はい……」

 妙な照れくささを感じてしまうのは、どうしてだろう。子どもが何匹だなんて、三佳にはまだまだ遠い話だ。というか、やはり子どもの数は〝匹〟と数えるのが正解? ……いやいや。この話ごと明日の朝には忘れている予定なのに、そこは問題じゃない。

「それじゃあ、お疲れ様でした。また、明日」

「……はい。お先に失礼します」

 さっきまでの威勢はどこへやら。にっこり目を細める早坂の顔などまともに見れず、三佳はすごすごと逃げ帰るようにしてその場をあとにした。

 ああもう、なんなのあの人……と額に手をやった際に見えた手首の腕時計は、午前七時半。あと一時間もすれば、このビルで働く人々が続々と出社してくるだろう。その中にはもちろん、三佳が掃除したフロアで働く人の姿もあるはずだ。

 後味の悪さはいまだ消えないけれど、掃除に取りかかる前に霊に言ったことは本心だ。

 ――『じゃあ、せめて、このオフィスで働く人たちの心がこれ以上、私利私欲にまみれたり、混沌としないように、精魂込めてお掃除させてください』

 本当に、心からそう思う。

 今日くらいは、気持ちよく仕事ができるといいんだけど……。

 朝日に光り輝くビルを見上げて、三佳はひとつ、息を吐いた。


 *


 後日談として――。

 その日、銀行から戻ってきた三佳は、事務所に入るなりモフモフを叩き起こした。

「どうしたんですか、野々原さん。僕は今、うたた寝中で……」

「それどころじゃないですよ、所長! 先日のフロア清掃の依頼者さんから、ものすごい金額が振り込まれてるんですけど……! どういうことですか、これ!」

 やや不機嫌な様子の早坂など構っていられない。三佳は開いた通帳を早坂の目先にズイと差し出すと、これです、これです! と指で指し示しながら早口でまくし立てた。

 臨時休業の翌日、掃除完了の連絡は珍しく「僕からしておきます」と早坂が買って出てくれたので、三佳は内心、どういう風の吹き回しだろう……? と思いながら、その他の通常業務をこなした。しかし、それから三日と経たずに請求額より【ゼロ】が三つも多くお金が振り込まれていたのだから、当然三佳は記帳を終えた通帳を何度も見たし、先方が間違って振り込んだ可能性を考えて銀行からすっ飛んで帰ってきたのだった。

「ちょ、野々原さん、近い……でもこれで合ってますよ」

 けれど早坂は、欠伸を噛み殺しながら、のんびりとした口調で言う。いくら眠くても、もはや持ち芸のように一瞬で人間の姿になる早坂は、のっそりとソファーから起き上がると、三佳が掛けてやったブランケットを満足そうに手元に引き寄せる。

「……あ、合ってるって言ったって、とんでもない金額じゃないですか」

 その姿にちょっと可愛いなと思う反面、でも三佳は、桁を間違えた可能性もまだまだ捨てきれないと思った。個人と企業とでは比べること自体が変な話だが、鷹爪夫妻のときとは比べ物にならない金額なのだ。それも仕方がないと言える。しかも、たった一回の〝掃除〟だけでこんなに振り込まれては、なんだか申し訳ない気もする。たとえ実態がブラックどころかダークな会社でも、こんなに搾り取るのは良心が痛むのだ。

 すると早坂は、訳ありげに口元を引き上げる。

「あの会社、もともと何かを隠している空気があったんですよ。あの幽霊――岩田泰助いわたたいすけというそうなんですが、彼は生前、とても正義感の強い人物だったようで、開発途中のアプリゲームを競合他社から盗んでいることを内部告発しようとしていたらしいんですよ」

「――え?」

 それを聞いて、三佳は掠れた声しか出なかった。思ってもみなかった話に、頭が一瞬、真っ白になる。だってそうだろう。内部告発なんて、大手企業くらいでしか聞かない。

 固まる三佳を横目に、早坂は続ける。

「しかし、いよいよというときに濡れ衣を着せられたみたいなんです。どういう因果か、正義を貫こうとした内部告発者が、すべての悪事の根源にさせられたんです。あることないこと、様々でっち上げられ、上から圧力をかけられ……完全に戦意を喪失した岩田は、失意の中、屋上から飛び降り自殺。それさえ、あの会社は〝過労を苦に自殺〟ということで処理し、内部告発の件だけはひた隠しにして今も経営を続けているんです」

「そんな……だから、この金額なんですか?」

「先に言っておきますが、僕は口止め料なんて請求していませんよ? ですが、岩田のことをちらっと仄めかしたら、このとおりです。どうやら向こうは、逆にお金で口止めしてきたようですね。『夜な夜な飛び降り自殺する霊が出て社員がどんどん辞めていき困っているから、どうにかしてくれ』と依頼してきたのは向こうだというのに、おかしな話だと思いませんか。――本当に、人間とはなんて愚かな生き物なんでしょうか。人間の世界には〝正義は負ける〟という法則でもあるんでしょうかね……」

 そして、はぁと小さくため息を吐いた。

「……」

 三佳は言葉を失い、沈痛な面持ちで唇を噛みしめ、俯くしかなかった。オオカミのもののけである早坂にそう言われてしまえば、返す言葉もない。

 それに、そんな経緯があったなら、さぞ恨みも深かったことだろうとも思ったのだ。

 植え込みに落ち、一命は取り留めたものの瀕死の状態で死ぬに死にきれない。そこに通りかかった人に〝頑張ってください〟と言われたら、何を頑張ればいいんだと思っても不思議はないように思う。その人のことまで恨むのは、やっぱり間違っていると断固思うけれど、もうこれ以上頑張れないときの〝頑張れ〟は逆につらいものでしかないことは、三佳にもリアルに想像できる。就活中のそれは、想像以上にキツかったからだ。

「でも、どうしてその話を……?」

 あれから三佳も新聞記事をさかのぼって調べてみたが、個人の力では限界があり、岩田の記事も、悪霊化した岩田によって自殺させられたという人の記事も、特定することはできなかった。これだろうか、という記事はいくつか見つけることはできたけれど、確証を持って〝これ〟と言い切るには、小さな記事では難しいのが現状だったのだ。

 調べるには時間が足りなかったというのも、もちろんある。だが、【都内に住む会社員の〇〇さんが〇月×日、〇〇時、ビルの屋上から――】なんていう記事は、五年前の今頃、と時期を絞ってもそれなりに多く、行方不明者の記事とくれば、もっと数は少ない。調べれば調べるだけ気が滅入っていくようで、三佳は思うように手が進まなかったのだ。

 それを早坂は、短時間でこんなにも詳しい話を一体どこから仕入れたのだろうか。三佳には想像もつかず、恐れる気持ちと、それでも知りたい気持ちとの間で恐る恐る尋ねる。

「ああ、当時働いていた社員の方にお話を伺うことができたんですよ。すっかり刈り取られた植え込みに花束と缶コーヒーを供えているところを見かけたので、声をかけてみたんです。そしたら彼女――逢坂琴羽おうさかことはさんは、いろいろと話してくれましてね」

 掃除を終えて三佳が帰っていったあとの話だという。

 彼女の話では、掃除に行った日は、ちょうど彼が飛び降りた日だったそうだ。その明け方、彼は息を引き取ったらしい。命日には決まって手を合わせに来ていると逢坂さんは語ったそうだ。彼の生前は何もできなかったから、せめて魂が浮かばれるように、と。

「当時、岩田への風当たりは見るに堪えないものだったそうです。内部告発をしようとしていることをどこから嗅ぎ付けたのか、仕事のミスを岩田の責任にすり替えたり、山のように雑用を押し付けたり。それでも通常の仕事も当たり前に振り分けられていたそうで、いくら時間があっても足りない様子だったと逢坂さんは仰っていました。会社側は、精神的に追い詰め、音を上げさせようとしていたんですね。どう見てもひとりがこなせる量ではない仕事量をひっきりなしに押し付けられていたんだそうです。あっという間に岩田の血色は悪くなり、日に日に痩せ、最後のほうのデスクに向かう姿はほとんど死人か亡霊のようだったと、彼女は声を詰まらせ、悔しそうにそう言っていました」

 ――『何がなんでも岩田君を止めるべきだったんです』

 顔を覆い、その場でわっと泣き出した逢坂さんは言ったそうだ。

 ――『でも岩田君……もう少しで内部告発の書類が揃うから、って……。その頃はすでに、こっそり告発資料を作る時間さえ、とっくに奪われていたんです。ひとりで集めた資料も奪われていたので、また一から揃えなければならなくて……。それでも彼は、やっていました。〝正しいことを正しいときちんと言えるのが大人だから〟って、疲れ切った顔で笑うんですよ。それで、どうにかもう一度、告発資料が揃いかけたときでした。また奪われてしまって、体力も精神力もとっくに限界を超えていた岩田君は、資料がないと気づいたその日のうちに、失意の中、ビルの屋上から……』

と。

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