「酷い話です。ここまで腐った会社だなんて、言葉も出ません」

「本当にそうですね。私を殺そうとする前の岩田さん、〝土壌が悪いから、いくら種を植えても汚い花しか咲かない〟って言っていました。あれはこういう意味だったんですね」

「そうですか……。でも、まさにそのとおりですよね。汚染された土壌ごと一掃しようとしていたのに、もっと深い闇に堕ちてしまうだなんて、どこにも救いがない話です」

「……はい」

 そして、察するに逢坂さんは、岩田のことが好きだったのではないかと思う。

 岩田の生前の様子を克明に覚えていて、亡くなって五年、命日には欠かさず手を合わせに来るくらいなのだ、今もまだ忘れられないのだろう。……当時何もできずに後悔だけが残った思いも、そんな彼への恋慕も、こうして胸の中にいつまでも大事に抱えて。

「ですが、一番救われないのは、救急車を呼んだ人と、そのご家族です」

 しかし早坂は、そこだけはピシャリと言い切った。

「はい」

 三佳も強く首肯する。助けようとしたばっかりに、間違った悪意を向けられたのだ。岩田にも同情の余地は十分すぎるくらいにあるが、そこを見失ってはいけない。

 力強く頷いた三佳の頭に手を伸ばし、そっと触れると早坂は言う。

「逢坂さんに尋ねたところ、彼女は救急車に同乗したその人と駆けつけた病院で会ったそうで、その後、失踪してしまったことも、ご存知でした。岩田の携帯の発信履歴の上位にあったのが逢坂さんの番号だったそうなんです。そのほかは仕事関係の電話番号ばかりだったので、もしかしてと思って連絡を取ってみた、と事情を話してくれたそうです」

「そうですか」

「ええ。三十代中盤の、優しそうな男性だったそうですよ。岩田が懸命な処置を受けている間、ずっと付き添ってくれたそうで、気を紛らわせようとしてくれたんですね、心ここにあらずの状態の逢坂さんに何時間も取り留めのない話をしてくれたとのことでした」

「はい」

「事が事ですので、気を使ってか言わなかったそうですけど、その男性――須田壮介すだそうすけさんの左手薬指には結婚指輪があり、ちらりと見えたスマホの画面には、奥様と赤ちゃんの写真があったそうです。岩田は死後、奥様とお子さんの人生にも大きな傷を付けました。須田さんご夫婦双方のご家族にも同様のことをしたんです。友人たちにもです」

「はい」

「だから、事情を知る僕たちは、その事実を量り間違えてはいけないんです。ただ助けようとしただけの須田さんたちの人生を思えば、輪廻の輪に乗ることも、安らかに眠ることも、岩田には許されないことです。……彼の家族や逢坂さんには酷な話ですけどね」

「はい……」

 やはり、聞けば聞くだけ後味の悪い話であることに変わりはなかった。あの場では想像するしかなかった須田さんのことを知れば知るほど、やりきれない思いが募る。

 苦々しい顔と口調で〝岩田には許されないこと〟と言った早坂は、今回直面した人間の業の深さや底知れない闇を目の当たりにして、何を思い、どう感じたのだろうか。

 三佳には想像することしかできないけれど、もし早坂がそれでも三佳たち人間と共に生きると言ってくれるのなら、申し訳なくも、こんなに嬉しいことはない。

「さて。すっかり目が覚めてしまいましたし、ちょうどいい時間なので、おやつタイムにしましょうか」と笑った早坂にポンと手を打ち、「塩大福ありますよ!」と三佳も笑う。

 先日、キヨさんに食べられ(二人の間ではそういうことに落ち着いた)大いに嘆いてから、三佳の仕事に〝塩大福の調達および管理〟という一風変わった通常業務が加わった。要は、切らすな、ということだけれど、三佳もすでに老舗和菓子店『あずま屋』の塩大福の味に目がなくなっているので、毎日のように足しげく『あずま屋』に通うことは、まったく苦ではない。むしろ自分用にも買ってしまうくらい、大好物になった。

「お待たせしました、お茶が入りましたよ」

「待ってましたよ、野々原さん。さあさあ、早くテーブルに置いてください」

「……はいはい」

 待てができない犬……いや、オオカミとは、このことだろうか。目を輝かせてテーブルをパシパシ叩く早坂に苦笑をこぼしつつ、仕方がないので言うとおりにして差し上げる。これがオオカミ化した姿なら、尻尾がちぎれるくらいブンブンしているだろう。

「いろいろと食べ比べてみたんですが、あずま屋ここの塩大福が一番僕の口に合うんです。これがあるから、どんなに救いようのない人間や出来事に出会っても、僕は〝ひと〟という生き物に見切りをつけることができないんですよねぇ」

 すでに二個目の塩大福に手を伸ばしながら、早坂が言う。

「そうなんですか? てか、人間のそばにいる目的が塩大福って……」

「あ、バカにしないでくださいよ? 僕にとっては、あずま屋の塩大福を食べられるかどうかは死活問題なんです。見てください、この真っ白な餅に、キラキラ輝く粒餡を! 味わってください、この甘さと塩気の絶妙なバランスを! 感じてください、最高級の舌触りを! これはまさに国宝級ですよ……! 僕はこれさえあれば生きていけます!」

「……そうですか、それは何よりです」

 というか、何個食べる気だろうか、この人は。

 やや投げやりに相づちを打ちつつ、三個、四個と早坂の口の中に消えていく塩大福を眺めながら、三佳はお茶をすする。二個目に手を付けたいところだが、早坂の食べっぷりを見ているだけでお腹いっぱいになってしまい、お茶もあまり喉を通らない。

「ところで所長。振り込まれた大金は、どうしましょうか」

 休憩も終わり仕事に戻ると、三佳は通帳をしまった金庫に鍵をかけながらも、早坂に聞かずにはいられなかった。先ほど早坂は、自分たちは口止めされたようだと言った。この会社の資金が潤沢になるのはいいことだけれど、どうもモヤモヤするのだ。

「それなら心配ありません」

 すると早坂は、どこからともなくUSBメモリを取り出すと、ニヤリと笑った。いつの間にかスーツに身を包み、どこかへ出かける準備も整えている。

 ……へ? と目を瞠る三佳に、早坂は言う。

「振り込まれたお金を全額引き出し、このメモリを持って然るべきところへ行きましょう。五年越しになってしまいましたが、これも何かの縁ですから。僕たちであの会社を成敗してくれようではないですか。お金に目が眩んだと思われては『早坂ハウスクリーニング』の名も廃ります。これだけお金があれば、従業員たちもしばらくは食い口の心配をせずに転職活動に専念できるでしょうし、これで少しは救われる人もいるでしょう。須田さんのことは残念でなりませんが、野々原さんもそう思いませんか?」

「は、はい……!」


 そうして世間に明るみに出たゲームコンテンツ会社の不正は、日本中から大バッシングを受け、破産を余儀なくされた。一説によると、その市場規模は数億円とも言われ、それだけ多くのユーザーの支持を集めていたことが奇しくも明らかになる結果に終わった。

 社長をはじめとする幹部や、競合他社から開発ゲームを盗んでいた者は一括逮捕され、騒動から数ヵ月経ってもまだ取り調べは終わらないという。

 叩けば埃が出るどころの話ではないのだろう。三佳は、どれだけダークな会社なんだろう……と心底呆れるとともに、生前の岩田の執念を垣間見た気分だった。

 ただ、光葉は目に見えて落胆の色が濃かった。聞けば、月々千円程度ではあるが課金をしていたそうで、戻ってこないとわかっているが悔しくてたまらないと言う。期間は計、三年ほど。そんなことをしていたなんて三佳は初耳だったけれど、そりゃそうだよ……とそのときばかりは光葉にご飯をご馳走してやったのは言うまでもない。

 光葉のように嘆く人は全国にごまんといるだろうと思うと、少しだけ自分たちのしたことが正しかったのかと気持ちが揺らぐ。けれど、それだけ多くの人を巻き込んででも腐った経営体制を一掃しようと孤軍奮闘していた人と、その人を陰から見守り続けた人がいたことは忘れてはならないのだ。そして、もうひとり亡くなった人がいたことも。その家族が今も癒えない傷を抱えながら懸命に生きていることも、覚えておかなければならない。

 ちなみに、その不正にまつわる、あらゆるデータがびっしり詰まっていたUSBメモリは、一体どこから出てきたのかというと――。

「ああ、須田さんのハンカチに挟まっていたんですよ」

 と、早坂はあっけらかんと言った。

「そういえば、十日ほど野々原さんが肌身離さず持っていたことになりますね」

「へっ!? そ、そうだったんですか?」

「ええ。そのときの野々原さんは、どうやら目くらましに遭っていたようですね。ハンカチに血の跡なんてなかったでしょう? 憑かれやすいくせに霊だと気づかず、目くらましまで食らうとは、野々原さんの素直すぎる性分や体質は、もはや持ち芸の域でしょう」

「……」

 そう言ってクスクス笑う早坂に、三佳は返す言葉もなかった。穴がなくても掘って埋まりたいくらいである。バカすぎて恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだ。

「ですが、そういうあなただからこそ、岩田も野々原さんにならメモリを託してもいいかもしれない、と考えたのかもしれませんよ?」

「……え?」

「思うんですけど、取り殺すなら、なにも野々原さんじゃなくてもよかったはずです。憑かれやすいということは、それだけ引き寄せる力も強いということですから、目に留まりやすかったと考えることもできます。けれど、自覚していないだけの人も実はけっこう多いんですよ。なのに、なぜ野々原さんが選ばれたのか――それはおそらく、給料が引かれて路上でピーピー泣いていたから、というだけではなかったかも……しれませんよね」

「はあ……」

 それはつまり、あのときの三佳の様子に感じるものや惹かれるものがあった、ということだろうか。

 もしかしたら、悪霊と化してしまってもなお、まだ岩田の中には正義感の欠片が残っていたのかもしれない。あくまで憶測でしかないけれど、そうじゃなかったら、誰かに証拠のUSBメモリを託したりなんかしないんじゃないだろうか。

 だからといって、殺されかけたことを水に流せるほど、三佳の心ははがねでもないし菩薩でもないけれど。でも、早坂がそう解釈しているなら、わざわざ掘り返すこともないかなとも思う。だって岩田はもう、この世にも、あの世のどこにもいないのだから。

 それでもまだ、疑問は残る。例のUSBメモリの出所だ。

 でもそれは、早坂の話を聞いていれば、なんとなく察せるものがある。

 逢坂さんの話では、岩田はまたしても証拠を消されたことで自殺をしたという。だったら、もう一度その証拠を集めたのは一体誰だろう。自殺現場かもしれないし、あるいは岩田の墓前かもしれない。そこに、そのメモリを供えたのは――。

 そこまで考えて、三佳はゆるりと顔を上げる。

「そういえば、逢坂さんはあれからどうしているんでしょうか。須田さんのこともいろいろ調べてみてはいるんですけど、なかなか情報が集まらなくて……。所長は何かご存知だったりしませんか? できれば須田さんのお墓に手を合わせに行きたいんですけど」

 想像はここまでにしておこうと思う。何はともあれ、岩田の執念は死後、こうして本懐を遂げられたのだ。それに、三佳にできることはこれくらいしかない。

 言うと早坂は、一瞬だけ、また肩入れして……という顔をした。けれど、諦めたようにひとつ息をつくと、その後の逢坂さんや須田さんご家族のことを詳細に話してくれた。

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