もうすっかり見慣れてしまった早坂のオオカミ姿とはいえ、その俊敏さにも、竦み上がるような唸り声や、どこか切なさを孕んだ遠吠えにも、この二ヵ月間、三佳は遭遇したことがなかった。三佳とて、早坂がぐうたら寝ているだけではないことは、これでも十分に承知していたはずだった。けれど、もはや悪霊とはいえその喉元に牙を突き立てる瞬間をこの目で捉えてしまったショックは、それなりに大きいものでもある。

「……あの、あの人はどこに……?」

 何とも言えない後味の悪さを感じながら、三佳の横に立ち、屋上の出入り口をじっと見つめる早坂におずおずと尋ねてみる。三佳はまだ、ほとんど呆然としながら、高いフェンスで囲われた向こう――彼がいた空間の方向を向いたままだ。振り向かなければ、早坂が今、どんな顔をしているかは窺い知ることができない。

 聞かなくても答えはだいたいわかっているし、さらに後味の悪い思いをするだろうこともわかっていたが、切ない遠吠えがやけに耳に残って、早坂の口からきちんと聞かなければ、という一種の信念のようなものが、三佳の胸を静かに突き動かしていた。

「……」

 けれど早坂は、なかなか口を開こうとはしなかった。

「……あの、しょ、所長……?」

 あの霊に対して何か思うところがあるのだろうか、まさか今になって何度も犬呼ばわりされたことに口も利けないほど怒っているのだろうか、だったらどうやって宥めよう、と恐る恐る早坂の顔を覗き込んでみれば――。

「帰る気力も体力も失いました。とりあえずここで休みますから、野々原さんは、フロアを片づけたら帰る前に屋上に寄って僕を起こしてください」

「……え?」

「そして今日は臨時休業です。野々原さんもしっかり休養を取ってくださいね」

「うわっ、ちょ、ちょっと……!」

 すでに寝ぼけ眼でうつらうつらしながら、それでも言うことだけはしっかり言って、まるで電池が切れたかのようにその場にパタリと倒れ込んでしまった。

「ええぇー……」

 つーか、眠かっただけかい!

 犬の連呼に怒り狂っていたり、反対に心を痛めていたり……せめてそういった心配心を少しは返してから眠ってほしいものだと、三佳は呆れたため息を吐きながら切実に思う。

 一度オオカミの力を使うと眠くなってしまうことは、前回も、それ以前に赴いたお掃除物件でも経験済みだ。でもここは、深夜の風はまだ冷たいビルの屋上である。しかも、こんなケースは初めてだ。前まではどんなに眠そうでもちゃんと帰っていたけど、今回はよっぽど疲れたんだろうな……と思うと、無下に置いていくことも憚られるから困った。

「わ、もう夜明けじゃん」

 いつの間にかオオカミ姿で丸まって眠っている早坂から、ふと顔を上げると、ひしめき合う高層階ビルの谷間にわずかに見える空が少しずつ色を帯びはじめていた。

 どうやらもう朝方らしい。これじゃあ所長じゃなくても眠くなるよ、と三佳はふいに出てきた欠伸をひとつ、噛み殺す。残念ながら、まだ克明に後味の悪さが残っているせいで、死にかけたあとの夜明けは格別に綺麗に見える――というほど三佳の心を洗ってはくれなかったけれど。無事に生きて一夜を乗り越えられた安堵感は、確かにある。

「……これじゃあ、ちょっと寒いかもしれないですけど」

 スースーと気持ちよさそうに眠っている早坂の体に、作業着の上着を掛けてやる。温かそうなモフモフの毛並みがあるのだから、人間よりは寒さに強くできているとは思うけれど、ブランケットを掛けずに放置していたら「愛がない」と言われたことがある手前、掛けられるものは掛けてやるのが、やはり人情というものだろう。

「さて。じゃあ、掃除の続き、してきますね」

 そうして三佳は、今度は正真正銘〝普通の掃除〟に戻っていった。


 そういえば、あの霊が言っていたハンカチは、早坂に掛けた作業着のポケットの中だ。

 それを思い出した頃にはどうにかフロアの掃除も終わり、屋上で寝ている早坂を起こしに行く時間だった。霊が言っていたことが本当だとするなら、あのハンカチは救急車を呼んだり応急手当をしてくれた人のものだろう。遺族の側からすると、他人の血が付いたものでもハンカチが手元に戻ってこないのは、どんな気持ちなんだろうか。

 彼が死んだのは五年も前だという。その後、助けたその人も三佳と同様、体を乗っ取られて自殺させられたのだとすると、だいぶ前のこと、ということになる。

 あのハンカチは本来、三佳が持っているべきものではないことだけは確かだが、調べて遺族のもとへお返しするにしても、時間が経っているぶん、今さらなような気もする。しかも、死後に悪霊に堕ちた自殺者の血がベッタリと付いたものでもあるのだ。

「うーん……」

 実はあなたのご家族は、助けようとしたその人がのちに悪霊化して恨みを晴らしていたうちのひとりでした――などとは、とてもじゃないが言えない。にしても、今さら返しても、かえって失礼だろうか、でも、すごく大切なものかもしれないし……と、三佳はどうするのがいいのか、無人の廊下を屋上に向かいながら大いに悩む。

 答えが出ないまま屋上の扉の前までたどり着き、鉄製の重厚なそれを押し開ける。

 外は日がすっかり昇りきり、雲の合間に綺麗な青空が覗いていた。そういえば昨日見た天気予報では、今日は梅雨の晴れ間が覗くという。久しぶりの洗濯日和ということだけれど、この時季独特の湿った空気は相変わらず健在で、三佳は少々、苦笑する。

 まあ、部屋干しよりは断然いいけど。

 ワンルームの狭い部屋では、いい加減、干すスペースもなくなってきている。それに、心も洗濯しようにも、こう蒸し蒸ししていると、一日かけて天日で干しても結局九割くらいしか乾かないような気がして、それもなんだかなぁと思う。

 そして、苦笑の原因はもうひとつ。

「所長、終わりましたよ。起きてください、帰りましょ」

 むっとする空気の中、モフモフの体を揺する。今日はこれから暑くなるらしい。このままここで寝ていては、日差しと湿った蒸し暑さのせいで、のぼせ上ってしまう。

「……あ、終わりました? 野々原さん」

「はい。今日は暑くなる予報なんですよ。ここには日差しを遮るものがないので、もうちょっと寝るなら、帰ってからにしましょう。もうすでにけっこう暑いですし」

「そうですね。そうしましょうか」

「はい」

 ……というか、人語を話すオオカミというのも、なかなかシュールなものだ。しかし、起き上がると同時にパッと人間の姿になるのも、これはこれでシュールである。

「相変わらず、すごいですね、それ……」

 人間とオオカミの姿をいとも簡単に切り替える様子を目にするたび、三佳はどうしても狐や狸に化かされているような気分になる。どんなに緻密で精巧に作り上げられたマジックでも、タネがあるぶん、そちらのほうが万倍可愛らしいのは言うまでもない。

「なにを言っているんですか、もう驚かないくらい見慣れたでしょうに」

「はい、まあそうなんですけど。でも所長、こういう変化へんげの瞬間って、あんまり人に見られたいものではないんじゃないですか? しょっちゅう見てる私が言うのも変な話ですけど、もう少し慎重になっても損はないんじゃないかと……」

 誰に話すつもりもないし、それ以前に絶対に信じてもらえないだろうから誰にも話せないけれど、いくら社員の三佳の前であっても、あんまり無防備だといろいろと心配だ。

 一番気がかりなのは、変化の瞬間をうっかり他人に見られてしまった場合だ。そのときそばに三佳がいるとして、どう言い訳しようかと。三佳は早坂が人間とオオカミの姿を行ったり来たりする様を見るにつけ、頭痛の種が少しずつ増えていく気がしてならない。

「ははは、大丈夫ですよ」

 しかし早坂は、三佳の心配をよそに鷹揚に笑った。

「どうせ夢でも見たと思うのが関の山でしょう。人間は〝思い込む〟のが上手な生き物ですからね。それに、その力は人間にしかありません。そのおかげで成功を手に掴むことができるときもありますし、逆に死んでもなお、破滅することもあります」

「そういうものでしょうか……?」

「そういうものです。そうだ、試しに一度、野々原さんのご友人に事務所に遊びに来ていただいてはいかがでしょう? そのときは、うんとサービスしますよ」

「ぜひ遠慮させてください……」

 光葉には、つい最近も仕事中にもかかわらず電話をかけて泣きついてしまった。

 就職できずに困っていたときの三佳をどう思っていたのかも聞き、改めて彼女との友情の深さを痛感した瞬間でもあった。そんな光葉を面白半分で実験台になどさせてなるものか。

 心底嫌そうな顔で即断った三佳にまた笑うと、早坂は「ともかく」と場を仕切り直す。

「こういう仕事をしていれば、嫌な思いも、後味の悪い思いをすることもあります。それでも、僕は困ったことに、野々原さんを手放すつもりもないんです」

「所長……」

「あの霊に言われたことは、正直、半分は僕が野々原さんに抱いている懸念と同じです。だから忘れろとは言えません。でも、信じなければ、そこには信頼関係は生まれないんです。例えば、僕が無防備に姿を変えられるのは、野々原さんを信頼しているからできることなんですよ。ソファーでのんびり昼寝ができるのも、あなたが事務所にいるからです」

「そ、そんなこと……」

 急に早坂が優しいことを言ってくるので、三佳は頬や耳が熱くなり、モジモジと俯く。

 確かにあの霊に言われたことは核心を突いていたと三佳も思う。早坂からも、たびたび〝あまりものに肩入れしすぎないように〟と言われている。それで痛い目に遭うこと、しばしばだ。そのおかげで、今回は笑うに笑えない恋の入り口にも立ってしまった。

 彼は、人を疑うことを覚えろと言った。それはきっと〝人〟に対しても〝もの〟に対しても、過度に心を寄せすぎると痛い目を見る、という警告だろう。

 でも、その言葉に心の底から納得はできない。

 危うく自殺させられそうになったあとでも、それだけは、はっきりしている。

「あの……鷹爪夫妻の請求額の件、勝手なことをして本当に申し訳ありませんでした」

 光葉に念を押されるまでもなく、あの日の翌日、朝一番で早坂に謝っていたけれど、三佳は改めて深く腰を折り、頭を下げた。そのとき早坂は「もういいですよ、野々原さんの気持ちもわかりますし」と三佳の頭にポンと手をやり、笑って許してくれたが、今、どうしてももう一度、きちんと謝らなければならない気がしたのだ。

「……どうしたんですか、いきなり」

 目を瞠る早坂に構わず、三佳は続ける。

「鷹爪夫妻のことで信用を無くしていたのに、そんな私を当たり前に信頼しているだなんて言わないでください。無くした信用を取り戻すのは、信頼を得ることより時間がかかるのはわかっています。これからもっともっと信頼回復に努めます。だからどうか、末永く『早坂ハウスクリーニング』に置いてください。お願いします……!」

 今になって思えば、あのときは心のどこかに〝謝れば大丈夫〟という慢心があったように思う。向こう五ヵ月間給料カットに、以前早坂から「定年まで働け」と言われた記憶も新しく、よっぽどのことがない限り早坂が三佳を解雇するはずがないと思い込んでいたからだ。それも今では、なんて身の程知らずで恐ろしい考え方だったんだろうと思う。

 でも今は、心の底から早坂の信頼を得たいと思う。

 そのためには、光葉も言っていたように、今まで以上に会社にも早坂にも尽くす覚悟でひとひとつの仕事に真剣に臨まなければならない。

 できるかと言われれば、すぐに胸を張って「はい!」と答えられないのが悔しい。だってこれから先、どんな〝お掃除物件〟にひとりで送り込まれるか、わからないのだから。

 ただ、できるかどうかではなく、やるかやらないかなのだということは、わかっているつもりだ。ギリギリまで粘っていれば、必ず早坂が現れる――三佳的には遅いと思うこともあるけれど、そのことだけは、心にも体にも深く深く刻み込まれているのだから。

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