第9章 異世界ノ民‐25

「人間……なんだよな? 口から何、出してんだ?」

 困惑する元の隣で、ハルもまたゾウガンから目を離せずにいた。黒い靄(もや)で視界が歪む。元の唸り声は、靄を口から吐き出すゾウガンに向けられたものだ。見開かれた眼球は薄い黄色で埋め尽くされ、動物の様に細く黒い瞳孔が縦に入っている。

 ゾウガンである筈の男は、黒い靄を一層吐き出しながら、壊れたスピーカーのような声を張り上げた。


「獣でアりナガら、え、エンダニ加たんスルとォわ……恥を知レェ!!」


 それはいやに耳障りな声で、否応がなしに取り巻く空気を濁す。畏れを知らない筈のギヴソンの体が大きくビクリと揺れた。

「ギヴソン……」

 止め処なく震える黒々とした体に、元は手を添えた。掌にじんわりと吹き出す汗を感じ、何度もその肌を擦る。

「大丈夫だ、大丈夫だから!!」

 どんなに声を掛けても、大きな体は一層小さくなるばかりだ。いつもは百獣の王とばかりに威勢のいい態度も、今はすっかりと成りを潜めている。

 その時大きく建物が揺れた。壁全体がグラリと大きく波を打つ。

「うわっ、壁が崩れ……え?」

 壁が倒壊したのではなかった。壁を覆う表面が、ドロリと溶け落ちたのだ。溶けた物体は、幾重にも折り重なり、黒い線となってゾウガンに集まっていく。

 元達が困惑し惑う中、ゾウガンがパカリと口を開けた。

「何、あれ? ちょっと、もう、何が起きてんの?」

 まるで夢を見ているような光景だ。黒々とした線はやがて黒い渦となり、開かれた口内に吸い込まれていく。顎が外れた人形のような口に、渦巻く線があらかた吸い込まれた……そう認識した時だ。ハルが掌をじっと見入りボソリと呟いた。

「魔法が……」

 それは本当に突然の出来事だった。魔力が出口を見つけたように、突如体から吹き出したのだ。

「あれがここを囲っていたからか? エンダの魔法を、これ程までに封じるものが世界にあったのか」

 度重なる不可思議な出来事よりも、この眼前の未知なる存在に、ハルの鼓動は大きく震えた。Another Worldに足を踏み入れて、ようやく骸骨レベルの存在に出会えたのだ。自分を一撃で抹殺しようとした骸骨の姿が、ゾウガンと重なる。

『こいつを追い続けていれば、絶対あいつに辿り着く』

 疑惑が確信に変わった、その瞬間である。


「シ……ネぇ!!」

 地の底から響く声と共に、ゾウガンの口から漆黒色をした蔓が飛び出した。細いその蔓は、大きくうねりギヴソンに襲いかかる。

「ギヴ……あぶねぇ!!」

 咄嗟に飛び出した元の前に、長い栗色の髪が視界を横切った。


 柔らかい花の香りが、鼻に微かに届く。


 ハルが飛び出したのと同時だ。周囲に荘厳な音が弾けるように木霊し、幾重もの魔法陣が出現する。突如闘技場の半分もあろうかという光の盾が出現し、黒い蔓の行く手を阻んだ。

「すげぇ、でけぇ」

 元の唸り声を背中に聞きながら、ハルもまた魔法の手ごたえを感じていた。

 魔力が体から放出された感覚は、確かにそこに存在していた。獣を前にして魔法が使えなかった事も影響したのか、放出時に感じた魔力は相当のものだ。

「な?」

 それにも関わらず、魔法の盾が漆黒の蔓に触れた瞬間、音も無くその存在をかき消した。壊され、突破された訳ではない。初めから存在していなかったように、突如魔法が消えてしまったのだ。

 元が驚きの声を上げた。

「え、盾、どこ行った……?」

「しまった!」

 誰よりも驚愕し戦慄を覚えたのはハル本人だ。戦いから気が削がれたハルの左手首に、漆黒の蔓が巻き付く。

「ッ!!」

「ハル!?」

 既に表情を無くしたゾウガンは、ただただ大きく口を開けたまま佇んでいる。その口から吐き出された蔓は、ハルの腕を掴んで離さない。とは言っても細い蔓で、何故振り払えないのか不思議でならなかった。

「これは……え? 魔力が……吸い取られる……?」

 この世界でハルを形取る全ての物質が、怒涛のごとく吸い取られていく、そんな感覚に視界がグラリと揺れた。

「あ……ゥ……」

 立っているのも覚束ず、ガクリと膝が折れた。次の瞬間には、バトルドレスが音もなく解除され、白のワンピースに鈍く戻っていく。


 幾つも沸き出す疑問に答えを見出す間もなく、元は大剣を振り上げた。

「ハ、ハルを離せ!!」

「元!」

 暗い闇を纏う蔓に向かって、勢い良く剣を振り落とす。剣が蔓を叩き切る瞬間、今まで腕に感じていた剣の重みが消え失せた。何とか体勢を保ちながら、両手を広げ思わず見入ってみてもそこに剣は無い。

「え? 何で……」

 自身の掌に見入り呆ける元を瞳に映しながら、ハルの途切れた声が落ちる。

「なるほど……こいつが影響するのは、この世界に属するものらしい、な」

 何もかも全てが吸い取られる中で、形を保っていられるのは自身の体だけだ。

 バトルドレスが解除され、普段着のワンピースに装いが変ったのを見届け、ハルは小さく息を吸う。そして無表情のまま腰に差したナイフに手を掛けると、蔓が絡む腕に向かって躊躇なく振り落とした。

「ハル!? や、止めろ!!」

 しかし次には、ハルが低い唸り声を上げる。腕を掴む蔓が分離し、振り落としたナイフに触れた時、ナイフはこの世界から消滅していた。

『駄目だ。もう私に出来ることはない。口惜しいがここまでだ。せめて……!』

 咄嗟にハルは右手で蔓を握り締めると、元に向かって怒号を上げる。

「元、ギヴソンを連れて逃げろ!」

「バ、バカ!! お前を置いてなんて、いけっかよ!」

 反射的に元は目前の蔓を掴むと、ハルから引き離そうと試みていた。しかし、蔓は同化しているかの様に、ピクリともしない。

『俺達はまた旅に出るんだ!』

 必死の形相を浮かべる姿に、ハルは苦々しく小さく唸る。このままでは全員が殺されてしまう。ハルは上半身を翻すと、ギヴソンに視線を移した。

「ギヴソンしっかりしろ! お前、それでも深紅の宝玉を持つ獣か!? 元を連れてここから出るんだ!!」

 未だ動けずにいたギヴソンはビクリと身体を震わせた。深紅の瞳にようやく光が戻り、一度大きく息を吐く。ギヴソンが前足に力を込めた。

 その時だ。闘技場の廊下を伝って、多くのひしめき合う音が響いた。時折布の擦れる音が交じる音が徐々に近づいてくる。


「キョ……うカィ」

 ゾウガンの声が小さく落とされると、ハルの腕からするりと蔓が外れた。くっきりと残る痕は、初めから腕に刻まれていたかのようだ。

 

 ゾウガンは不自然なまでに、カクカクと表情を動かし、仰け反る様に天井を見上げた。

「エ、ン……だ……、世界にハビコる、イ、異……ブツの、タ、民」

 例えがたいその声は、闘技場を纏う空気を禍々しいものに変える。そして言葉が終るやいなや、ゾウガンの全身から黒い渦が吹き出した。

「動くな!!」

 怒号を纏いけたたましく扉が開くと、十数人の協会が流れ込んできた。しかし黒い渦は大きな塊となって、天井の一部を破壊し外に飛び出す間際だ。ガラスの破片が床に落ちて、粉々に砕け散る。

「外だ!!」

 深いフードで顔を隠した一人がスッと腕を上げると、その人物を残し協会は闘技場から飛び出して行った。


 へたへたと座り込む二人に、協会は音もなく近づくと、やけに平坦な声を繋ぐ。

「……何がありましたか?」

『あれ見て、何かって。こいつらが走る姿なんて初めて見たぜ?』

 短い言葉とは裏腹に、有無を言わせない圧力を感じ汗が噴き出す。言葉に詰まる元の腕に手を添え、ハルは恐る恐る顔を上げた。

「それが……何かと言われても、あれをどう言葉にしていいのか。

 何とか獣を倒し、民を外に逃がした私達に、領主が突然襲いかかってきたんです。私達は民に手が出せないものですから、ただただ逃げ惑うばかりで……」

 そう言葉にすると、震える指でゾウガンの剣を指差す。

「それでも何とか逃れ、扉から出ようとした時でした。領主が突然口から黒い靄を出したんです。今思えば、恐らく魔石か黒魔術を使ったのでしょう。驚いて動けずにいたところに、皆さんが駆けつけて下さって……」

 声を震わせ小さく身震いをする。更に怯える様に、協会を見上げたものだから、元は開いた口が塞がらずにいた。一瞬の沈黙の後、協会は気配だけをギヴソンに向ける。

「そこにいる獣は?  宝玉を額に持つ獣ですね」

「この獣は私達の足代わりです。旅に同行させています。完全に我々の管理下にあるため、何ら問題はありません。ショーに使うつもりだったのか、領主に連れてこられたのです。民に命を狙われたとはいえ、足代わりにしている獣で応戦も出来ませんし……?」

 まるで問うような言葉に納得をしたのか、

「この事は他言無用でお願いします。民が魔石を使って、エンダを襲ったなど公言出来るものではありませんからね」

 先程の現象を魔石のせいだと位置付けて、協会は闘技場を後にした。息苦しさから解放された元は、無意識に思いっきりと息を吸う。その隣で協会の姿が扉に消えたのを確認し、ハルはスクッと立ち上がった。覚束ない足取りで、ゾウガンに駆け寄る姿に元も後を追う。


「おいおい、触って大丈夫かよ?」

 躊躇無くゾウガンに手を伸ばす姿に、元は焦りの声を上げた。

「心配は無用だ。既に息はない」

 そう短く答えゾウガンの亡骸に目を落とす。その後ろに立ち、元もまた恐る恐る覗き込んだ。先程のゾウガンとは全くの別物で、眼前に横たわる姿に寒気が走る。体は二まわり程小さくなり、肉付きの良かった腰回りなど見る影もない。体はどす黒く変色し、ミイラのように干からびていた。眼球のない空洞部分に息を呑む。

「既にというよりも、随分前に命は尽きていたのだろう」

 感情のない声が、やけにやるせなく感じる。胸に込み上げる虚無感から思わず思考が口から飛び出した。

「……こいつも犠牲者だった? のか」

 その問いには答えず、ハルは穴の開いた目に手を添える。指先から漏れる光がゾウガンに降り注ぐと、開かれた瞳が静かに閉じられていた。その表情は苦悩から解放され、微笑んでいるようにも見えた。

「目が……何やったんだ?」

「救いだ」

 これも神の加護を身に纏うヒーシャの力なのだろう。ゾウガンの身に何が起きたのかは分からないが、元の胸の支えは少しだけ降りた気がした。


「ディーンの話では、数十年前に突如性格が変わったらしい。恐らくその時には、体を乗っ取られていたのだろうな」

「……何に?」

「今の時点では何も分からない。協会は何かを掴んでいるようだったが……」

 協会のお陰で助かったとはいえ、協会が関与する事象であれば、闇雲に動く訳にはいかない。ハルが小さな溜息を吐いたその時、廊下に響く足音が近づいてきた。咄嗟に元の体を遺体から引き離す。


 そこに飛び込んできたのは、ディーンだった。変わり果て小さくなった父親の亡骸を目にすると、言葉に詰まる。

「父上……」

 フラリと歩みを進めるディーン前に、続いて入ってきた協会の民が行く手を阻んだ。不動のように立ち塞がる姿に、一瞬場の空気に緊張が走る。

「これよりこの町は、全て協会の管理下に置かれます。

 ゾウガンのエンダに対する数々の悪行は、協会への冒涜並びに反逆と見なしました。その為、領主ゾウガンを被疑者死亡のまま、協会の名の下に連行致します。

 また領主に加担した民並びに多くの招待客に関しては、後程審議にかけられます。結果が出るまで、勝手な行いは慎んで下さい」

 ディーンは一度小さく頷くと、

「分かりました」

 力強く応え、真っ直ぐ協会を見据えた。協会に救いを求めるという事は、即ち全てを公に晒し、清算すると言うことだ。己の使命を思い出し、今一度頷いた。

 その間にも、ゾウガンの体に白い布が掛けられ、音もなく運び出されていく。変わり果てた父親の姿に、ディーンは遠いものを見る様に目を細めた。

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