第9章 異世界ノ民‐20

「元」

「おう、任せとけっ」

 ハルの声の流れを組むように、元は獣に向かって駆け出した。雄叫びを上げ向かう姿に、獣が野太い腕を振り落としてくる。素手で獣に立ち向かう勇姿に、観客席から「おぉ!!」そんな感嘆の声が漏れた。

『おぉじゃ、ねぇし』

 鋼鉄のような腕を右手で掴み、一気に身体の下に回り込むと、空(くう)に向かって爆発的に力を放つ。

 獣の体が宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられた。


「おい」

 眼下で繰り広げられるエンダの抵抗に、ゾウガンが片手を上げた。後で控えていた従者が身体を震わせて小走りに駆け寄った。

「食事は与えていないのだろう」

 苛立ってはいない。しかし乱暴に向けられた声は、従者を震え上がらせるには十分すぎる。取って喰われると言わんばかりに上擦る声で、何度も頭を下げて腰を折った。

「はっ、勿論でございます! 食べ物はおろか、水さえも与えておりません。日夜、入り口には人を配備しておりましたので、誰一人として、牢に近づける人間は……」

「それにしては、随分と生きのいい」

 たどたどしく向けられる声には差ほど関心などない。ゾウガンは「ふぅん」と頬杖を付いて瞳を細めた。エンダは、狩りで心身ともに激しく衰弱する。それを補うのが食糧なのだ。目前で獣に向かう姿は、数日前に獣と対峙し、尚且つ食事を与えられていない動きではない。

「……ふむ、見張りを次のショーで使うとするか。見せしめに丁度良かろう」

 楽しみが増えたと言わんばかりだ。冷ややかに、そして無感情に吐き出される声は、まるで自分以外は全てゴミだと、言っているに等しい。しかし放たれた言葉は、強制力を持って必ず達成されてしまう。言葉に詰まる従者に、クッと小さな失笑を落とす。

「……反対か? だったら、お前でも、お前の家族でも良いのだぞ。代わりなど掃いて捨てるほどいるのだからな」

「と、とんでもございません。全てはゾウガン様のお心のままに!」

 地の底から響く声に、従者は直立不動を保ちほぼ体を九十度に曲げた。二言目には「全てはゾウガン様のお心のままに」と遜る態度に侮蔑の表情を浮かべながら、ゾウガンは何気に視線を落とす。

『全く……無様に足掻くものだ。ふ、戦士が武器も持たず獣に勝てる訳がないというのに。魔法さえも使えない状態で、エンダに何ができるというのか』

 獣の上に跨がり必死に首を締め上げるエンダの姿は、弱者が死ぬ間際に足掻く姿そのものだと、ゾウガンはニヤリ笑う。絶望にうちひしがれる最後の姿を想像するだけで、得も言われぬ興奮が沸き上がるのだった。


 元の握力に獣は体を拘束されたまま、鈍い唸り声を上げた。一歩も進展しない展開に、観客席から不満の声が漏れ始める。こんな片田舎で一週間も滞在を余儀なくされ、更にこれでは我慢の限界だというものだ。

「なんですの? 何故、エンダ達は未だ生きているんですのっ」

「全くだ。こんな展開など、望んでいないのだがな!?」

 ヒステリックに吹き出す不満を意識に留めつつ、ハルは拘束された獣の前に一歩足を踏み出す。目を剥き出しにした獣は、その姿を見据えただけで恨めしそうに唸り声を漏らした。

「お、おい~あんま近寄んな! 魔法は使えないんだろ!?」

「近寄らないと意味がない」

 躊躇なく近づくハルを見て思わず息を飲んだ。それもその筈で、獣との距離が一メートルもない。獣が自分の手を振り払った瞬間、その牙に八つ裂きにされるのは必死だ。獣の獰猛さは、その放たれる殺気が全てを物語っている。常人であれば、この殺気に触れただけで、即倒してもおかしくない。薄いブルーの瞳は、今や飛び出しそうな程見開かれ、小さき少女の姿を映し出しているのだから。

 その姿にハルはさも可笑しいと言わんばかりに、口許を歪めた。

「世界の頂点に位置する生き物が何と無様なものか」

 感情なく向けられる声に獣の体がピクリと動いた。その見逃しそうな変化を瞳に映しながら、ハルは淡々と言葉を繋いでいく。

「全く哀れな生き物だな、お前達は。喰らいたくて仕方がない人間達の見せ物に成り下がり回避する術もない。その姿を滑稽と言わずして何と言う?」

 獣に問い掛けるなど馬鹿げた行為だ。勿論、人の言葉が分かる生き物ではない。それにも関わらず、冷たく落とされる声に、細く入った瞳孔が徐々に大きく開かれていく。


『ハル、何考えているんだ? こんな事して……、うぅ、後、持っても三分だぞ!』

 底無しの体力を保持する獣だ。元の腕に最後の力が宿る。思いきり締め上げる力に獣が唸り声を上げると、ハルは憐れみの表情を浮かべてみせた。

「所詮、図体が馬鹿でかいだけの、単細胞だというわけだな。だからお前達は、エンダによって淘汰されるだけの生き物なんだ。これを哀れと言わずして何と言う?」

 そう放った後に口元が小さく「クッ」と引き上げられた、その瞬間の出来事だ。獣が大きく身震いを一つして、途端に動かなくなった。全神経を使って押さえ込んでいた力が一気に抜けたのだ。突如抜けた力に、元が呆けるような、怪訝そうな表情を浮かべている。

「元、獣から離れろ」

「え、でも……」

「大丈夫だ。取り敢えず、第一段階は完了だ」

 その絶対的な自信に、しぶしぶ元は獣の首元から飛び降りた。ハルの隣に立つと、微動だにしない獣を覗き込む。

「気絶……してねぇよな?」

 殺気も全て消え失せているにも関わらずブルーの瞳だけは、忙しなく上下左右に動き回っている。こんな状態など今まで見た事がない。放心状態と言った方が的確で、口からは大量の涎が滝のように流れ落ちていた。


「ふざけるな! またもや同じ展開か!?」

「これでお仕舞いなの?」

「領主、どういうつもりだ!!」

 巻き上がる声に従者が狼狽える中、我関せずと領主は頬杖を付いたまま視線を落としている。放心した様子の獣と、その体の半分もないヒーシャの姿を瞳を見開き交互に見入っていた。観客の怒号が波の様に建物を揺らし始めた時だ。獣の体がピクリと動いた。元達は獣から離れ、親子の盾となる様にその様子を追った。

「元、よく見ておけよ。あれがこの世界の頂点と言われる由縁だ」

 珍しく興奮する声に、元は言葉を返せない。観客が獣の異変に気づき始め、波を打つように静まり返っていく。

「……ガ・ガ・ガガガアァ・ア・ァア・ァァア」

 沈黙が耳に突いた時だった。獣が地面に爪を食い込ませた、そう皆が認識した時には、天を仰ぎ大きく体を震わせていた。時折上げる奇声は、まるで全身から発せられているかの様に周辺の空気を巻き込んでいく。恐れか、それとも好奇か、元の全身に鳥肌が立った。

「これは……」

 失われていた殺気が獣の体から噴き出し、一陣の風となって吹き荒れていく。

「ハル? 一体何が……」


 獣の異変に、ゾウガンがガタリと椅子から乗り出す。視線は獣を見据えたまま、感情を含まない声を落とした。 

「あれは……まさか、エヴォリューションか? あのエンダ、獣を進化へと導いたというのか!?」


「エ、エヴォリューション……?」

 大きな瞳をギラギラとさせるハルの横顔に視線を向けて、元はたとたどしく問うた。いつもの無感情な表情からは、想像も出来ない程にハルは感情を爆発させている。可愛らしい顔に浮かぶ禍々しさに元は次の言葉を繋げない。

「あぁ、獣の進化をそう呼ぶ。獣は状況に応じて突如進化することがある。体が小さいものは、より大きく。空を飛べないものは翼を。地面に潜れないものは、強靱な爪といった具合にな。進化すると、ランクが二つ以上進化する奴もいて厄介極まりなくなる。だからエヴォリューションをさせる前に必ず倒さなければならない。エンダの常識だろう?」

「そ……そう? だっけ」

 獣が進化する話は、確かに聞いた事があった。しかし戦いの最中で、突然変貌を遂げるなんて思ってもいなかったのだ。

「凄いだろう! 状況に対応して常に進化する可能性を持った形態なんだ。エンダが獣の進化に追いつけないと言われるのは、狩りの最中に新しい技を習得出来ない事を指している。戦いに特化しているのは獣の方だ!」

 いつも以上に饒舌な姿に元が振り向き様、口を開けた時だった。獣の怒号と共に衝撃波が闘技場を襲う。ハルは瞬きせずその姿を瞳に映していた。長い髪が波動で大きく揺らぐ。


 巻き起こる空気の渦に、元は目を細めて闘技場の中央に視線を向けた。観客席では受けた殺気に当てられ、半数近い人間がその場に倒れ込んでいる。

「別モンじゃん」

 落とされた唸り声もその筈で、渦の中心に存在している獣の姿は、今までの形態を全く留めていなかった。

 体は二回り以上大きくなり、剥き出しの牙はより多く、そして鋭くなっている。一番大きな変化は、地を這う生き物が、二足で立ち上がった事だ。少なくても、もう元が首元を締め上げるなど出来そうもない。ポカンと口を開けたまま獣に見入る元の隣で、ハルが小さく溜息を吐いた。

「何だ、つまらん。空でも飛べるようになるかと思ったが。ふん所詮は小物、これが限界か」

 獣の姿を見据え、淡々と言葉にするハルに耳を疑う。獣が進化したのだ。状況は更に悪くなった筈なのに、そこにあるのは探求心だけだった。

「何を呑気に。あれじゃぁ、観客席に届いちまうぞ!?」

「当然だ。何の為の進化だと思っているんだ。これ程の人間達(えもの)を前に、獣が進化する理由など一つだろう? 観客(こいつら)を殺戮という名の下に、皆殺しにしたいだけだ。恐らく体がでかくなっただけじゃない。筋肉の付き具合から見ると、バネのある強靱な足腰に変貌を遂げている」

 眠りから覚めたかの様に、獣が一度大きく吼えた。その姿に観客席から声が上がった。

「だ、大丈夫なのか? これもショーの一環なのだろうな?」

「でもこんな事初めてですのよ? あの大きさであれば、ここまで手が……」

 ふいに獣が振り向いた。反射的に後ずさる観客席に向かって、大きく鋭い爪を振り落とす。


ギギィィィギギギィィギィ


 女性の甲高い悲鳴により、闘技場に得も言われぬ緊張が走った。振り落とした姿勢のまま、獣はギロリと観客席に視線を向ける。鋭い獣の一撃ですら、鉱石で作られた壁を壊すまでには至らなかった。しかし、

「こ、これは危険だ」

 長い間、獣の驚異に脅かされていた民の本能からか、自身の危機を感じ取ったのだろう。獣が背を向けている観客席からは一人、そしてまた一人と席から離れる者達が出てきた。

「ハル!」

「ほぉ、薄いブルーの宝玉が、今や群青を帯びた色彩に変わっている。色の濃淡で言えば、B’か。ふむ、やはりエヴォリューションを繰り返すと宝玉の色が変わるんだな。濃くなればなる程、強さを表すというのは、確証された事実だったのか」

 そんな言葉をブツブツと呟いている。元の呼ぶ声も気づいていない。

「―――――――っ、ハル~」

 観客を守るように飛び出してきた近衛兵達が数人、最前列に現れたが、その禍々しさに剣を掲げているだけだ。何度も打ち付ける獣の攻撃により、強固な鉱石が嫌な音を立てて揺れた。

「ふむ、もうすぐ「少しジャンプでもしたら届くかも」と気付きそうだ」

 その感情のない声に、後ろにいた三人がビクリと体を震わせた。その気配を感じ、元が叫びに似た声を上げる。

「ハル、もう我慢の限界だ! あいつらの事は許せねぇが、見捨てる訳にはいかねぇよ!!」

 その叫びに、ハルは視線を小さく上げた。視線の先にいるゾウガンは、全く動じず椅子に深く腰を下ろしたままだ。微動だにせず、今の状況を楽しんでいる様にも感じる。

『領主の動向が気になるが……仕方がない』

 ハルは領主に向かって気付かれない程の息を吐くと、意識を獣に向けた。

「そうだな。あいつらの安否などどうでもいいが、観客席に行かれると少し厄介か。では、次の計画に移ろう」


 ゾウガンは肘掛けに腕を置いたままの姿勢で、ジッと闘技場の中を見下ろしていた。そこには何の武器も持たない元とハルの姿がある。二人は進化を遂げた獣の姿を、ただただ見ているだけだ。

「何だ、これでお終いか? 結局エヴォリューションを引き起こしたとは言え、倒せなければ、観客もろとも自分達も死ぬ運命だ。差し違えでも期待しているのか? ふん、結局は人間のなり損ない。高尚な事を言っても……」

 クックックッと笑いを落とすゾウガンに向かって、従者が声をひきつらせ言葉を掛ける。

「あ、あの、ゾウガン様、ここは危険ではありませんか? 早く安全な場所に、避難をされた方が宜しいかと……」

 声を震わせる従者に向かって、ゾウガンは独り言の様な声を向けた。

「避難? ふん、必要ない。そもそも、これ程楽しいショーなどそうそうない。お前は知る由もないが、エヴォリューションを計画的に行うのは至難の業なのだ。殺さないギリギリのライン、若しくは長時間のストレスを掛けて、起きるかどうかの代物だ。成るほど、反対魔法を使ったのはこの為か。

 これで終わりだとしたら、随分拍子抜けだが……。まぁ、いい。ふふふ、あのヒーシャの死に様を見届けるのも一興」

 そうハルの姿を捉えたまま、ペロリと舌で上唇を舐めた。

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