第9章 異世界ノ民‐19

 刹那、掌から光が爆発的に解き放たれると、闘技場の至る場所から歓喜とは言い難い、戸惑いを含んだ声が上がった。

 しかしその声も獣の異変に意識は削がれ、次第に小さくなっていく。獣は、先程までの興奮が嘘のように今やピクリとも動かない。

 ハルが獣の頭部を蹴り上げ、着地したのと同時だった。獣の身体がグラリと揺れて、轟音を纏い倒れ込む。四肢を不自然なままに伸ばしたままの姿に、至るところから、ざわつきが起こった。

「何が起きたんだ?」

「今のは魔法か? ヒーシャじゃなかったのか?」

「何故動かないの? 死んだの?」

「いや、死んだら消滅する筈だろう。気絶しているんじゃないか?」

 人々の囁きは大きなうねりとなって、会場内を埋め尽くしていく。人々の視線は、闘技場の真ん中で蹲(うずくま)る少女の姿に移り始めた。しかしそのハルも、今や虫の息だ。両膝を地面について、肩を大きく震わせている。

『極限まで魔力を押さえてこれか……。自分で把握している以上に、魔力が上がっているらしいな……』

「クッ」

 体全身が痛みに軋む。ハルは咽返(むせかえ)ると、胃から込み上げる異物を吐き出していた。

「ハル! 大丈夫か!? あっ」

 吐き出された血の固まりが床にボトリと落ちる。血相を変えて駆け寄る元の姿を最後に、ハルの視覚から色が消え失せた。『ふ、いい気味だ』抱かれた腕の中で、観客席から巻き起こる怒号さえも心地よく感じながら、ハルの意識もそこで途切れた。



 次にハルの意識が浮き上がるように覚めたのは、倒れてから丸二日経過してからだった。地下深い牢屋の床に横たわるハルを取り囲み、エンダ達が心配そうに見守っている。微かに開かれた瞳に、

「あ、目が覚めたみたいよ」

 安堵の溜息が次々に漏れた。しかしすぐさま、元の苛立ちを含んだ声が飛ぶ。

「馬鹿ハル! あんな場面で反対魔法を使う奴がいるか!? なに考えてんだ!」

 憤る元を宥めるように、一人のエンダが声を掛けてきた。ハルにヒーシャごときでと、暴言を吐いた男だ。

「大丈夫か? 苦しいところはないか?」

 未だ混濁する意識に、ハルは差し出された手を介して体を起こした。皆の心配そうな視線が集まる中、ごそごそとワンピースのポケットを探った。右のポケットから取り出したアドマイザーを、自身に向かって数回振り撒くと柔らかく心地よい香りが漂う。

「センス?」

 メロウが甘美の声を上げた。センスはヒーシャの穢れを取り除く効能を持つ。反対魔法で受けた穢れは、このセンスでなければ回復出来ない。

 ハルは一度大きく息を吸った後、次に元をじっと見据えた。

「あれからどうなった?」

 他の事には一切興味が無い、そんな緊迫感を孕んだ声だ。その瞬間、闇を打ち消すように、周囲が光に包まれる。こんな状態で、なおも酷し続けるハルに、メロウが心配そうに声を掛けた。

「ハルさん、無理しないで……」

 しかしそんな気遣いにも、耳を傾けようとはしない。刺すような視線に、元は怒りを押さえ込みボリボリと頭を掻く。

「たく、いきなりかよ。……どうもこうもしねえよ。獣が起き上がらねぇって事で、領主の野郎が……」



 闘技場内に、領主の声が響き渡った。その声は、特にイベントが中止になった悲壮感は無い。むしろ声が弾んで聞こえるのは、気のせいでは無い筈だ。

【ご来場の皆様。

 誠に残念ながら、獣は戦闘不能な状態でございます。恐らくこれは、ヒーシャの反対魔法でございましょう。獣が目覚める気配はございませんので、この催しはこの場を持ちまして閉会とさせて頂きます】

 ザワリと闘技場の空気が揺れる。その空気など物ともせず、

【勿論、皆様がご納得されていない事は重々承知しております。今日から一週間後、このエンダを再度獣と対決させることをお約束致しましょう。皆様のご参加を、心よりお待ち申し上げております】

 領主の声に、観客席から怒号が上がった。

【また反対魔法を使ったらどうするんだ!!】

【そうだ! 我々はこんな茶番を見るために、遠路遙々来た訳じゃないぞ!!】

 吹き出す不満に領主は、声の方向に体を向けて恭しく体を曲げた。相も変わらず芝居がかったゾウガンと、勝手な客の言い分に元の我慢が限界を超えた。

【ざけんな!! エンダをなんだと思ってんだ!!!】

 元が怒号を上げた。腕の中のハルは、既に意識を無くし体温が急激に下がってきている。しかしその声に耳を傾ける者などいない。領主は両手を広げた。

【皆様のお言葉、至極当然にございます!! 次は反対魔法を唱えないよう、お願いをしておきます。皆様、それでお許し願えますか?】

 その形ばかりの懇願に観客席からは、囁き合う声が四方で起きた。

【まぁこれも強欲領主の作戦かもしれんな。また法外な観劇料を要求するに違いない】

【全く、どれだけ採取すれば気が済むのでしょうな】

【でもこんな片田舎にまで来たというのに、この内容では帰れませんわ。ワタクシ、エンダが獣の牙に倒れるのを想像するだけで、夜も眠れませんのよ】

【おやおや、言葉が過ぎますぞ。でもまぁ、確かに。私はこの娯楽が三度の飯より楽しみでしてな】

【まぁ。ふふふ】

【このショーを台無しにしてくれたんだ。そのエンダの最後を見るのもまた一興】

 観客席から聞くに耐えない声が囁かられると、領主は深々と頭を下げた。その口許は、醜く引き上げられていた。

 元は必死に『我慢だ。ハルの意識が戻るまでの辛抱だ。辛抱……辛抱……』そう呪文の様に繰り返していた。


 元が一連の流れを説明する間、ハルは体を起こし額に手を添えている。話が終わると、

「ふむ、想定通りだ」

 瞳を細めるハルとは対象的に、エンダ達の失望を含んだ声が力なく落ちた。

「獣を前に素手だなんて……」

「最後はそうやって命を落としていたのか」

 直視出来ない現実に項垂れ、中々顔を上げる事が出来ずにいる。守っていたと思っていた民も、結局公開処刑という形で獣の餌食になっていた。そう思うと、やりきれない気持ちで押し潰されそうだ。肩を落とすエンダ達に向かって、ハルの感情の無い声が飛んだ。

「自分達で捕まえた獣に、最後は殺られるとは。因果なものだ」

 深いフードに身を包むエンダが肩を窄めた。身なりや雰囲気から見ると、マジッカーに違いない。暗い闇を好むのか、光を拒絶するように顔は深いフードの下だ。

「そう、だ。Cクラス以上の獣は生け捕りにするんだ。あの鉱石で作られた檻に入れられたら、獣と言えど逃げられない」

「ふぅん。獣を殺さない程度に狩って、殺傷力の低い武器をエンダに渡し、ショーとして楽しむ。しかしそれでは観客が満足しないから、定期的に公開処刑を催し盛り上がっているわけか」

 ハルの呟きに、元がカッと目を見開く。

「あんなんが毎回!? あいつら狂ってんのか? 何の罪もねぇ人間をよりにもよって獣に襲わせるなんざぁ、まともな人間のやる事じゃねぇよ」

 憤る元に向かって、ハルが冷ややかな視線を向けた。未だ体力が回復していないのか気怠そうだ。元と真逆のテンションのまま、小さな溜息を一つ落とす。

「どの世界も人間の内面に潜む闇は同じだ。思考を正当化出来れば、何処までも残虐になれる。ここでは、その起点がエンダだった。所詮異世界の人間だ。罪悪感もあったものではないか。

 ふむ、エンダの習性をよく理解して、徹底的に虐げれば、支配者としてのプライドを適度に刺激出来る。只でさえ娯楽に飢えた連中だ。支持者が多いのも頷けるな。これをあの男一人で考え、行動を起こしたのであれば凄いことだ」

 同じように迫害を受けたエンダの言葉とは思えない。冷めた視点から出る言葉に、一人のエンダが居た堪れなく呟きを落とす。

「エンダの習性って……。エンダはそんな事の為に……」

『いつの時代も、どの世界も、迫害や暴力に苦しめられるのは、何の罪もない弱者だ』

 皆が息を飲む気配を感じながら元は、放心状態に陥っていた。民の苦悩を思うだけで、居た堪れなくなってしまう。胡座を組み深く項垂れる元の姿に、ハルは小さく視線を向けると失笑を浮かべた。

「己の無力さを恥じて途方に暮れるのは、死ぬ間際にしろ。真実に目を向けたくなかったら関わるな。それでも旅は出来る」

 その言葉に元は、ギッとハルを睨み付けてはみるものの、途端に肩の荷が軽くなった。

「だぁれが、無力で? 途方に暮れているって? そもそもこの件はおめぇが強引に……。…....俺は民を救うために扉を開けたんだ。それが獣以外の事だろうと、俺は絶対に見捨てねぇし、諦めねぇ!!」


 そう元は鼻息を荒くして、その場に大の字になった。拍子に腹が大きく鳴る。死闘後に飢餓に襲われる習性は、エンダを苦しめる一つの要因だ。

「あ~もぅ、腹減ったっ!! 何だよ。パンの差し入れ一つもねぇじゃんよぉ。ひでぇ、あいつら人じゃねぇよ」

「済まない。我々のせいで……。君達が居なかったら、俺達は……」

 ガイが居た堪れずに視線を落とす。本来であれば、名を呼ばれたのは自分達だ。しかし元はグイッと身体を起こし唇を尖らせた。助けるつもりで牢を出た訳ではない。それはハルも同じ事だ。

「気にするトコじゃねぇし。こいつ(ハル)が勝手にやった事だし。そもそも反対魔法を使う必要だって無かったんじゃね? 眠らせとけばいいじゃん。何を今更……」

 ネチネチと嫌みを含める言い方に、ガイやメロウが苦笑いを浮かべている。

「でも本当にありがとう。人質となっている仲間すら救えずに死ぬところだった……」

 そんな言葉すらもう耳に入っていないのか、額に手を添えて何かを考え込んでいる。こうなると人の声など耳に届かない。口を尖らせる元や、じっと動かないハルに、全員が畏敬の眼差しを向けた。

「どうするつもりなんだ? 事実上の処刑だぞ。魔法も容易に使えないような手立てが取られている筈だ。このままじゃ……」

 理不尽な要求を四日後に控えた二人とは到底思えない。どこか飄々とする様は、事態の好転を期待させる何かがあった。

「ハル~、どうすんだ? 何か考えがあるんなら、先に聞かせろよ。もうハラハラするのはゴメンだからな」

 拗ねるような声に、ハルは一度全体をグルリと見渡す。そして顔にかかった長い栗色の髪の毛をパラリと払った。あらわになった顔からは、一片の感情すら読み取る事は不可能だ。

「あぁ。こんなくだらない茶番は、もう終わりだ。ふむ、勝手にやろうと思ったが……いいだろう。お前達、ここを出たかったら手を貸せ」

 淡々と投げ掛けられる声に、エンダ達は横に首を振った。

「ここを出る? 駄目だ! 確かに闘技場に向かう間の警備はザルだが。我々を逃がしたとあっては、見張りの民が殺されてしまうぞ」

「それが領主の皮算だとしても見捨てる訳には」

 いつもここで思考が止まってしまうのだ。牢屋以外では、必ず見張りが立てられている。エンダの習性をよく分かっている、先程の言葉が脳裏に過った。項垂れる姿に、元がそうだよなぁ……そんな表情を浮かべている。

「別に民から逃げるつもりはない。あぁ、しかし死ぬかもしれないからな。賛同するなら自己責任だ」

「え!?」

 端的なハルの言葉に緊張感が走る。絶句する皆を哀れに感じながらも、元はグィッと身を乗り出した。

「で、何やるの? 俺、あいつらだけは絶対に許せねぇ。何でもやるぜ!!」

 鼻息荒く身を乗り出す元の姿は、皆の心に数日前まで萎えていた、エンダとしての熱い思いを彷彿とさせる。

「このまま地に潜っていても、死ぬ運命だ。どうせ死ぬなら、エンダとして死にたい」

 そう互いに顔を見合わせて真剣な眼差しで頷き合う。死人の様な目に、ようやく灯った決意を見届けると、ハルはワンピースのポケットに手を入れた。

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