第2章 選択-3

「……失礼します」

 ハルは沈んだ気持ちのまま、会議室のドアを開ける。収容人数二十人程の会議室の議長席に、課長の姿があった。

『……』

 ハルは課長が座る席から、正面に位置する場所に座った。目前の課長は、肘を付きながら、ニタニタと薄ら笑いを浮かべたままだ。午前中に受けた言葉が蘇り、ハルの精神状態は最悪だった。そんな空気すらも楽しむ様に、長い前置きを置きながら言葉を繋ぐ。

「急に呼び出して悪かったねぇ。仕事は大丈夫かな? 実は君に会社からお願いがあってねぇ」

 上司の猫なで声を聞いた瞬間、ハルの背中にぞわりと寒気が走る。課長はもったいぶりながら、あのねぇ、でねぇと何度も繰り返した。

「庶務に欠員が出てしまってさぁ、ほら庶務って仕事は地味だけどさぁ、やる事いっぱいあるじゃない? だって、社員が働きやすい状況を作るのが仕事でしょ??」

「……」

 この後の展開は、聞かずとも分かる。上司の言葉を待つまでも無く、ハルの脳裏には、様々な思いが駆け巡っては消えた。

『……庶務? まさか?』

 課長は瞳を細めて、ハルが動揺する様を明らかに楽しんでいた。そして次にはトドメを刺すかの様に、大きく身を乗り出す。

「分からないかねぇ。だからねぇ、長く経理で実績を積んでもらった君に、今度は庶務で活躍してほしいと思っているのだよ」

 庶務課……その部署名を聞いた瞬間、ハルは言葉にならない衝撃を受けた。


 庶務課は、リストラ勧告をされる社員が行き着く場所だ。三ヶ月間の猶予を与えられて、実質リストラを宣告される部署だ。素行が悪く改心の見込みがない社員が廻される部署の筈だった。

 

「そうそう、餞別だと思って聞いて欲しいのだかね? 君ぃ、少し立場をわきまえて発言したまえよ。この前だって、僕の仕事を部長に相談したりして、僕の立場ないじゃない? まぁったく! 飛ばされても文句言えないよねぇ。まぁったく、どうしてこう要求された仕事が出来ないのかねぇ……」

 ガランとした会議室に、課長の声が響き渡る。ズラズラと止まらない嫌味を散々言った後、大きな溜息を吐いた。そして、口角をひき上げニヤリと笑う。

「も、明日からうちの課に来なくていいからねぇ。荷物まとめて、とっとと庶務に行ってよ」

 不条理に向けられた言葉は、ハルが今まで押し殺してきた感情を一気に爆発させた。まるで引き金を弾くように胸の奥が熱くなった。

「その言葉は、会社のご判断ですか? 部長に確認させて頂いても宜しいのでしょうか!」

 ハルは席をガタリと立ち、刺す様な視線を向けた。しかし課長に動じる様子はない。大きく腕を広げると、両隣に配置する椅子の背もたれに広げてみせた。そして斜め角度に顎を上げ、クッと笑う。

「ふぅ、当たり前だろ。会社からの辞令だよ。君に対するね。あくまで僕は、代弁者だけど?」

『え……? これが会社の判断?』

 目の前に突き付けられた現実に、ハルの心は急激に冷めて行く。今まで張っていた緊張の糸が、ブツリと切れた。

『……そう、そうなのね。私なんてその程度だったって訳か……。ははは、そうだよね。ただの駒の一つ。勘違いをしていたのは私の方……。ううん、マンションだって売ればいい。どうせお母さんもいない。私一人、どうとでも生きていける』

 窓から差す午後の暖かい日差しですら、何の慰めにもならない。廊下から聞こえる雑踏が、別世界の音のようだ。ハルが自暴自棄になる感情を抑えきれず、思わず「辞める」と言い掛けた時、沙織が零した涙が脳裏に浮かんだ。

『私なんかの為に、あんなに一生懸命になってくれる人がいる』

 優しい友人の言葉とその涙を思い出し、拳を強く握り締める。負けちゃ駄目だ、そう息を大きく吸った時だった。


 突如会議室内が爆発的な光に包まれた。

「え」

 直視できないほどの鋭い光に目を開けていられない。しかし光は音も無く収縮を始めると、瞬く間に直径一メートルの球体に姿を変えた。

「何……?」

 混乱する思考を必死で抑え、光の先に座る課長に目を向ける。しかしこんな異常な状況下で、にやにやと締らない表情を浮かべているだけだ。突然の怪奇現象に、ハルの心臓は痛い程に高鳴った。

『え? 何? 私だけしか見えていないの??』

 愕然と視線を落した時、不意に上司の異変に気が付いた。普通に座っているだけなのに、明らかに人間のそれらしくない。まるで日常から切り取られた画像のように、動く気配がないのだ。それはさながら、精巧に造られた蝋人形のようだった。

『な……何? 一体、何が』

 理解の範疇を超える状況に、ハルは突如現れた球体を凝視し一歩も動けずにいた。


第2章 選択 終わり

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