第2章 選択-2

「はぁ? あいつ、そんな事言ったの!? あ~もう、絶対に許せない。ハルがやんないんだったら、私がやるよ!? 労組に訴えてやる」

 路地裏の定食屋に、興奮する沙織とそれを必死に宥めるハルの姿があった。ハルの状況を危惧して食事に誘った沙織だったが、ものの十分足らずで怒りが頂点に達した。

「いいよ。沙織に迷惑かけたくない。電話、ありがとう。思わず辞めるって言いそうだったんだ」

 最近は全く口にしなくなったお浸しや煮魚を突きながら、ハルが恥ずかしそうに顔を赤らめた。申し訳なさそうに落とされた声に、沙織が煮魚をポトリと落とす。どれ程劣悪な扱いを受けようとも、会社だけは辞めないと言葉にしていたハルだったのだ。親友の心境の変化にドキリと心臓が高鳴る。

「駄目だよ。ハル、あんな奴に負けないで! ハルは仕事辞めちゃ駄目。あの仕事好きなんでしょ? だから何を言われても仕事を続けていたんでしょ? 頑張っていたのって、お母さんの為だけじゃないよね。私が声を掛けたのも、どんな仕事でも一生懸命なハルを、ずっと尊敬していたからだよ! 苦しいのは分かるけど、こんなので辞めてほしく、ない」

 いつも強気な沙織が声を震わせている。意外な一面を見て、驚いたのはハルだ。

『何故、私なんかに……』

 この数か月、どうやっても這い上がれずにいた。母親の死に触れて、自身でも驚愕する程に世界が色褪せてしまった。一人で生きて行く寂しさに耐えられない……どれ程前向きに生きようと思っても、ふとそんな気持ちに襲われてしまうのだ。

『こんな私が必要?』

 高鳴る心臓を気付かれまいと、平静を保ち何とか笑顔を浮かべる。

「辞めないよ。辞めるって言いそうになっただけ」

「それが危ないんじゃん。いつか言っちゃう可能性があるって事でしょう? あ~もう、絶対に嫌! 何でハルなの?? 女性社員全員を巻き込んで嘆願書だそうかな……」

 そう言葉にすると、バンと箸をテーブルに置いて、水を一気に飲み干した。興奮する沙織を宥める言葉を考えるのだが、考えた先から言葉が零れて行く。今更だ。今更ながら、自分を必要だと望んでくれる存在を、ハッキリと認識した瞬間だった。

「……その気持ちだけで十分だよ。……沙織、ありがとう。長く心配かけてごめんね。私、自分だけが不幸だって、辛いって思っていて。沙織、ずっと心配してくれていたのにね」

 自分だけの世界にどっぷりと浸かって周りが見えていなかった。ハルは恥ずかしさに目を伏せる。笑われるかと覚悟した言葉であったが、沙織は押し黙ったままだ。怪訝そうに視線を上げたハルは、言葉を無くした。

 沙織の瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。

「馬鹿!! あんた、そんな所は頑張んなくていいんだよ。大切な人が亡くなったんだから。悲しいって、辛いって当たり前じゃん。思いっきり悲しんで、涙流して、それでも受け入れられないものじゃん! ごめんねなんて……言わなくていいんだよ」

 体の奥底から絞り出されるような声だ。流れ落ちる涙を拭う事もせず、ハルだけを真っ直ぐ見据える瞳は、吸い込まれそうな位に綺麗だった。

 昼間の定食屋で、女性が涙を流す光景は、異様としか言いようがない。小さな座敷の中で泣きじゃくる姿を、サラリーマン達が不思議そうに覗き込んでくる。

「ちょっと……何で沙織が泣いちゃう……の……」

 そう声を掛けながら、ハンカチを差し出すハルの瞳からも涙が溢れ出してしまう。

「沙織が泣く……から、つられて私……まで涙が出て止まらな……くなったじゃない……。もう……どうして……くれんのよ」

 二人は、互いの涙に濡れた顔を見て噴き出して笑った。最後には店員が気遣って声を掛けて来る程、笑いと涙は止まらなかった。その気遣いに、また泣いた。

 

 ハルは昼食から戻ると、化粧室の個室に駆け込み「あ~」そう溜息を吐く。

「うわぁ……我ながら酷い顔」

 手鏡に映った顔は、散々たるものだ。目は腫れ上がり、鼻の頭は真っ赤だった。泣いた事など一目瞭然で、流石にこの姿でオフィスには戻れない。急いで化粧を重ねると、ハルは隠れるように席に戻った。

『困ったなぁ、特に沙織は営業でしょう? 大丈夫かな』

 そんな心配をブツブツ呟いていると、先輩がボード越しに声を掛けてきた。顔半分を書類で隠すハルに向かって、言い辛そうに、

「田中さん……課長が二〇四会議室に来るようにって」

 それだけ言うと、心配そうな顔を浮かべている。

「え……」

 いつもであれば、長々と自席でこれ見よがしに小言を言うタイプだ。それが敢えて会議室を指定してきた事に、一抹の不安が過る。ハルは顔を隠していた書類を、机の上にパタリと置いた。

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