第2章 選択

第2章 選択-1

 PIPIPIPIPIPIPIPIPI

「…………」

 PIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPIPI

「あ~……も、う~煩いな!!」

 ハルはうつぶせのまま、目覚ましに手を伸ばし弾く様に音を止めた。朦朧とする意識は未だ覚醒(さめ)ていない証拠だ。深い溜息と共に時計に目を向けると、時間は七時半をとっくに過ぎていた。早く身支度を整えないと、会社の就業時間に間に合わない。

 掌で乱暴に顔を撫でると、

『はぁ……夢見が悪いなら悪いで、覚えて居ればいいのに。……だるい』

 夢に悪態を付いて、眉間に皺を寄せてはみるものの、昨日と同じジャケットに手を伸ばした。時間がないと焦る気持ちとは裏腹に、身体は鉛のように重い。そうなると閉じたままのカーテンを開ける気にもなれず、薄暗い部屋の扉に手を掛けて一気にドアノブを引き開けた。


「あ~今日ゴミの日か……」

 携帯に表示された曜日に溜息を吐く。コンビニ弁当で溢れるゴミ袋と、ビールの空き缶が山の様だ。目も当てられない状況に面倒だと言わんばかりの表情を浮かべた。

『まだ寒いから次でいいよね』

 そうやって早々に片付ける事を放棄して、洗面台に向かう。何はともあれ準備をしなければ……そう冷たい流水に手を差し込むと、意識だけはハッキリする。鏡には眠れない日々のせいで、目の下のくまが醜く浮き出ているのが映った。

『酷い顔……コンシーラーで隠さなきゃ』

 ハルはタオルに顔を埋めると「会社……休もうかな」毎日のように過る思いに溜息が出る。正直全てが面倒だった。体が鉛のように重くて、何をやっても解消されないのだ。リビングのテーブルに至っては、化粧品や本や菓子などが所狭しと散乱していて、母親が生きていた頃からは考えられない有様である。

「もう、無理。今日は休……」

 弱々しい呟きを落として、スマホの画面に手を掛けた時、タイミングよくメールの受信を知らせる音が鳴った。

【おはよう~。起きているかな~今日は、花の金曜日だよ。頑張って仕事終わらせチャオ】

 沙織からのメールだった。母親を亡くして気落ちをするハルに、二ヶ月間毎日欠かさずメールを送ってくれている。いつも出掛ける時間を見計らって送信されてくるメールに、沙織の優しさを感じた。

「チャオって、そんなキャラじゃないくせに……」

 ふふっ、そう笑ってハルはテーブルに広がる化粧品をかき集めると、朝の身支度に取り掛かった。


「おはようございます」

 高いトーンで挨拶をするハルに、先輩社員が顔を上げた。

「おはよう。まだ寒いわね」

「そうですね。今日は三度位しか上がらないらしいですよ。朝のテレビで言っていました」

 勿論朝のニュースなど見る時間など無い。通勤途中の電車の中で知り得た情報だ。優しい人達の気遣いに応えたくて、いつの間にか必要以上に明るく振舞う様になっていた。

「そうなの? 寒い筈ね」

 笑顔で頷く先輩が、ハッと表情を変えた。その表情が注意を促す。

「もう始業時間は始まっているんだがね。給料泥棒かね」

 声に振り返ると、課長が気配を殺して直ぐ後ろに立っていた。

「おはようございます」

「チッ、おい、お茶」

 苦々しく放たれた声に、先輩社員が席を立つ。

「あ、叶さん、私が……」

 掛けた言葉を遮るように片手を小さく上げて、先輩はドアから出て行った。母親亡き後、それでも会社を辞めずに済んでいるのは、心優しい人達のお陰だ。申し訳なさと有り難さに、一度頭を下げて、サイドに積み上がった書類に手を掛けたのだった。 


 寒風が吹きさらす中、ハルはコンビニのビニール袋を片手に、マンションの前に立ち竦む。自宅は目の前だというのに、何となく家に帰る気になれなくて、何をする訳でもなくマンションを見上げていた。

『数か月前と何ら変わっていない筈なのに、何かが足らないよね……』

 カップルが嬉しそうな声を上げて通り過ぎていく。思わず目を向けるものの、他人を妬む自分が情けなくて、苦しくて、再度目線を上げた。

『あ、そうか、窓の灯り』

 母が生きていた頃は、帰宅すると必ず窓に灯りが灯されていた。それなのに、今となっては黒抜きされた窓があるだけだ。それは何をしても満たされない心と同じようで、無意識にビニールの袋を握り締めていた。

 芯から冷えた身体を温める部屋はそこにはない。寒々しい部屋の灯りをつけて、エアコンのスイッチを入れる。

『一人の部屋ってこんなにも寒かったんだ。知らなかった。ずっとお母さんと一緒だったから』

 そう溜息を吐くとリモコンに手を掛けた。スピーカーから芸人がい変わらないネタを視聴者が飽きるまで繰り返している。テレビの騒々しい音は耳障りだが、一人でいる寂しさの方が耐えられなかった。

「そう言えば、この番組好きだったっけ」

 金曜日は必ず二人でソファに掛けて、見ていた事を思い出す。ハルはこの手の番組を好んで見ないのだが、母親の楽しそうな顔を見ると自分まで楽しくなってきて、何だかんだ言っては一緒にテレビに釘付けになった。

「お母さん……」

 そう何気なく母の名を呟いた。

【なぁに? ハル】

 ほんの数か月前までは、問いかけに必ず応える母の姿があった。今でも母の姿を探す自分に、驚く程ショックを受けてしまう。胸の奥が苦しくて無意識に涙が溢れ出てしまうのだ。ハルは呟きながら、クッションに顔を埋めた。

「慣れない。無理。……何で、何で私、一人なの……」

 止めどもなく流れ落ちる涙に、鼻をすすり天井を見上げた。母親が亡くなって数か月が経っても、ふと気が緩むと涙が頬を濡らす。

「バカバカバカ……お母さんのバカ。何で、突然死んじゃうの? 私が、こんなになるって、分かっていたでしょ!?」

 結局、母親の死の真相は分からないままだ。それでも置いて行かれた悲しさから、そんな言葉が口から零れ落ちる。

 ズズッと鼻を啜ったその時だ。テレビから、一際楽しそうな笑い声が聞こえてきた。母親の好きな芸人が、他の芸人からいじられているシーンが映し出されている。


【母さんねぇ、この子大好き!!】

【えぇ? これ? そんなに面白くないよ? 行動もずれているし】

 二人でソファに腰を下ろし、芸人が多数出演して盛り上げる番組を見ていた。母親はテレビにお目当ての女性芸人が出ると、家事の手を止めてまで、テレビに釘づけになる。そんな母親の姿に、ハルはいつも苦笑いを浮かべてた。

【だって、何だかハルに似ているじゃない?】

 母親の言葉に心底不服そうな表情を浮かべると、ハルはクッションを抱きかかえ異論の声を上げた。

【え~どこが~? 私こんなにバカっぽい??】

 口を尖らすハルをズイッと抱き寄せ、母親は優しい声で言った。二人で支えあって生きてきたからだろうか? 成人を過ぎても、母親は良くハルを抱き締めた。

【だって、凄く頑張り屋さんでしょう? 周りの空気を読んで、場を盛り上げる頭の良い子じゃない。良く周りを見ていてね、困った人が居ると助けちゃう。ほら、ハルとそっくり】

 更にギュッと抱き寄せられる肌の温もりを感じて、『全く~親ばかだなぁ』そうは思いながら、くすぐったい嬉しさと誇らしさが、じんわりと心を満たすのだった。


 ハルは涙で腫れ上がった目を一度袖で押さえて、グルリと部屋を見渡した。何もかも色褪せた世界は、寒々しくて、今にでも叫び出しそうになる。しかし、至る所に残る母親の温もりを感じると、綺麗好きの母の笑顔が浮かんだ。

「こんな私を見たら、お母さん心配するよね」

 小さくそんな言葉を落とすと、雑然としたテーブルやキッチンに向かって腰を上げる。そうしてハルは、至る場所に散らかったゴミを一つ一つ袋に詰めていくのだった。


「田中君~いい加減な仕事をしてもらったら困るよぉ」

 下から上目遣いで見上げてくる上司に、いい加減ウンザリしながらもハルは深々と頭を下げた。

「すみません……」

 上司の指示通りにデータを打ち込んだ結果、全く役に立たなかったと呼び出されて今に至る。指示の不備を指摘しても状況が良くなる筈がない。上げ足を取られるだけだ。

 ハルはいつもの如く、心を固く閉ざした。耳障りな声をうんざりした表情を浮かべ、先輩がホワイトボードに目を向けて溜息を吐く。頼みの綱である部長の欄には、出張の文字が貼り付けられている。課長はニヤリと口角を引き上げると、少し声を張り上げた。

「全く……母親が亡くなったからって、仕事はきちんとやってもらわないとねぇ」

 そんな言葉を投げ捨てた。途端にハルの表情が、受けた言葉でみるみると青ざめて行く。ハルだけではない。課長の言葉に、暴言に慣れている筈のオフィスがざわついた。

 加えて声音を落とすと、

「ふぅ……同情心を煽ろうとしてさ」

 そう言葉を重ねてきたのだ。ハルはいつかこんな嫌味もあるだろうと覚悟はしていた。しかし実際、面と向かって言われると、やはり胸の奥がざわつき大きな波の様にハルを襲った。

「母の事は……関係……ありません」

 上手く言葉にすることが出来ず、息をするのも苦しい。憤る感情を抑え込む事が出来すに、何とかその一言だけ絞り出す。奥底から湧き出してくる感情を今にも抑えきれなくなってきた。ニヤリと笑う上司を前にして、次の言葉を繋げようとした時だ。課長の机の内線が鳴った。次の動向を見守るオフィス内は緊張が張りつめていたらしく、その音だけで空気が震えた位だ。

 仕事の一切を部下に投げている課長の内線は、滅多に鳴ることはない。本人もそれを良く分かっているらしく、怪訝そうに受話器を取った。な

「はぁ、はぁ……はぁ!? そんな事で私に電話を掛けて来たのかね!? 全く常識を疑うよ? 待ちたまえ、今担当に代わるから」

 そう言うと、保留と同時にガチャリと受話器を投げ置いた。

「全く……、おい、経費の件で質問があるそうだ」

 そう言葉を言い放って、机の引き出しから耳かきを取り出す。その行動や仕草に、不信感を露わにしてハルは自席に向かって体を翻す。何とか平常心で受話器を取ろうと心掛けても、声のトーンは上がらない。

「お待たせしました。田中です」

「あ、ハル!? 大丈夫? このまま聞いて。今日は一緒にお昼食べようよ。場所は、ほらあの和食……煮つけが美味しい「トクベェ」ね。じゃ、十二時にロビーだよ」

 沙織からの内線だった事に驚き、中々受話器を置く事が出来なかった。何が何だか分からないまま椅子に座ると、ポワンとデスクトップからメールが浮き上がる。

【ハルとのご飯、久しぶりだね。楽しみ。ハル、大丈夫だから。皆、ちゃんと見てるからね】

『誰かが沙織に連絡を取ってくれた?』

 悲しみが長引いたせいか、短い文面に籠められた想いを中々理解することが出来ない。暫しの間、ハルは画面に映し出されるメールから目が離せなかった。

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