第1章 ありし日-3

【だから~いい加減、……? あんたに……るの、……わ。この世界での……だったら、その……無くせば……?】


 耳元で呟かれた様な気がして、ハルはベッドから飛び起きた。高鳴る心音を体に感じながら、静寂が広がる空間に息を潜める。しかし世界は暗闇に包まれ、遠くで走る車の音しか聞こえてこない。

 携帯の液晶に映し出された時間は、きっちり三時を指示している。携帯の光が周囲を照らすと、ようやく安堵の息を吐いた。

「何なの、もう」

 そう呟きを落とすと、顔を両掌で包み込み、掌に感じる汗に低く唸る。

 一年前からずっと夢見が悪く、それはハルの悩みの一つとなっていた。夢の内容はおぼろげでほとんど覚えていない。しかし夢から覚めると、いつも体中に嫌な汗をかいていた。いい夢ではないことは確かだ。

「覚えているのも怖いけど」

 初めの頃はたかが夢だと、軽く考えていた。しかしほぼ毎夜見ている筈である夢に、次第に楽観視が出来なくなってきた。睡眠障害というのだろうか、この一年熟睡した記憶がない。モゾモゾと布団に身を沈めると、暗闇を見据えてボソリと呟く。

『これってストレスかなぁ。……これ以上酷くなる様だったら、本気で病院も考えなきゃ。仕事出来なくなったら困るよ』

 ゴロリと横を向いて、一度部屋の中を見渡すと小さな溜息を吐いた。


『お母さん、もう起きてる』

 その日の朝、ハルは母の台所に立つ音で目覚めた。娘を起こさないように配慮する、そんな気遣いが見え隠れするこの音が幼少の頃から好きだった。

【ホント、ハルってば、マザコンだよね】

 いつの日か、沙織に笑いながら言われた言葉を思い出す。

「確かにそうだよね」

 そう呟いてクスリと笑った。そのままベッドから起き上がると、カーテンを勢いよく引く。東側の大きな窓から、朝日が燦々と降り注がれて、その眩い光は眠れない日々に苦悩するハルの気持ちを浮き上がらせてくれる。

『立地条件最高!』

 そうニンマリ微笑むと、勢いよく体を翻した。


「おはよう」

「あ、おはよう。今日も早いわね。起しちゃった?」

「うぅん。早めに仕事に行こうかなって。朝の方が仕事、はかどるからね」

 ニッコリと笑うハルに、母親が朝食の準備に取り掛かった。

「それ位するよ」

 そうご飯をお茶碗に盛りつける母親の手に触れた瞬間、その表情に陰りが見えた様な気がして、ふと心がざわついた。

「……どうしたの、調子悪い?」

 何があっても決して弱音を吐かない女性(ひと)である。一時期無理がたたって入院した時も、重症化するまで素振りすら見せなかった。心配そうに覗き込む娘の姿に、次の瞬間には表情を笑顔に変えた。

「ん? 勿論元気よ。ハルも大きくなったなぁって思っただけ」

 母親の言葉に、思わずハルは噴き出していた。成人もとっくの昔に迎えている娘に向かって、「大きくなったなぁ」はないだろう。

「いやいやいや、もうとっくに大人ですから。ご飯よそうって位でそう言われてもなぁ」

 呆れるハルの声に、二人して声を上げて笑う。

 いつもと変わらない幸せな朝に、『この時間を守るためだったら、何でも出来る』母親の笑顔を見て、ハルはそう力強く思うのだった。

「じゃ~行ってきます……うっ、寒い」

 最近すっかりと冷え込んできた外気に、身が震える。家の中との外気温の差に、白い息をはいたその時、

「ハル、ちょっと待って。お弁当忘れているわよ」

 母親がお弁当を抱えながら、パタパタと駆けて来た。

「あ、今日お弁当の日だぁ」

 会社の人との付き合いも大事だと、週二回だけお弁当を用意してくれる。今更お昼を用意してもらうなど甘えているとは思うのだが、如何せん美味しすぎるので仕方がない。

「ありがとう~。ね、今日の中身何?」

「ミニハンバーグとから揚げ」

 ハルは好きなおかずが二つも入っている事に、歓喜の声を上げた。特に母親のハンバーグは冷えても絶品なのだ。肉汁のジューシーさが堪らない。

「やった、昼の楽しみが増えたよ。ありがとうね」

 溢れた笑顔に母親は一瞬何か言いかけて口を開いた。

「ん?」

 首を傾げるハルに向かって、何事も無かったかのように微笑むと「あ、そういえば沙織ちゃん、元気?」ふと思い出したかのように問いかける。

「え、沙織? 元気よ。昨日も一お昼一緒に食べたし。沙織も色々忙しい筈なのに、私の為に時間を作ってくれるんだ」

 嬉しそうに笑う娘を前にして、母親もそれ以上の笑みを浮かべた。

「そう~この前ね、偶然外で会って立ち話したのよ。あまり話せなかったから……今度沙織ちゃんに遊びに来るように言っておいて。ハルがお世話になっているんだもの、お母さん、腕を奮ってご馳走作っちゃうから! あっ、ハル、もうこんな時間!! 急がなきゃ。さ、行ってらっしゃい!」

 そう笑ってハルの体をぐるりと回すと、優しくポンと押す。母親の柔らかな感触を背中に感じ、寒さに震える体の奥底が温かくなる。

「ん、じゃ行ってきます~」

 ハルは片手を小さく上げると、エレベーターに向かって駆け出した。


 しかしこの日を境に、母親は塞ぎ込む日が多くなっていった。一緒にソファに座っていても、心ここに有らずで、ぼんやりと目線だけテレビに向けられている。

 ハルはソッと母親の腕に手を掛けた。触れられた瞬間、母親はハッとした表情を浮かべる。

「お母さん……」

 心配そうに覗き込む表情に、母親は取り繕う様に笑顔を向けた。

「な、なぁに、ハル?」

「お母さん、何か心配事でもあるの? ねぇ、何かあるんだったら、話して?」

 心配そうな表情を浮かべ身を乗り出す手を取ると、母親はもう一度ニッコリと笑った。もう、何十年も一緒に暮らしているのに、この笑顔が作り笑いなのか本心なのか分からない。

「何にも。ごめんね、心配させちゃったね。本当に何にもないのよ」

「でも……」

 心配から少し青白い顔をするハルを、母親はゆっくりと引き寄せた。その肩に顔を埋めながら、漠然とした不安をどうしても払拭する事が出来ずに居る。心配症の自分に辟易するのだが、それ程ここ数日の母親の様子は今まで一緒に暮らしていて初めてのものだった。母親の体温を体で感じながら、

「そんな事言って、前だって倒れちゃったりしたじゃん。嫌だからね、ホントに無理しないでね?」

 子供の様に言葉にすると、ハルは目を閉じた。母親が頷く気配を感じる。包まれる母の温もりとほのかに香る匂いに、得も言われぬ安堵感と、漠然とした不安が交差して仕方がない。

『依存しすぎてるのかな……』

 こんなに近くに居ながらも、母に何かあったらと不安が過る自分を可笑しくも思う。この世界でたった一人の肉親を失う恐怖は、塀の前で待つずっと以前から、ハルに根深く根付いているものだ。

 また母親もハルを優しく抱き締めたまま、娘の存在を確かめていた。ここ数日、どうしても言葉に出来ない想いに囚われている。

『ハル……ごめんね』

 声に成らない声を発する事も出来ないまま、抱き締める腕に力を込めた。


 ハルはキーボードにデータを打ち込みながら、呼び出す内線にふと手を止める。液晶画面に映し出される名前に、小さい溜息を吐きながら受話器を取り上げた。

「お茶」

「かしこまりました」

 課長の指示に、ガタリと席を立つと給湯室に体を翻す。斜め後ろに座る上司が、ニヤリと口元を引き上げている姿が目に映った。

『……わざわざ内線って、何の意味があるのよ』

 社会人になって数年経つハルにとって、お茶汲み程度に「女性蔑視」だという声を上げる程、青臭くもない。しかし、ほぼ真後ろに位置付ける上司の指示に、毎回ゲンナリする事も事実だ。お茶っぱを急須に入れながら、深い溜息を吐いた。

『ここで雑巾の搾り汁なんて入れたら、すっきりするのかな』

 思わず陰湿な思いが過って大きく頭を振った。勿論そんな陰湿な事はしないが、酷い時には三十分おきに内線がなる現状に、そんな考えも過って仕方がない。そのお茶も、後ろの観葉植物に捨てている事など百も承知で、お陰でレンタルの植物は、半年も持たなく枯れてしまう。

 上司の湯飲みにお茶を注ぐと、速足でオフィスに向かった。

『今日こそ定時で帰らなきゃ』

 母親の事を思うと残業をしている場合ではないのだが、課長の仕事に追われ、母親のケアも満足にできていない。母親が塞ぎ込む様になって、もう一週間が経つ。正直、気が競って仕方がない。

『これ以上続きそうだったら、鬱病も視野に入れた方がいいかも。ずっと走り続けてきたんだもん。気が抜けたのかもしれない』

 ドアにセキュリティにカードを翳しドアを開けた時、同じ部署の先輩が血相を抱えた緊迫した声に、オフィス内が一瞬で静まり返る。

「た、田中さんっ。急いで電話に出て! 貴方のお母さんが!!」

「……え?」

 何が起こったのか理解出来ないまま、ハルはお盆のまま湯飲みを落とすと、電話機に向かって駆けていた。


「事故か自殺か分からないんですよ」

「じ……自殺っ? ……そんな筈ないじゃない、失礼な事言わないで! 母は自殺をする様な人じゃない! 今日の朝だって、何も変わった様子なかったもの」

 事務的な警察官の言葉に、ハルは血相を浮かべて怒号を上げた。「自殺」なんて言葉、母親に一番遠い言葉である。目の前に置かれている遺品は、買い物帰りだったのだろうか、母のエコバックには血液であろう紅い鮮血が、所々に飛び散っている。生々しい現実を目の当たりにして、胃から苦いものが込み上げるのと同時に、朝に母親から掛けられた「いってらっしゃい」そんな声が脳裏に響く。

『嘘! 嘘、嘘、嘘でしょう!? お母さん! お母さん!!』

 急激に喉が渇く感じがして上手く呼吸が出来ない。それでもハルは何とか立ち上がると、荷物の一つであるアイスに目を落とした。一週間前に二人で食べたプーノだ。食べてから数日しか経過していないのに、買ってきてくれる所など母親らしい……そう思うと、ハルの眼から大粒の涙が零れ落ちた。

「ほら……ほら!! 母の荷物、ほらこのプーノ! 私の為に買ってくれたものなの。以前そんな話をしてたもの。そんな人がじ……自殺なんてする訳ないじゃない。有り得ない!!」

 困惑の表情を浮かべる警察官に向かって、涙でグシャグシャになった顔を向けながら、ギッと睨みつけた。母親の死だけでも受け入れ難く動揺するハルに、更に残酷な言葉が襲う。

「でもねぇ、横断歩道も無い場所で、フラフラ道路に飛び出したっていう証言があるんだよ。お母さん、この一週間仕事先にも行っていないらしいし……」

 警官の言葉は、到底 耐え難いものだった。母親は人一倍責任感が強く、何もなく仕事を休む人ではなかったからだ。それも一週間も。何故気付けなかったのだろう……様々な思いが交差する中で、それでもハルはテーブルに両手をバンと叩きつけていた。

「違う、絶対違うから! お母さんは……お母さんは、私を置いて死ぬような人じゃないの。私一人を置いて……!! 死ぬような人じゃ………」

 しかしそれ以上言葉が続かない。何もかも受け入れられない現実に、ハルは力無く崩れ落ていた。


第1章 ありし日 終わり

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