ローズマリーのせい


 ~ 五月二十七日(日) A.M. ~


   ローズマリーの花言葉 あなたは私を蘇らせる



 神様は、自分の箱庭から聞こえる笑い声が大好きなくせに。

 ときたまこうして間違えて。

 どう転んだって笑顔になれないドラマを作ってしまうんだ。



 おお、神よ。

 どうしてこんな仕打ちを彼女に与えたもうた。



 五月の空に薄い御簾みすを引いて。

 都合が悪くなったからって隠れてないで。


 せめて今しばらく、涙を流さないでいてください。

 せめてどんな結末になるのか、その眩しい瞳を開いたまま見守ってください。




 ~🌹~🌹~🌹~




「穂咲ちゃんありがとね、洗い物まで手伝ってくれて!」

「平気なの。あたしの部屋も掃除中だから、体がお掃除モードなの」

「毎日朝練してんのに? 大したもんじゃないのさ! じゃあ、ぴっかぴか?」

「逆なの。お掃除中で、しっちゃかめっちゃかなの」

「ああ、あるねぇ!」

「三週間ほど」

「あるねえ!」


 ないよ…………。


 寝ぼけ眼をこすりつつ首をもたげ。

 勝手に部屋に入っておにぎりの乗った皿を持つ母ちゃんと。

 勝手に部屋に入って洗ったばかりの体操着と下着を差し出す幼馴染に。

 俺は、さわやかな朝の挨拶をした。


「出てけ……」

「偉そうなこと言ってんじゃないさね! ほら、時間ギリギリなんだから、とっとと着替えな!」

「あさごはんも食べるの」

「差し出してくるアイテムとセリフが逆なのです……」


 本気で怖いわ。

 そんな小さなおにぎりは着れないし。

 化学繊維は胃に溶けない。


 とは言え、確かに時間はギリギリ。

 仕方がないのでおにぎりを取ってかじりついて。

 ……そしてお皿に戻しました。


「この具、何の冗談?」

「あんたが朝ごはんに食いたいって言ったから準備してやったんじゃないさ!」

「あたしが握ったの」


 そうか、なるほど。

 母ちゃんにはちょっと俺の言葉は難しかったかな。

 そして穂咲に常識を求めるのは無理。


 昨日確かに言った、朝に食べたかったパンの入ったおにぎりを一瞥して。

 俺は布団の中で体操着に着替えました。


 これが唯一、田舎の高校生でよかったと思える瞬間。

 東京の高校生は、体操着で電車に乗るとき相当恥ずかしいんだろうなあ。


「よし。……行きますか、決戦の舞台へ」

「出陣なの!」


 弁当と水筒、タオルの詰まった鞄を下げて。

 一階で洗顔してから外へ出ようとすると。


 火打石のつもりでしょうか。

 母ちゃんが、木の棒をカシカシと穂咲の背中あたりで叩くのです。


「おお! 何かが燃え上がるようなの!」

「毎日頑張って来たんだから! これで完全燃焼してきな!」


 母ちゃんも応援してくれてるんだね。

 穂咲のことを、娘みたいに愛してるもんね。


 だから言わないでおいてあげます。

 あなたのおっちょこちょいについては。


 穂咲の胸に燃えさかる炎を消さないよう。

 見つからないように『火の用心』と書かれた拍子木ひょうしぎを下駄箱に押し込んで外に出ると。


 そこには、渡さんが待ち構えていました。


「穂咲! 今日はずっと、並んで歩くわよ!」

「いいアイデアなの! さすが香澄ちゃんなの!」

「いやいや、そこまでしなくても」


 呆れながら歩き出す俺に。

 二人は背中から興奮気味な声を浴びせて来るのです。


「これじゃ足りないくらいよ。ほんとなら走って学校に行きたい」

「そうなの、今日で最後なの。悔いを残したくないの」


 ほんの少し、ぐずついた灰色の空を見つめながら。

 俺は二人の気持ちを想って。

 胸が熱くなりました。


 これまでの努力。

 真摯にスポーツと向き合って、そして手にした友情。


 願わくば、それが花開かんことを。

 俺も心から応援しています。


「……今までの努力が最後の最後に手を抜いて台無しにならないようにね」

「もちろんよ!」

「そんなことしたら、画竜蛇足を欠くの」

「それは書き足しちゃダメな方です」


 難しい顔をして首をひねっていますけど。

 せっかく感動してたのに。

 こいつはいつも通りなのです。


 バカで。

 どうしようもなくて。


 ……まっすぐで。

 澄んだ瞳を正面に向けて。


 最近お気に入りの、ローズマリーの刺繍が入ったカバンを下げるお隣さんが。

 今日は、飛び切り輝いて見えるのです。


 だから、勝ってほしい。

 いや、勝ちたい。


 二人にずっと付き添った俺でさえ、必ず勝ちたいと願うんだ。

 この二人の想いは、きっとそんな比ではないのでしょう。


 毎日シップをして、辛そうに歩いていた渡さん。

 毎日絆創膏の数が増えていった穂咲。


「…………きっと一位になるよ」

「当然よ」

「当然なの」


 胸を張ってそう言えるほど。

 俺は何かに打ち込んだことがあるのでしょうか。


 二人に付き添っているうちに。

 俺は胸に、何かがくすぶり始める心地を抱いているのです。


「…………きっと一位になる。俺も保証します」

「いらないわよそんなの。でも、保証をくれるんならもらっておくわよ?」

「出し惜しみは無しなの」


 保証、保証。

 そうですね。


「俺と神様が、ずっと見てましたので間違いなしです」


 ちょっと恥ずかしいので。

 逆に、きざったらしく言ってみました。


 なので、突っ込んで下さい。

 このままじゃ晒しものですから。

 さあ、早く。


「……もらっておくわよ?」

「出し惜しみは無しなの」


 …………こいつら。


「……もらっておくわよ?」

「出し惜しみは無しなの」

「ええい、分かりましたよ」


 仕方ない。


 俺は通学路の途中にある馴染みの店に裏口から顔を出して。

 注文は百円のバーガー以外受けないよう釘を刺しつつ。

 祝勝会の予約を入れることになりました。




 ~🌹~🌹~🌹~




 お客様の入場まで、あと一時間。

 運営委員と有志による会場設営が進みます。


 そう、有志。

 真面目っ子と仲良しだと、こんな気持ちを体験できるのです。


「騙された気持ちです。どうりで集合時間がやたら早いと思ったのです」

「まったくだぜ、めんどくせえ」

「誰かがやらなきゃいけないことは、自分が率先してやるものでしょ?」

「……おっしゃる通り」

「仰せの通り」


 六本木君も合流して、今では四人で設営のお手伝い。

 俺たちは、客席に次々と作られていく柵に、何クラスかで作ったポスターを張って歩きます。


 そのポスターですが。

 可愛いイラストがほとんどを占める中。

 我がクラスの作品のインパクトと言ったら。


 『質実剛健』


 今、穂咲が絆創膏だらけの手で持っている品そのものなのです。


「しかし、君の手は絆創膏だらけですね」

「香澄ちゃんとの友情の証なの」

「そうよ、ちょっと素敵でしょ?」


 ねーとか。

 笑顔を交わしたりしてますが。


「六本木君が悲しむでしょうに」

「……この体育会系おばかさんが?」

「バカとはなんだ。まあ、確かに羨ましい傷だけど」


 なるほど、六本木君らしい価値観なのです。

 そして渡さんも、穂咲との友情の為についた傷と言っていますけど。

 体育会系な六本木君に認めてもらいたくて頑張ったところもあるのかなと、そう感じました。


 それに対して。

 六本木君も、こないだの実力テストじゃ学年四位だったですし。


 お互いに、お互いのいい所を認め合い、高め合う。

 なんて素敵な関係なのでしょう。



 ……俺は。

 こいつから何かを学び取ることがあるのでしょうか。


「どうしたの?」


 いけね、穂咲を見ていたのがバレました。

 誤魔化さないと。


「えっと、普通、高校の体育祭に親が来るなんて珍しいのではないでしょうか」

「確かに、あんまり聞かないの。香澄ちゃん、これ、珍しいの?」

「そうかもね。……ちょっと隼人! そこ曲がってる!」


 なるほど、そうなんだ。


「もっとも、うちのは揃って来ないだろうけど」

「ママもお仕事なの」

「そっか。じゃあ、六本木君とこも……、なぜ目を背けますか」

「み、瑞希の応援なんだからしょうがねえだろ!?」

「……なぜ照れますか」


 そうは言ったものの。

 顔を赤くする気持ちは分かるのです。


 でも。


 そんなもやもやとした気持ちを。

 こいつは相変わらずの調子で吹き飛ばしてしまいます。


「なんで照れくさいの? 羨ましいの。パパもママも、きっと嬉しいの」

「……ああ、そうだな。頑張ってるとこ、ちゃんと見せてやらねえとな」

「そうするといいの」


 穂咲がぺたぺたと作業する姿を。

 三人が何となく見つめ、何となく温かい気持ちになり。

 そして、こいつがくれた笑顔のまま、作業に戻ります。


 君の、その絆創膏だらけの姿を。

 おじさんも、空から見ていることでしょう。


 だから。


「……必ず、一位になろうな」

「当然なの」


 そう呟きながら、穂咲が丁寧に張ったポスター。

 俺たちのクラスで書いた、思い入れのあるポスター。


 ガイコツのシールが張られた『粉骨砕身!』のポスターを、俺は力いっぱいに剥がしました。




 ~🌹~🌹~🌹~




 競技も終盤。

 クライマックスに向けて、ちょっと箸休め。


 おそらく、そんな意図でプログラムされた種目。


 『二人三脚』。


 だが、教師よ、運営委員会よ。

 皆さんの認識は間違っています。


 スポーツは、勝利を掴むために全力一杯、正々堂々と戦って。

 そして人が一つ成長するためにあるもの。


 なればこそ、見よ、この雄姿。


「……まる一日で、ほんとにボロボロになったね」

「恥ずかしいからあんまり見ないでくださいよセンパイ!」

「あ、あの……、みっともないので……」

「みっともなくないし、恥ずかしくもない。二人の友情の証、かっこいいよ?」


 昨日、あの後遅くまで特訓した瑞希ちゃんと葉月ちゃん。

 俺の言葉に、はにかんだ笑顔を返してくれて。

 こちらこそ嬉しいのです。


 なんとか競技が始まる前に会うことが出来た二人は。

 明らかに昨日より沢山の絆創膏を張り付けていたのですが。


「どこにも見当たらないと思ったら、まさか今まで特訓してたなんて」

「は、はい……。始発で来て、いままで頑張ってました……」

「ばっちり自信アリなので、見ていてくださいね!」

「うん。一位になれるよう、俺も頑張って応援しますので」


 すっかり元通りに仲良く手を繋いで。

 いや、以前より遥かに幸せそうに二人でいる姿を見て。

 ちょっと目頭が熱くなってしまうのです。


 でも、それと同時に。

 何かに必死に打ち込むことの大切さ。

 そこは、俺が教わることになったわけで。


 だから、少し焦るような、そんな気持ちも湧いてきます。


 そんな俺に冷や水が。

 もとい。

 渓流の跳ね水を彷彿とさせる声がかけられました。


「……競技と関係のない者はゲートに来ないように」

「ああ、これはすいません。……じゃあ二人とも、頑張ってね!」


 生徒会長に言われて、慌てて走り出したのですが。


「秋山道久!」

「え? はい、なんです?」


 生徒会長の声に振り返ると。

 どういう訳か。

 悲壮な表情が俺を待っていたのです。


「……ほんと、なんです?」

「これは、私のせいではない。ただの偶然だ。……そのことは、君と君の友人たちには分かっていてもらいたい」

「は?」


 言葉の意味は分からないのですが。

 彼女の暗い瞳が、俺に不安を植え付けるのです。


 一体なんの話なのか分からないままゲートを後にする俺の鼻先に。

 ぽつりと、神様の涙が落ちたのでした。




 ~🌹~🌹~🌹~




 神様は、自分の箱庭から聞こえる笑い声が大好きなくせに。

 ときたまこうして間違えて。

 どう転んだって笑顔になれないパズルを作ってしまうんだ。


 おお、神よ。

 どうしてこんな仕打ちを彼女たちに与えたもうた。



「ウソだろ……? おい道久! これはどうなってるんだ!」


 肩を掴んで揺すられても。

 俺には分かりませんし。


 そう叫びたいのは俺も同じです。



 同学年、四組八人での競争となるところ。

 出場者が急に減ったため。

 最後のグループは、一年から二組、二年から二組という構成になったのですが。


 おお、神よ。


「葉月ちゃんたちじゃ、あの二人には勝てないのです」

「まさか、手を抜けって言う訳にはいかねえし……」


 一番内側のレーンに穂咲と渡さん。

 そして一番外側のレーンには。


「……会長が言ってたのは、このことだったのか……」


 悲壮な覚悟を頬に刻んだ、葉月ちゃんと瑞希ちゃんが立っていたのでした。


「葉月ちゃん、一位になれなかったら大変なんだよな」

「……でも、あの石頭コンビがそんなことで手を抜くとは思えないのです」


 遠目でもよく分かります。

 二人は冷静に。

 お互い声もかけずに。

 淡々とストレッチなどしているのです。


 そして、前の組がスタートして、会場がのどかな歓声と笑い声で満たされる中。

 ピンクのタオルで足をギュッと縛り付け。

 スタートラインに並びます。


 穂咲たちは、普通に一人で走るのとほとんど変わらない速度。

 それにひきかえ、急増チームの二人はたった半日の練習では転びまくって。


 今朝も、いままでも、特訓していたらしいですけど。


 ……勝てるわけがないのです。


 瑞希ちゃんが厳しい表情で見つめる先。

 穂咲と渡さんは、お互いに顔を見合わせて、一つ頷いて。


 たった百メートル。

 勝負は一瞬。

 その一瞬に、今までの特訓の日々を全てぶつける意思を確かめ合っているよう。


 気付けば空を覆う灰色は深く淀み。

 今、熱くなった地面を冷ますためにぽつりとシミが穿たれ。

 この悲劇の幕を、強引に開いたのです。


「位置についてー。よーい。…………」



 パァン!



 火薬の弾ける音が、温かな歓声を生むのも束の間のこと。

 おいっちにおいっちにと掛け声で走る二組をあざ笑うかのよう。

 全力で駆け出す、穂咲と渡さん。


 しかも穂咲はスタートダッシュの手を抜かず、渡さんが必死に食らいつく。

 俺が見てきた中でも最高のスタートが、本番で発動しました。


 ……でも。


 俺は胸を、目頭を熱くさせて。

 六本木君と共に、気付けば大声で叫んでいたのです。


「葉月ちゃん!」

「瑞希!」


 穂咲たちに、まったく引けを取らない速さで砂塵を巻き上げる二人。

 葉月ちゃん達が、奥歯の軋みすら伝わってきそうな形相で駆け抜ける。


 客席を満たしていた、ほのぼのとした空気が。

 この勝負が始まると、あっけにとられ、次いで失笑を経て。


 ……そして、数秒の内に大歓声が巻き起こりました。


 熱が渦巻き、上昇気流を生んで天を穿つ。

 そんな、地を揺るがすほどの歓声の中、俺たちの声は届くのか。


 でも届いたとてそれが何の意味があるものか。

 俺たちだって、四人全員を応援するしかなくて。


「瑞希! 香澄!」

「葉月ちゃん! 穂咲!」


 一瞬転びかけた葉月ちゃん。

 でも、必ず追いついてくれる。

 そう信じる心が、友達になりたい気持ちが。

 瑞希ちゃんの足をさらに加速させる。


 その信頼に応えた葉月ちゃんが、必死に追いついたその時には。


「並んだ!」


 コーナーを抜けた直線。

 四人が数瞬の内に首位を入れ替えるデッドヒート。


 あとわずか。

 数秒の戦い。



 その数秒で、潜在するすべてを出し切った者が勝利する。



 ……いつもの練習よりも倍の距離。

 穂咲が失速し始めて、渡さんがそれに合わせる頃合いか。

 そう思っていた俺の目に。

 さらに加速する渡さんの姿が映った。


 そして……。


 穂咲は。




 その期待に、見事応えた。




 僅差で穂咲の手がゴールテープを切る。

 そしてもつれ合うように倒れた四人に。

 会場からは雨雲を吹き飛ばすほどの大歓声。


 そんな四人の体が白く輝き始めます。


 全身で息をする少女たちに。

 心から友達を信じ抜いた四人に。

 雲の切れ間から、神様がスポットライトを浴びせたのでした。

 


「……負けたか」

「……勝ちましたか」

「…………そうか、勝ったのか」

「そうです……、負けたのです……」


 がっくりと尻から落ちた俺たちは。

 健闘を称える気力すら湧かず。


 ……その結末にすら感慨を持たず。

 ただ茫然と、四人を見つめていました。


 …………が。


『えー、ただ今の競技。一着、雛罌粟ひなげし、六本木ペア』


「なにーーーーーっ!?」

「ちょっ!? ええっ!? どういうこと???」


 慌てて立ち上がると。

 俺たちに苦笑いでおどける二人の姿が見えたのですが。


 彼女たちの指差す先。

 ゴール手前の地面の上に。



 ……ピンクのタオルが落っこちていたのでした。




 つづく。

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