#52 砂時計

 しばらく日数が経ちついに施設の電源が力尽きた。夜は完全な原初の闇に包まれた。塵芥ちりあくたと砲煙に抱きしめられた世界にはささやかな月明かりが差し込む余地もなく。施設の内部はあまりにも濃密な黒一色に満たされた。暗闇にも質量があるのだという事実をトフィーは初めて知った。


 電力なしでは保存のきかない食料品は優先して片付けていたが短期間に四人が食事という行為をまったく必要としなくなったために予定が狂ってしまった。残された少年と少女は扉が全開になった業務用冷凍庫の前で顔を見合わせてうなずきあった。

 そしてその日の夜のうちにぜいを凝らしたパーティーが開かれることになった。飢餓祝宴という名前はトフィーが思いついた。地獄の入り口を前にした急転直下への最後の一歩、その目前の淵で二人は手を繋いで立っていた。火が灯された蝋燭は祝宴を開いている子供達の周りをほんのりと照らす程度であり施設内だけでなくこの世界においてもたった二人きりになったように思えた。そうした終焉の洞穴の中でどう見ても二人では食べきれないような量の肉や魚、溢れんばかりに器に盛られたシチュー、巨大な連山を形作ったサラダが蝋燭の灯りによってぼんやりと照らし出されるさまは夕食風景というよりも神話で描かれた饗宴の趣きがあった。


 うちの親は食事のあれこれにも厳しかったからさ、とフレイド。いつかは自分のお金で腹いっぱい食ってやるんだってずっと思ってた。

 こんな形で夢が叶うなんてね。

 とにかく詰め込めるだけ詰め込もう。どうせ時間はいくらでもあるんだ。ゆっくり食おうぜ。

 わたし、暴食もそうだけど徹夜も初めてかも。

 悪い子になっちまうな。

 そうね。トフィーはフォークを鶏の丸焼きに突き刺して笑った。――楽しみ。


 どうせなら大人にならないとできなかったこともしよう、とトフィーが提案しフレイドはせっかくだしなと同意してくれた。しかしトフィーがデリカッセンの倒れた商品棚から引っ張り出してきた酒のボトルを見て彼はうへえと呻き声を上げた。

 ――熱心に会堂シラゴウに通ってたんだからお酒はしょっちゅう飲んでたでしょ?

 嫌々飲まされてただけだよ。蜂蜜菓子の方がよっぽど好きだった。

 お子様ね。

 そういうお前はどうなんだ。

 試してみる?

 おう。


 乾杯したあとグラスを半分いっきに空にしたトフィーをフレイドは口をぱくぱくさせながら見ていた。それはカベルネ・ソーヴィニヨンの赤葡萄酒であり十を乗り越えたばかりの少女が簡単に飲めるような代物ではないはずだった。むせることさえしなかった。フレイドも対抗してグラスに口をつけたがすぐに参ってしまった。

 続いてトフィーは父が店に忘れていった紙巻き煙草も勧めてみたがフレイドは拒否した。もういいお前の勝ちだ、と苦笑いして食事を続けた。フレイドが食べかすをこぼしながら皿を片づけていく一方でトフィーはグラスを空にしていき煙草に次々と火をつけた。そのうち酔いが回ってきた。背筋を伸ばして座っていられなくなり猫背になってテーブルにあごをつけた。グラスの縁を四本の指でビール缶か何かのように持ちぐらぐらと揺らして酒を乱暴にくゆらせた。

 風情も何もなかった。二人は大人でもなく子供でもない何かになった。外の世界で砲火にさらされている他のすべての子供達と同じように。誰もが子供でいることを許されない世界になった。時を刻む砂時計は重力を喪って本来の役目を果たさなくなり中に詰め込まれた砂の一粒一粒があらゆる法則に縛られないままに宙空に放り出された。割れた時計からさまよい出た砂粒は行くあてもないままあらゆる方向に散らばっていった。それまで人びとの生活を支えていた基盤は根底から崩れ去り誰もが砂粒のようにもろくはかない命を抱えて路外をうろつき回り先日まで屋根を並べて暮らしていた隣人を解体してその肉を鍋で煮込んでいた。


 散々に飲み食いした二人は肩を支え合って書店に戻り“座る”というよりはほとんど雪崩れ込むような有様で腰をおろした。トフィーは這うようにしてフレイドが寝転んでいるソファに近づき彼の投げ出された脚にもたれかかった。

 フレイドは何も言わずにサイドテーブルのランタンに火を点けた。それから善き本を手に取った。自身の罪深さを戒めるための一節を引用するつもりだったのかもしれない。彼が目的のページを開く前にトフィーは本を取り上げて力任せに遠くへと放り投げた。

 文句を云おうとしたフレイドの口を手のひらで塞いで顔を近づけトフィーは囁いた。


 ……祈りの言葉はもういいよ。


 それから少女はソファをよじ登り少年の身体に覆いかぶさって毛布を引き寄せた。


   □


 ある日を境にして砂時計は裏返された。それまで少女が常識として受け容れてきた文明のすべてが天地逆さまに引っ繰り返り飢えと暴力がそれに取って代わった。

 父母は一時の別れを告げた。かならずお前を迎えに来るからと云い残してトフィーを宝石店の棚の奥に押しこんだ。棚の扉を閉める前に父は金庫から取り出したペンダントを少女の首にかけた。そして父はペンダントに嵌められているものと同じ魔鉱石を口に入れた。父のとがった喉仏が上下するのが見えた。

 ――これでお前と父さんは繋がった、と父は云った。大丈夫。そばにいる。あとでこちらから声をかける。いいね?

 トフィーはうなずいた。

 父もそれを見て重々しくうなずいた。

 そして棚の扉を閉めた。世界が暗い闇に包まれる前に少女が最後に見たのは無理に笑顔を作ろうとして失敗しそうになっている父の姿だった。


 自分と同じくその後の“狩り出し”を生き残った少年や少女達と共同生活を始めてからしばらく経ったある日、父から最初の“連絡”がきた。

 始めは幻聴か夢の続きを視ているのかと思った。真っ暗な深夜だったからだ。目を覚ましたトフィーは寝袋の中でじっと身を固くしていた。ノイズ混じりのぼそぼそとした話し声。砂漠の地平線の向こうから叫んでいるかのように微かだった。トフィーはペンダントを取り出して耳にあてた。遠くなってしまった世界に向けて耳を澄ませた。まるで法螺貝でさざ波の音を聴こうとしているかのようだった。


 トフィー、と自分の名前を呼んでいる声が聴こえた。

 寝袋に潜り込んで胎児のように身体を丸めた。それからペンダントに唇を寄せてパパ、と呟いた。

 父の声がした。

 ……好かった。うまくいったようだ。

 お父さん。

 ああ。

 どこにいるの。

 わからない。オーデルなのは確かだ。遅れてごめんよ。

 いいの。大丈夫なの?

 お前こそどうだ。怖い目に遭ってないか。

 鉄砲の音がずっとしてた。だからじっとしてた。棚のなかで。

 本当に好かった。あのときお前も連れていかなくて正解だった。

 何なの。そっちはどんなところなの。お母さんはどうしたの?

 母さんには会えていない。キャンプに到着したとき性別で分けられた。でも元気にやってるはずだ。

 ほんとう?

 ああ。心配しなくていい。

 話して。あれから何があったの。


 父はしばらく黙っていた。深く息を吐き出す音が枯れた海の向こうから届いた。声はしわがれていた。というよりもひび割れていた。宝石店でお客さんを相手にしているときの、あるいは夜に本を読み聞かせてくれていたときの紳士な父はどこにもいなかった。引っ繰り返された砂時計は父という人間もまた変えてしまっていた。


 彼は云った。

 なあ。……これが平和な時代で。これが他の親子なら。父さんはお前に嘘をついていた。ここは好い場所だ。心配はいらないって。

 嘘が下手なだけのくせに。

 何も隠せないな。お前にも。母さんにも。

 お父さん……。


 父は再び間を空けてから語った。

 …………何日もかけて列車は走った。ノロノロと。故障でもしているのかと思うくらいに遅かった。そのあいだ外に出ることは許されなかった。客車じゃない。家畜かさもなくば荷物を運ぶためのただの貨車だ。そこにぎゅうぎゅうに詰め込まれたんだ。引込線に列車が入ってキャンプに到着したことが分かった。貨車の扉が開けられたときにはもう何人かは亡くなっていた。特に子供は体力がもたなかった。その子の親も消耗していて嘆くことさえできなかった。信じられなかったよ。遺体は兵士達が引きずって駅のそばに放り捨てた。ぐにゃりとしていて。カラカラで。今も目に焼きついてる。

 ――キャンプで何をさせられてるの。

 ひたすら畑仕事だ。どこも食料が足りていない。お父さん達は使い捨てだ。倒れた順番に射殺される。まるで時報みたいに定期的にブランカ畑の中で銃声がする。死体を片づけるのも私達がやるんだ。

 こっちには来れそうにないね。

 まだ分からない。何が起こるか分からないのが人生だ。諦めてはいけないよ。

 うん。

 何人か話の合う人も見つけた。教師をやっていた人でね。その人も息子を置いていったそうだ。

 じゃあ私のそばにその人の子供がいるのかもね。話、させてあげようかな。

 いやだめだ。作業後に倒れてね。もう意識がない。

 そっか。

 すまないな。もっとああしていれば好かったとか毎日のように考えてる。

 わかってる。

 また隙を見つけて連絡するよ。そのペンダントは肌身離さず身に付けているようにするんだ。

 うん。

 すまない。

 もういいよ。父さんのせいじゃない。

 それでもすまない。


 通信が切れた。発光していたペンダントは温もりを失って元の石に戻った。トフィーは両手の中にペンダントを閉じこめて胸に引き寄せた。卵を温める親鳥のように。それでもペンダントは温かみを取り戻さなかった。

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