#43 潤滑油

 太陽が顔を出した。時間をかけてチョコバーをかじり水で喉を潤した。出発しようとアリサが声をかけるとスヴェトナが首を振る。

 その前にちゃんと歯を磨け。

 お母さんかよ。

 虫歯は実際イヤだろ。私が知ってるだけでも汚れた歯を放置して三人は死んでる。

 冗談だろ。

 嘘じゃない。甘い物のあとならなおさらだ。

 アリサは溜め息をついてブラシを取り出し排水口の上で歯を磨いた。道具を片づけようと振り返ると櫛と香油を手にしたスヴェトナが手招きしていた。


 ――こんな時だからこそ、だ。アリサの文句にスヴェトナが応える。寸暇なき日にこそ客室の清掃は念入りにおこなえが家令スチュワードの家訓であり訓令だった。余裕のないときにこそ気丈であらねば。焦りはいざというときの命取りになる。銃弾の一発だって貴重なんだからな。

 私の髪をいじくり回したいだけだろ?

 ……そうとも云う。


 スヴェトナの指がアリサの髪をそっと持ち上げる。歯が何本か欠けた櫛がそれでも役目を果たそうとする。貴重な香油を惜しげもなく馴染ませていくスヴェトナの表情はあくまで柔らかだった。アリサと目が合うと微笑みを消していつもの仏頂面に戻した。

 顔を前に戻してアリサは訊ねる。……ひとの髪をいじるのがそんなに楽しいものかな。

 お前のは特別だ。リシュカの奴の癖っ毛じゃこうはいかない。

 スヴェトナだって藤色の綺麗な髪をしてるじゃないか。

 だとしてもコレには敵わないよ。

 そうかなぁ……。

 今の時代に髪の潤いを保つのはそれだけで並ならぬ努力が必要だからな。

 アリサは身じろぎした。……まぁ、母さんと父さんが褒めてくれてたから。

 ――ああそうか。すまない。

 気にしないで。嫌な思い出ってわけじゃない。

 ならいいが。


 アリサは外套の端をつまんだ。砂塵に耐えうる丈夫な生地。永遠にせることのない血の色を湛えた屍肉漁りスカベンジャーの象徴。なんど洗ってみても染みついた死臭が消えたことはない。あるいは嗅覚が麻痺しているのかもしれない。相方がなじませてくれている髪油の香りには気づけないまま。ありもしない臭いを嗅いでいる。


 ……ずっと前。ホントにお金に困ったときにさ、とアリサは静かに語った。髪を切って売ろうとしたことがあったんだ。どうせまたすぐに伸びるだろって思いもあった。

 本当か。

 うん。

 それで。

 別に。できなかった。それだけだよ。何と云えばいいのか分からないけどそれだけ・・・・はできなかった。略奪者レイダーを、――人を撃ち殺して小指を切り落とすことは簡単にできるのに。でも自分の一部をお金に換えるのだけは厭だった。身勝手にもね。

 我が身可愛さと云いたいのか。

 そうかもね。


 スヴェトナは櫛を丁寧に手繰り続けた。まるで新品の人形を買い与えてもらった子供のような仕草だった。彼女はアリサの背中に淡々と声を降りかけた。

 私は、――お前が髪を切らないでいてくれて好かったと心から思ってる。

 …………それだけ?

 ああ。スヴェトナは云う。慰めも叱責も不要だろう。身勝手には身勝手で返す。私が単純にこう思ってるだけだ。このきれいな髪がなくならずに済んで好かったってな。

 それからスヴェトナは声の調子を少し落とした。

 ……たぶん、これは私のためでもあるんだ。こうしてお前の髪を整えているうちは落ち着いていられる。時間を忘れられる。夢中になれる。今のご時世、誰だって毎朝の訪れを素直に喜べるほど満たされた生活は送れていない。――この液体がお前の髪にとっての潤滑油なのと同じように、この時間が私にとっての機械に差す油、――私が私でいてもいいなって思えるひと時なのかもしれない。

 アリサは長いあいだ返事しなかった。顔をスヴェトナのほうに向けようとしたが動くなよと制された。頭をわずかにうつむけた。口の中で言葉を甘い飴玉のように転がした。それから云った。

 ……これもまた、昨日スヴェトナが云ってた文明の香りなのかな。

 何が。

 髪をいじることが。あと、こんな風に年相応にお喋りをすることがさ。

 ああそうだ。従者の少女はくすくすと笑う。――その通りだ。 


   □


 テントから出た二人は上層に抜けるためのみちを探した。店内に通じるエスカレーターや階段はやはりバリケードで塞がれていた。唯一の経路は一階から地下へと崩落してきた床だった。剥き出しの鉄筋コンクリートの塊と塊の間にアルミ製の梯子が渡されている。

 念のため再生機を使った。一週間ほど前にも武装した一団がこの路を使ったようだった。男女二人ずつ。待ち伏せを受けているようすはない。だが女性のひとりが足を滑らせて階下へと転がり落ちた。頭から地面に激突し一回転して両脚が床に叩きつけられた。そして末期の吐息のように痙攣を一度入れてから動かなくなった。片脚は逆の方向へとねじ曲がり鼻から血を流していた。目は網で焼かれた魚のように見開かれとろりとした白目が天井を向いていた。

 メンバーが駆け寄り彼女を助け起こした。まったく動かなかった。呼吸は止まっていた。もう一人の女は何事かを喚きながらリュックをまさぐっていた。包帯を取り出した震える手を男の片方がつかむ。そして何事かを呼びかけて首を振る。彼女は男を突き飛ばす……。


 アリサは再生機の出力を切った。蛍色の光が弱まると三人の男女は消えうせる。そして首の骨を折った女の遺体だけがその場に残される。姿勢は大の字から胎児のように横に丸まった格好に直されていた。オーデル地方古式の安置法だった。上着とリュック、携行品は生き残った者のために持ち去られている。臓腑はすでに傷みはじめており臭いがした。


 アリサはスヴェトナと顔を見合わせた。従者の少女は肩をすくめる。

 ――これはまた。運が悪かったな。

 そうだね。

 略奪者の類ではなさそうだが。

 だからって善人とは限らないけどね。

 昔なにかあったのか。

 別に。


 二人は階上を目指して崩落した床を登りはじめた。これ以上なく用心深く。特にアリサは散弾槍の重量もあって途中で梯子が折れやしないかと冷や冷やした。梯子には誰の仕業か錆止めの潤滑油が塗られていた。それで女は滑ったのだ。

 羽音がした。地下駐車場にまでついてきた数羽の禿鷲が横たえられた女の遺体をついばみ始めた。アリサは振り返らなかったがスヴェトナは足を止めた。

 …………。

 ――おいスヴェトナ。

 いつ見ても、あまりにも酷だ。

 アリサも足を止めて下を見た。……ずっと眺めていてもしょうがないだろ。

 しかし――。

 よそ見してるとあんたも足を滑らせて同じ目に遭うぞ。

 わ、分かった。


 スヴェトナは遺体から視線を引き剥がして上を向いた。その目が見開かれた。瞳孔が猫のように瞬時に細まった。唇が半開きになった。声なき声が漏れた。


 アリサもゆっくりと顔を戻した。

 目の前に銃口があった。

 ――またお客さま?

 拳銃をアリサにつきつけた少女が階上にいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る