#39 タリスマン (13)
アリサは担いでいた散弾槍を構えかけたが相手の方が遙かに
スヴェトナが短い悲鳴を上げた。
地面に落ちた散弾槍をリシュカが拾い上げようとする。
アリサは大声で制止した。――だめだ止めろ。敵う相手じゃない。
リシュカは一瞬だけこちらを見た。ブルーの瞳が迷いに揺れた。それでも散弾槍を持ちあげようとした。アリサがもう一度怒声を飛ばすと彼女は唇を噛みしめて銃を下ろした。
アリサの指示で三人は両手を挙げた。だがアリサの撃たれた右腕はわずかしか動かなかった。流れ出る血が腕を伝い服を濡らしていくのが分かった。呼吸が震えていた。目を閉じる。落ち着けと自分に云い聞かせる。痛みはない。ただ寒かった。
数秒の沈黙の後に同胞喰らいの男が散弾槍を構えながらゆっくりと監視塔の基礎に登ってきた。散弾槍は小型だが取り回しの好い軍隊仕様でバトラー・クリークと呼ばれる折りたたみ式のストックが付いていた。
彼は散弾槍とは反対の手に人間の断ち割った大腿骨を持っていた。骨は焦げており肉はこんがりと焼き上がっている。骨にへばり付いた肉を彼は鋭い犬歯で噛みちぎった。まるでフライドチキンのように。口ひげに肉の
男は一番手前にいたリシュカの目前で立ち止まった。
――よう。
と云った。プレス機で思いきり圧縮したような冷たい殺意のこもった声だった。アリサの全身に悪寒が走った。ナマズのごとく巨大な舌で背筋を舐め上げられたかのようだった。スヴェトナが何かを訴えかけるように必死に目配せしてきたがアリサは片手を挙げたまま首を左右に振った。右腕の感覚がなくなり始めていた。
男は肉を美味そうに
……こいつらの云ってた取引相手ってのはお前さんのことか。まさか同業が来るなんて思わなかった。
あんたなんかと一緒にするな。同胞喰らい。
男は酷薄な笑みを浮かべた。
声が震えてるぞ。尻の青いガキのくせに無理するな。
アリサは顔を伏せた。そして自身の再生機を持ちあげた。
……ねえどういうこと。あんたは確かにここから立ち去ったはずだ。戻ってきた痕跡なんて欠片も見つからなかった。正直訳が分からない。
男は首を傾げた。――再生機は万能じゃない。同業のくせにそんなことも知らないのか。旧式なんぞ騙そうと思えばいくらでも誤魔化せる。だから熟達したくず鉄拾いは却ってこんなオモチャには頼らなくなるんだ。次からはお前さんもスクランブラーの一つは持った方が好い。
次? アリサは鼻で嗤って訊ねた。生かしてくれるってわけ?
さあどうかな。言葉の
何が目的……。
俺に目的なんかないよ。彼は両手を広げた。――ただ生きてるだけだ。こんな世界で他に何ができる? 俺を放り出した組合への復讐? まさか。俺は自由に生きたいだけだ。何処にでも好きな場所へ行く。誰でも好きな相手を殺す。食べたいものを食べて寝たいときに寝る。そして最期は葦で編まれた揺りかごの中でくたばる。
アリサは彼の話が理解できなかった。正確には理解できるだけの体力がなかった。頭がぼうっとしてきた。何もかもが遠くに感じられた。
スヴェトナがアリサの傷口に視線を配った。そして声を震わせた。
お願いだ。こいつを手当させてくれ。出血がひどい。このままじゃ死んでしまう。
屍肉喰らいは考えこむような仕草をした。それから頷いた。……いいだろう。腹はいっぱいだし俺の家族もたらふく喰った。もう充分殺したしな。――ただしそのダッフルバッグを寄越しな。多少の路銀にはなるだろう。
スヴェトナはリシュカに視線を送った。彼女は迷うことなくダッフルバッグを差しだした。男はそれを受け取った。そしてアリサの傷口をじっと見つめた。彼は無表情で云った。
……そうさな。同胞とはいえ俺に銃を向けたのは動かしようのない事実だ。味見くらいしても罰は当たらんだろう。
――あじみ?
リシュカとスヴェトナが呆然と繰り返した。まるで生まれて初めて聞く外国語のように。
ソンブレロのスカベンジャーはナイフを取り出して先端をライターで焙った。それから無言で屈みこむとアリサと視線の高さを合わせナイフを傷口に近づけた。アリサは目をぎゅっとつむった。そこで初めて何が起こるか理解したスヴェトナが止めろと叫んだ。リシュカが目を背けると同時にナイフが傷口を抉った。
アリサのこらえきれない悲鳴が口の端から漏れて空気を震わせた。時間はそれほど長くかからなかった。ほんの数秒といったところだ。これまでアリサが経験した中で最も長い数秒間だった。目蓋の裏で紅い火花が散っていた。引き延ばされた時間の渦の中で自分の肉の切れ端が持ち去られていく過程を猛烈な痛みとともに味わった。
男は取り出したものをナイフの先端にくっつけたまま再びライターで焙った。それから口に放り込んでゆっくりと咀嚼した。その間も表情は変えなかった。
……惜しいな。と彼は云った。見逃してやるなんて約束するんじゃなかった。
アリサは咳きこんだ。目の端からすうっと涙がこぼれた。痛みによる自然作用だった。スヴェトナが必死に呼びかけてきたが何を云っているのか認識できなかった。
男は腰のポーチからブランカの蒸留酒が入った瓶を取り出してスヴェトナに渡した。
――これで消毒してやれ。大丈夫だ。毒じゃない。
彼女はすぐに傷の手当を始めた。アリサは失神しかけていたがそれでも首を起こして男に訊ねた。……ねえあんた。公益のためにって大義はどうした。そうまでして組合を抜ける必要があったのか。やってることは殺戮の嵐をあちこちに振りまいてるだけだ。あんたの云う自由ってのはそれほど尊いものなのか。
男は即答した。
――確信を持ってイエスだ。俺はそのために力を手に入れて磨き続けてきた。中にはお前さんみたいに世のため人のためと健気に身を捧げる奴もいるだろう。そういう生き方を否定するつもりはない。だが俺は二度とごめんだ。一途な献身に対して相応の見返りが与えられる時代はもう終わったんだ。
献身ってのは……。アリサは答えた。本来見返りを求めないものだろう。
…………。
男は答えなかった。喰いかけの大腿骨を放り捨てて禿鷲に与えた。そして散弾槍を肩に担ぐと背中を向けて去っていった。三人は動かなかった。やがて魔法が解かれたように肩の力を抜いた。一生分の吐息が口から漏れた。それからスヴェトナは謝罪の言葉をなんどもこぼしながらアリサの傷の手当を再開した。
アリサの記憶はそこで途絶えている。
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