#37 タリスマン (11)

 ロッジのベランダに出て夜空を見上げているとリシュカが後ろから肩を叩いてきた。足音はまったく聴こえなかった。私は危うく手すりを飛び越えて階下に転げ落ちそうになった。

 ……――びっくりさせるなこのバカ!

 ごめんよ。そんなに可愛い反応が返ってくるなんて思ってなかったから。

 場合が場合なら反射的に撃ち殺してたところだぞ。


 リシュカは毛布を一枚持っていた。それで私の隣にくっついて手すりにもたれかかり毛布の片端を渡してきた。しばらく間が空いた。私は毛布の端を握ったまま阿呆のように硬直していた。

 ――早くして。寒い。

 リシュカは横目で私を見ながらそう云った。白くて長い憂いを含んだまつ毛がまばたきの度に踊った。水気を含んで濡れ光るさまが目に見えるようだった。寒さで濁った息が吐きだされては山風にさらわれてすぐに姿を消していく。彼女の肩は微かに震えている。

 私は諦めて毛布の片端を自分の身体に巻きつけた。二人の肩がひたいを合わせて互いの体温を伝え合う。


 リシュカの手は子供のように熱いが頭は思っていたよりも冷たい。

 昔からそうだった。

 彼女はいつも身体のどこかで冷めていた。

 それが私には分かった。私にしか分からないだろう。アリサはもちろん彼女の主人のモーレイだって見抜けていない。


 リシュカは星のまたたく空を見上げながら呟いた。

 ……今も視るの?

 何を。

 昔の夢。

 うん。――まあ。

 砲撃の夢? たしか怪我人でいっぱいのテントに榴散弾が直撃したことがあったな。

 いや……。

 じゃあ仕事の夢?

 ええ。私はひとつ深呼吸を入れた。……テッセラを吸わされてそのままベッドに運ばれたときのこと。何もかもが七色のアメーバみたいにぼやけて見えたよ。ゴツゴツした手で身体をまさぐられる感触さえ上等な羽毛で撫でられているかのように感じた。認めたくはないけれど。そして何もかも終わったその後が酷かった。

 あれね。リシュカが眉をひそめた。――冷たくなった七面鳥みたいにもがき苦しむあんたを介抱したのを覚えてる。

 あの時は本当に死ぬかと思った。

 でも落とし前はしっかりつけてやったでしょ。

 うん。もうヤクはごめんだ。


 リシュカは煙草をポケットから取り出してライターで火を点けて吸った。

 私は云った。――なァそれ、アリサの煙草だろう。

 そうだよ。

 手癖の悪さは相変わらずだな。

 あんたも吸う?

 煙草はやらないんだ。ついでに酒もな。

 あら勿体ない。――あの子、なかなか好いのを吸ってるね。万年貧乏なのに。


 彼女は満足そうに煙草を吸い終えると指で吸殻を弾き飛ばした。そしてこちらにいっそう身を寄せてきた。反対側の肩に彼女の腕が回される。力を込めて引き寄せられる。リシュカが顔を近づけてくる。桜色の唇が呪文をかけようと試みて私の耳にささやきかけてきた。

 ――ねえ、スヴェトナ。

 なに。

 話を繰り返して悪いんだけど。

 だから何さ。

 ほんとうにあの子に付いていくつもり? ――このままずっと?


 リシュカの顔を見た。乾いた北風は身体を芯から凍らせる。それでも彼女の顔は熱で紅潮しているように見えた。それもまた彼女の脚色なのだとしたら驚異的な演技力だった。戦前に生まれていたならば女優としてスターダムに続く階段を一足飛びで駆け上がっていたかもしれない。私とリシュカの濁った吐息が芸術的に交わった。だが私の頭の芯はリシュカのそれと同じくらいに冷えていた。


 ……しつこいよリシュカ。私は答えた。そのうちお前もアリサのことが分かるよ。職業で偏見を持つな。

 人が好いとか悪いとか稼業がどうとかの問題じゃないんだよスヴェトナ。

 リシュカは私の肩を握る手に力を込めた。

 ……昼間も云ったけどあの子に付き合っていたらあんたは確実に巻き込まれて死ぬ。“前も似たようなことを云われた”ってあんた笑ってたな? ――ってことは私以外にも誰かまともな鑑識眼を持った奴が同じことを思ったってことだ。あたしはあんたを見殺しにするなんてごめんだ。逆の立場だったらスヴェトナはどうする?

 トラックの中じゃあんな邪険にしてきたくせに。


 リシュカは“あァ”と呻いて眉間のしわを深くした。

 ――……スヴェトナの気を引こうとしたんだよ。あれは。

 だったらお前の演技は見事に成功したよ。スタンディング・オベーションだ。認めざるを得ない。なんせあのとき私は猟銃で撃たれた小鹿みたいに傷つけられたからな。


 リシュカの瞳がはっと潤んだ。肩に回されていた彼女の手が私の頭の後ろに当てられた。その手がそっと頭を押してきて気づいたときには彼女と唇を合わせていた。ほんの一瞬の出来事だった。私が瞬きを一回挟んだときにはすでに彼女は唇を離して元の位置に戻っていた。


 彼女は云った。……頼むよスヴェトナ。モーレイ様に頼みこんであんたを雇ってもらう。それで私達は一緒だ。――今度こそ。ずっと。

 私は答えずに毛布をはぎ取ってぬるま湯のような空間から離脱した。冷たい風が背中に吹きつけて現実という名の死の世界へと私を引き戻してくれた。夢を視るのは終わりだ。


 私は矢車草のブルーの瞳を見ながら呟いた。……昔の関係には戻れないよ。リシュカ。熱がすっかり引いてこれ以上いくら叩いても鉄は形を変えてくれない。何もかもがあるべき場所に収まってる。友達としてやり直すことはできてもあの頃の私達はもう還ってこない。

 私はそう云い終えると振り返らずにその場を後にした。

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