#33 タリスマン (7)

 リシュカ・ロイツェヴァは目を覚ました。だがいつもの習慣ですぐ目を開くことはせずじっとしたまま耳を澄ませた。山脈から吹き降りてくる風の唄。それ以外に音らしい音はない。トラックは止まっていた。運転席にスヴェトナの姿はなかった。足元にあるダッフルバッグの存在を確かめてからほうっと息をついた。外はすでに夕暮れだった。雪を冠に被った山の稜線を夕陽が照らしている。タンジェリンの色に化粧した山々は戦前からの変わらぬ優しさを湛えているように思われた。


 トラックから降りるとくず鉄拾いのアリサが歩いてきた。リシュカに水筒を手渡しながら彼女は薄く微笑んだ。

 よく眠れた?

 ええ。私としたことがぐっすり寝入ってしまって……。

 疲れていたんだろ。なら仕方ないさ。

 ここは?

 ドリステンとの邦境地帯。あの山のトンネルを抜ければ別の景色がお出迎え。――と云ってもあんたとスヴェトナは向こうの出身なんだっけ。

 あまり好い思い出はありませんが。

 そっか。――まあ詮索はしないことにする。

 アリサは微笑みを崩さずにそう答えた。リシュカはじっと彼女の顔を見返していた。彼女の空色の瞳は夕焼けにも染まらずに昼の晴天を惜しむかのように輝いていた。これまで何人ものスカベンジャーに出逢ってきたが彼女ほどに澄んだ瞳の持ち主には今までお目にかかったことがない。腐った卵の黄身みたいに濁った眼をした連中がほとんどの業界なのだ。


 アリサが続けて云った。

 今夜はここに泊まる。戦前はスキーリゾートのロッジだったのかな。――とにかく夜の寒さをしのぐには丁度いい。

 彼女が指し示したのは木造二階建ての傾斜した屋根を持つ建物だった。この辺りは戦争の被害を受けていない。だが人気ひとけのない寂しさはどこであろうと変わらない。永遠に来ることのないスキー客を待ち続けるそのロッジの巨大な張り出し窓もまた陽の光を浴びていた。目に痛いくらいに明るかった。


 水分補給した方が好い。ずっとトラックに乗ってて何も飲んでないだろう。

 ええ。

 アリサに云われるがままにリシュカは水筒の中身を口にした。塩の辛味と複雑に凝縮された乳の甘味が同時に喉を直撃して見事にむせた。

 ――な、なんですこれは。

 バター茶。

 ば、ばたー……?

 同業者に教わったんだ。サロッサで採れた黒茶に砂羊の乳と岩塩を混ぜたやつ。

 好き嫌いの分かれる味ですねこれは。

 水分も脂質も塩分も全部これで摂れるんだ。北の領邦が目的地ならこれくらいは準備しないと。

 ……さすが用意周到なことで。


 アリサは荷物を下ろしているスヴェトナを手伝うために歩いていった。バター茶を飲みながらリシュカはその背中を見送った。あのスカベンジャーの少女とは仕事の関係でこれまでにも幾度となく付き合いがある。それこそモーレイ様が手取り足取り生活の面倒を見てやっていた時分から彼女のことを知っていた。銃をまともに扱えなかった頃と比べると幾分はその背中も広くなったように思える。変わってないところと云えばその口下手な性格と、――こんこんと湧き出る清流のように澄んだ瞳くらいなものだ。

 リシュカは唇を引き結んだ。あの痩せぎすなスカベンジャーにスヴェトナが惹かれている理由が何となく分かった気がした。


 ロッジは針金細工のように細くて薄気味悪い針葉樹に囲まれている。山から降りてきた風の唄が木々の枝をこすらせてこれまた不気味な民謡を奏でていた。その風は北から吹いていた。リシュカはダッフルバッグの取っ手を握りしめた。こんなもの・・・・・を運ばせるくらいなのだからあそこは今もろくでもない状況になっているのだろう。

 風の唄が怨嗟えんさのように聴こえてきた。北の戦場で散った無数の命が吐いた呪詛じゅそのように。彼らは誰にも看取られずに雪解け跡の泥に沈んでいった。何の意味もなく。何も願わずに。思わず溜め息が漏れた。これも仕事のうちだ、と独り言をつぶやいてリシュカはロッジに向かって歩いていった。


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