#31 タリスマン (5)
アリサとモーレイが依頼の詳細を詰めているあいだ私は部屋の外で待機していた。
会合は家の一階のリビングで行われていた。そこは決して大きな屋敷ではない。戦前の金持ちならば鼻で嗤うような一軒家だろう。だが人的にしろ物的にしろ今の時代はリソースが足りなさすぎた。ひとつ屋根の下で戦前の暮らしをたとえノイズ混じりにでも再現し維持しようと考えたらこれが限界なのだろう。ましてや初老を過ぎた男一人に召使が一人。たった二人で暮らしているのだ。
リビングの暖房は古風なマントルピースだった。煉瓦とコンクリートがアーチ状に組み合わされておりその上に乗った花瓶には瑞々しい花が生けられているほか恐竜のミニチュア骨格などが飾られていた。マントルピースの上方には絵画がかけられていた。戦前の景色。東のオーデル地方の広大な平原地帯を写し取ったものだ。目が痛くなるような青空と新緑に彩られた丘陵が延々と連なっている。モーレイ氏の故郷の景色なのだろうか。
今やオーデルの平原は見渡す限りの荒野になっている。草木は針金のように細くて貧弱なものがまばらに生えているばかりだ。平原は軍隊が通過するのに好適でそのため主戦場になったと聞く。いくつもの廃墟都市が生まれその大地は魔鉱兵器で徹底的に耕された。それで土壌が汚染されて見るも無惨な荒廃ぶりとなった。戦争中に人間やら動物やらの死体が大量に打ち棄てられて肥料になったはずだが未だに新芽は顔を見せていない。骨ばかりが砂塵の底から顔を覗かせている。
モーレイ氏は云った。必要としているのはいつだって最低限かつ最小限だと。
最小限、と私は口に出して呟いた。
◇
リシュカが手招きしているのに気づいて私は考え事を止めた。そこはキッチンだった。お出しした珈琲の片づけをしていたところだったらしい。私が近づくと紅梅色の髪をした少女は腕を伸ばして私の両手を握りしめてきた。体温を確かめるように長いこと触れていた。しばらくのあいだ互いの息遣いの音しか聞こえなかった。
…………久しぶり。スヴェトナ。彼女は云った。さっきは悪かったね。驚きを隠すだけで精一杯でさ。なかなか悪くない演技だったろ。
ああ……。と私は肩の力を抜いた。ただのそっくりさんだったらどうしようかと思ったよ。
私とあんたが知己だってことはモーレイ様に知ってほしくないんだ。ご自身の平穏かつ
うん。ごめん。……つい。
いいよ。
そこまで話してからようやくリシュカは私の手を放した。背格好は変わっても手のひらの感触は昔と同じだった。彼女は冷酷な微笑みから一転して子供のような笑顔を浮かべていた。さすがにその笑みには昔になかった影が差していたがそれは私も同じだったろう。瞳は矢車草のブルー。梅色の髪とは対照的で珍しい色だ。そのため故郷では多くの男たちの目を引き寄せていた。もっとも彼女はそうした美貌を活かすような仕事はしていなかったが。――リシュカはいかにも活発そうな
思えばここに来訪して家から出てきたときもそして給仕をしている最中も彼女は顔をやや伏せていた。
自分の武器を熟知しているわけだ。
その機転の早さで私はどれだけ助けられたことだろう。
リシュカは会合が行われているリビングのドアをちらりと見てから話を続けた。
……あれからあんたがどうしてたかは知らないけどさ。その恰好を見る限りはうまいことやってたみたいだね。高そうな御守りじゃんか。あんまり見せびらかすもんじゃないよ。狙おうとする輩がいるかもしれない。
私の給仕服とタリスマンを交互に指さして彼女は云った。
私はあいまいに頷いて首からさげた御守りを胸元に隠した。
リシュカは云う。今もあのお金持ちの爺さんのとこで働いてるのか。ピカピカのステッキ持ってたあの人。
ツェベック様は死んだ。ついこの前にな。
リシュカは指の爪で頬をかいた。――そっか。まァそうでなければスカベンジャーなんかと一緒に行動してるはずないよな。
“なんか”ってなんだよ。
友人は爪で頬をかくのをやめて私をじっと見返してきた。
あんたこそどうしたんだスヴェトナ。屍肉喰らい達がドリステンでやらかしたことを忘れたわけじゃないだろ。
奴らは“元”スカベンジャーだった。組合を抜けた
リシュカは矢車草の瞳を真ん丸に見開いて私を見た。人間離れしたきらめきを放つ瞳はおとぎ話に出てくる怪物を思わせた。彼女は昔から本音を伝えるときは常に口ではなく目で語る。これほど縦横無尽に感情を伝える目を私は他に知らない。やろうと思えばどこぞの爬虫類よろしく左右の目を別々に動かせるのかもしれない。彼女の仕草の器用さに比べたら私の
彼女は私とは違ってあらゆる意味でタフな少女だった。戦前の世界に生まれていたらきっとその利発さでリーダーシップを発揮し学園の人気者になっていただろう。さっぱりした友だち付き合いを好み勘定は常に割り勘で済ませ大学の講義だって一日も休まない。どこでも明るく裏がないように見せかけ護身術にも精通していてそこらのトラック運転手なら軽く背負い投げしてしまうような女の子に。専攻する学問の学術誌に掲載された最新論説を
だが時代が彼女に与えたのはエリート街道ではなく戦後も果てしなく続く紛争地帯でその日暮らしをすることだった。
彼女はその才気を戦後の時代にふさわしいやり方で磨きをかけていたようだった。
だから私は彼女に見つめられて見事にたじろいだ。夜道にヘッドライトで照らされた子猫のように萎縮してしまった。
私が何も云えないでいるとリシュカは目を細めて軽く笑った。
……まァ、同じくず鉄拾いでもあいつは変わり者だからね。別に全員に偏見を持ってるわけじゃないよ。
あいつってアリサのこと?
ああ。あんたがどういう経緯であの金髪女の下についてるのかは知らない。でも早いこと泥濘から足を引っこ抜いた方が好いよ。膝上まで沈んじまったらもう手遅れになる。
私はめげずに友人を睨みつけた。
……どういうこと、リシュカ。
分かってんだろ。あの子は好奇心が強すぎる上に無鉄砲だ。中途半端に人間らしい情まで持ってる。早晩撃たれて死んじまうってことくらい火を見るより明らかだ。――棺桶の中まで付きそう義理なんてあんたにはないだろ。
私の口から微かな笑い声が漏れた。降り始めの細雪くらいにさりげない笑みだった。
少し前にも似たようなことを云われたよ。
だったらなおさら――。
でもアリサは私の命の恩人なんだ。だから……。
――あたしだってあんたの恩人のつもりだよ。リシュカは再び私の手を握りしめて云った。――そのあたしが心配して提案してやってるんだ。少しは従うくらいの気概は見せてくれても好いんじゃないか? 屍肉――、じゃなかった“くず鉄拾い”は長生きしない。例外なく。決してね。――どうしてそんな簡単に命を捨てようとする? あたしがあんたのためにどれだけ骨を折ってやったか知らないわけじゃないだろ?
瞳を潤ませてそう訴える彼女の眼は雪の結晶のようにきれいだった。それもあるいは演技に似た脚色なのかもしれない。
私は彼女の手をそっと振りほどくと首を振ってみせた。ゆっくりと。しかし断固とした調子で。
リシュカの瞳がすっと輝きを喪った。その様は照明のスイッチを切るのに似ていた。誰でも身体の中に幾つものスイッチと切り替えレバーを持っている。特に彼女の体内のスイッチとレバーは常に軽快かつ確実に動作している。特A級の油を差してピカピカに磨かれた工作機械のように。
……あっそ。分かった。旧友はそう呟いた。ま、あんたの人生だ。好きにすればいい。どちらにしろ仕事は仕事。しばらくは一緒に行動することになる。せいぜいよろしく頼むよ。最後の従者さん。
友人はそう云い残して給仕のためにリビングに戻っていった。
喪服のような白黒の服装は今の彼女にはふさわしいものなのだと私にもようやく合点がいった。生来で培われてきた彼女自身の色があまりに強すぎて彩色された服は邪魔なのだ。紅梅色の髪も。矢車草のブルーの瞳も。そしてその才気あふれる性格も。総てが彼女の持って生まれた強烈なカラーなのだ。
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