第19話 引継ぎ
夏の残業って、悪くない。
定時に会社を出ると、街中はまだまだ暑い。クーラーの効いた建物の中で、涼しくなるまでいられるのはありがたい。
「で、毎月半ばにこの書類が届くから、届いたら支出書打って、経理に回してね。経理のハンコ二箇所いるから、付せん付けといてあげて」
「はい、これは三枚綴りで間違いないですか?」
「そうそう、三枚一組だよ。数量の多かった次の月は六枚の時もあるからね。その時も支出は一枚にまとめる。そのあたりのことも、このファイルを見れば分かるはずだから、見ておいて」
高野さんと残って連日仕事の引継ぎ。
あと一ヶ月で高野さんとは部署が離れる。そのニュースは衝撃で、少なくとも総務にとっては大打撃の大衝撃で、米原さんも聞いた瞬間、顔がこわばったほどだった。
でも、俺は早くに言ってもらえたおかげか、どう受け入れて、どう処理するかという落ち着いた気持ちにシフトしている。
高野さんのことが好き…だと思う。そして、その気持ちがどんどん膨らんでいるのに気付いている。だからこそ、距離を置いて…一時的な気持ちだったと思ってしまいたい。
だから、…この異動は寂しいけれど、転機として捉えたい。
「こんな感じですか?」
「ん?ん〜」
渡した書類に目を通す高野さん。切れ長の目が、もう少し細くなる。
「そうだね、OK。これ、コピー取って参考に残しておいて」
「あ、そうですね。そうします」
二人っきり。淡々と仕事の話。
「あ、あとこれ、こっちの緑のファイルに入れておくから。目を通すのは必要な時だけでいいよ」
「はい、ありがとうございます」
引継ぎが少しずつ終わっていく。
高野さんが、時計に目をやった。
「少し自分でやれる?俺ちょっと営業部行ってくるから」
「大丈夫です。いってらっしゃい」
高野さんは営業の仕事の引継ぎも受けなきゃならない。大変そうだ。
走っていく後姿を見送った。
髪、伸びたな…切りに行く暇もないんだろうか。
それに、少し痩せたんじゃないかな。大丈夫かな。倒れたりしないか心配だ。
高野さんが倒れたら、田端さんを恨んじゃいそうだ。
渡された書類の整理をしていたら、人の気配がした。
「あ、高野さん、早かったですね」
てっきり高野さんだと思ってそう言って顔を上げたら、田端さんだった。
「高野くんじゃなくて、ゴメンね」
「あ、田端さん…すみません、間違えました」
素直に謝る。田端さんは目を細めて、いいよいいよと手を振った。
「高野くんは?」
「営業部行きましたけど…」
「あれ?行き違ったのかな?」
そう言いながら、なぜか田端さんはニヤニヤ笑っている。
「何ニヤニヤしてるんですか」
「いや、加藤くんってさ、…高野くんにはそんなにイイ顔で挨拶してるのかな〜って思って」
ドキッ。良い顔してたのかな、俺。
「…良い顔なんて、してませんよ」
一応、反論する。田端さんはニヤニヤしたままだ。
「そう?気のせいかな。それとも俺のヒガミ?」
「ヒガミ…って、なんですか、それ」
「いや、俺にも良い顔で挨拶してもらいたいなって。九州に帰るのは良いけど、加藤くんとメシ行けなくなるのは寂しいって思ってるんだよ」
そんなことを言われても、と顔をしかめた時、高野さんが帰って来た。
「じゃあ会社辞めないで加藤とメシを食い続けてください」
珍しくちょっとトゲのある言い方で田端さんの方へ来る。
「あ、お帰り王子」
田端さんの言い方もちょっとトゲトゲしい。高野さんが片眉を上げた。
「なんですか、それは」
「営業部の女の子が、君のこと影で『王子様』って呼んでるよ。モテるよね…相変わらず」
「そんなの聞いたことないですし、モテてもないです」
外面の良い二人の、結構くだらない言い争いは、傍で見ていて楽しい。
「で、高野くん、引継ぎだけど、資料が全部向こうにあるから、営業部に来てもらっていいかな。何回も往復させて悪いけど」
「いえ、構いませんよ。行きましょうか」
と、高野さんが応じる。…この二人、この雰囲気で引継ぎやってんのか…。ちょっと怖いな、なんてことを考えていると、高野さんが俺に向かって言った。
「じゃあ、こっちは今日はここまでにしようか」
「あ、はい、わかりました」
「ごめんな、中途半端で」
「いえ、また明日お願いします」
高野さんは、自分のデスクを簡単に整えた。
「あ、パソコンの電源とかは俺、切っときますから」
「サンキュー」
高野さんは俺にバイバイ、と手を振った。
「加藤くんゴメンね。高野くん借りるね」
田端さんもそう言って、高野さんの真似をして手を振った。そして付け加えた。
「例の約束、守れよ」
例の…約束?
何?って顔をしたら、田端さんが俺に『あれだよ、あれ』と念を押してきた。
あ!ちゃんと告白しろとかいうやつか?!今そんな話をするなよ!高野さんの前だぞ。
「や、約束なんかしてませんよ!」
俺は思わず叫んだ。高野さんが不審そうな顔をしている。わああああ!さっさと行けっ!タバタッ!
俺は田端さんの背中をぐいぐい押して、部屋から追い出した。
「ははは、じゃあね」
高野さんが首をかしげたまま、田端さんについて出ていった。
急に言われたから、必要以上に焦ってしまった。
あのタイミングで言うなんて、もしかして、田端さんに気付かれた?
いや、田端さんも何度も『彼女』って言ってた。俺が、女子に片思いしていると思い込んでいたはずだ。絶対気付くはずがない。
……。
田端さんは…妙なところ勘が良いから怖いな。
バレていないことを祈りながら、俺は自転車を飛ばして帰った。
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