第18話 お別れ
自転車でゆるい坂を登っていると、目線の先にかげろうが見える。アスファルトの地面からユラユラと何かが立ち上り、歩くサラリーマンたちの足元がかすんで見える。
「サイテーね、その状況!」
涼しげな服装の米原さん。
「女の人の場合、きちんとしていても暑くない仕事の服があって良いですね」
スーツ、暑い。
もちろん上着は着てこないけど。
「朝、来た時に着替えたら?」
「…それも考えなくは無いんですけど、荷物増えるし、面倒で」
「着替えたら結構さっぱりするんだけどな」
「まあ、考えときます。うちで他に着替えてる人見たこと無いし」
「あら、そう?高野くん、一緒に着替えてあげて」
米原さんが、真面目に仕事をしている高野さんにいきなり声をかけた。高野さん、目線はデスク上のPCに置いたまま、声だけで応戦する。
「イヤですよ、朝ロッカールームで二人で着替えてるとか」
「あはは。じゃあ仲間増やして増やして」
「全員着替え始めたら、それも嫌でしょ」
…それは俺もいやだ。
電話での米原さんの泣き声がかわいかったので、顔を見たらドキドキするんじゃないかと思って仕事に来てみたが、意外とそうでもなかった。元々タイプではあるんだけど、それを超えない。
もちろん、米原さんが田端さんを好きだと分かった以上、俺がどう思おうと、どうにもならないのだが…。
それよりも高野さんだ。高野さんを見ると結構ドキドキする。何故だ。
早く、誰か好きになりたい。高野さんじゃない人を。
可能性ゼロの片想い、もう正直しんどい。
だいたい、なんで俺、こんなに高野さんに反応しちゃうんだろう。
骨ばった大きな手がPCのキーボードを叩いていたり、近づくとなんとなくいい匂いがしたり、意外に髪がサラサラしていたり…。
あと、高野さんは疲れて弱ってくると色気が増す。顔色がどんどん白くなって、伏目がちになって、ため息も増えるし。
そうそう、この前うちに泊まった時に、首元を少しはだけて寝ていたので、鎖骨のところにほくろがあるのを見つけた。なんか、目が釘付けになってしまってヤバいなと思った。
でも、右手首の内側にある小さいほくろの方が、妙にエロい。
無意識にすごく観察してしまっている。
大学で三年間で気付かなかったのに、この数か月でどんどん発見する。
…この病から抜け出したい。
帰りにロッカールームで田端さんと出くわした。いきなり聞かれる。
「どう?ちゃんと告白した?」
「いきなり何ですか…田端さんこそどうなんです?」
「俺はしたよ。したから聞いてるんじゃないの」
え?したの?速ッ!
「もう!?」
「できる男はすることが速いのよ」
それは無視。
「で?どうだったんですか?」
俺は期待した。相手が米原さんじゃないかって…。
「ダメでした。断られた。おしまい」
ああ、米原さんじゃなかったのか。米原さんなら、断らないもの。
「飲みに、行きますか?」
失恋した田端さんを励まそうと誘ったが、あっけなく断られた。
「ごめん、ありがとう。まだ仕事残ってて」
それから田端さんは声をひそめて続けた。
「…もうすぐ引退だからね、残務処理があるわけ、たくさん。加藤くんも辞めるときはもっと計画的に辞めないと痛い目みるよ」
「ないない、田端さんのスピード退職は異状事態ですって。俺、まだこの仕事続けます」
俺も、小さい声でそう言った。田端さんは楽しそうな表情になった。
「ま、頑張って。結構悪くないと思うよ。あとさ、俺も言ったんだから、加藤くんも言って、俺に報告しろよ」
「ん?何をですか?」
「告れって言ってるの。彼女にね」
…彼女じゃないから、告白しなくてもいいですか?と思ったけどもちろん言えず、俺は『ははは』と力なく笑った。
「無理ですって」
「ご報告、待ってるから」
「いや、無理です」
「加藤くん、自分を過小評価しすぎだよ。俺が女だったら、加藤くんに迫られたらOKしちゃうな」
田端さんが励ましてくれるけど。…女の人じゃ無いんだってば。
「田端さんにOKされても困るから」
「ははは、そうだけどさ、でもジョークじゃないよ。加藤くん、本当に良いよ。自信持って欲しいな」
田端さんはそう言って、俺の肩をポンポンと叩いた。
「じゃあ、もう仕事戻るよ」
「はい、お疲れ様です」
そんな挨拶をして別れた。なんだかんだいって良い人なんだよね。田端さんって。
米原さんが好きになるのも、わかるよ。超が付く曲者だけど。
ロッカールームを出て、自転車置き場に向かう。
高野さんが立っていた。
「加藤!」
…俺のこと、待ってた?
「どうしたんですか?」
「時間、ある?」
「…ええ、大丈夫ですよ」
今、田端さんに断られたから。
「いつものとこ、行こうか」
「はい」
わざわざ自転車置き場で待ってたのは、二人になるためかな。米原さんが付いてこないように。
並んで歩いている高野さんからは、そんなに深刻な空気を感じない。
でもわざわざどうしたんだろう。
そんな疑問を抱えつつ、いつもの定食屋へ向かった。
小さいテーブルに二人で向かい合わせ。注文して、すぐに俺は確認した。
「どうしました?」
じっと顔を覗き込むと、高野さんは声を潜めた。
「加藤に、先に言っとく。俺、秋に異動する」
「え?」
「営業行けって。昼過ぎに部長に言われた。課長も係長も知ってる」
うそ。
田端さんの辞職に伴う人事異動で、どうやら高野さんが営業にまわることになったらしい。
「そうですか…」
寂しい。でもちょっとホッとしている。
毎日顔を合わせなければ、今よりラクになれるかも知れない。
「俺の仕事、とりあえず半分は加藤に引き継ぐように係長に言われてる。負担が大きくなるけど…頼むな」
「はい、いろいろ教えてください」
複雑な気持ちを振り払う。人生ってなるようにしかならない。
「また引継ぎ書作るから、目を通してもらって、わからないところは聞いてもらえれば」
「了解です」
ふと、視線を落とす。
あの席。俺の隣の。これから誰が座るのだろう。
……。
しばらく無言のままメシを食っていたら、高野さんが、俺の様子を窺いながら言った。
「加藤、寂しい?」
小さな声だった。
ドキッとする。この質問、変な意味じゃないよな。
「な、何言ってるんですか。異動ったって、同じ建物の中でしょ」
慌ててそう答えた。
「そっか、そうだね」
…なんだ、あれは。
どういうこと?
高野さんと別れた後も、その会話を思い出すとドキドキする。男の後輩に、あんなふうに『寂しい?』なんて聞くか?
まさか俺の気持ち、バレてる?それとも、深い意味はなかった?
あああ、やだやだ!
こんなふうに悩むのがイヤでたまらない。
高野さんの異動って、俺には良いことかも知れない。
離れたら、余計なことを考えずに済む。
今みたいに側にいて会話すればするほど、いろいろ悩まなくちゃいけないから。
最近、タイミングの大切さについて考える。高野さんが俺を好きだと言った時と俺が高野さんを意識し出した時期はズレていた。そのズレは決定的なものだ。取り返せない。
…恋愛って、みんなそんなものなのかも。タイミングの合った二人がうまく付き合って、そうじゃないその他大勢がチャンスを逃す。そしてまた別の人と出会う。
別の人を、今俺は待っているところ。休憩中。
高野さんの異動は、俺にとって「彼から離れる時期」を告げているのだと思う。
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