第5話 やはり、人の子

 お昼近くなった。

 体調がいくぶん回復した松ちゃん。

 「おれ、ちょっと用があるから」

 恥ずかしいのか、うつむいたまま、娘の悦

子に小声でそう言うと、表通りにでた。

 左手には、何やら、長い文言が書かれた札

をもっている。

 店先のひさしを見あげるようにしてたたず

んでから、

 「よっこらしょっ」

 と、大声をだした。

 すもうの小むすびくらいに出た腹を、もて

あますようにして、両足でつま先立ちした。

 よろけてころびそうになり、茂夫は屋根の

はりに左手をのばした。

 バキッ。

 何かが折れる、大きな音がした。

 ひさしの梁が腐っていたらしい。

 あわてて悦子がが路地に飛びだして来た。

 「もうごはん出来とるのに、いったいぜん

たい父ちゃんは何してんの」

 と叫んだ。

 「見たらわかるやろ。札を軒さきにかける

んや。ほうら」

 茂夫は地面にすわりこんだまま、札をつか

んだ右手を高くかかげた。

 食事中です。ご用のある方は遠慮なく奥に

声をかけてください。

 と書かれている。

 「な、わかったやろ。こうしといたら、お

客さん、こまらへんやろ」

 「なんやそれ。段ボールやないの。やぼっ

たいな。おおはずかし。お父ちゃんは背が低

いから、かけにくいんや。どれ、わたしにか

してみ、ほうら」

 背の高い悦子は、いとも簡単に札をかける

ことができた。

 ゴムひもで吊るされた札。

 ふいの風にあおられ、くるりとまわる。

 「こんなんじゃ、お客さん。なにが書いた

るかようわからんな」

 悦子があきれた調子で言うと、

 「悦子は、俺よりぐんと背が高いから便利

やな。女の子やったから、ぜったい俺に似と

るて思てたのに、当てはずれや。いったい誰

の血ひいてるんやろ」

 「またよけいなこと言うとる。わたし?わ

たしはなあ、お父ちゃんのお父ちゃんに似た

んや。ほら、目も鼻も口もな。それから頭の

ええとこも」

 と、胸をはった。

 「お前があたまがええ、てか?あほくさ」

 路地を通りぬけて行く、冷たい空気に触れ

たせいだろう。

 茂夫がせき込みはじめた。

 悦子が、茂夫の背中に左手をまわすと、彼

に店内に入るようにうながした。

 父と娘は、床をくりぬいてつくった掘りご

たつに両足をいれ、となりどうしにすわって

いる。

 こたつ板の上には、すでに食事の用意がで

きあがっている。

 足もとの灰の中には、いくつかの豆炭が赤

々と燃えている。

 茂夫はいきなり立ち上がると、通路に出た。

 「まったく食事やいうのに。お父ちゃんは

どこへ行くの」

 「ちょっと、な。口がかわいたんや」

 しばらくして、茂夫は一升びんと湯呑をひ

とつ持って来た。

 手酌で、ちびちびやりはじめた。

 「ええのかな。まだお昼やいうのにな。客

が来たら、どないすんのやろ」

 「あっ、せやった。あかんあかん。どない

しょう」

 「心配せんでもええよ。わたしがいるから。

夜までひま、つくれるから」

 疲れがいちどに出たのだろうか。

 酒のまわりが早く、茂夫はごはんやおかず

には手をつけず、ごろりと横になった。

 「お父ちゃん」

 「ううん、なんや。急にちっちゃい声になっ

て。高いもんねだっても、何にもでえへんで」

 「そんなん知ってる」

 「ほんだらなんや。えつこの言うこっちゃ、

なんでも言うこと聞いたる」

 「ほんまか」

 「ああ」

 こんな時は、茂夫はもう少しで寝入ってし

まうのである。

 悦子は茂夫の左ほほをかるくつねった。

 「おおいて。このあほたれなにすんねん」

 「お父ちゃん。どやろ、わたしらといっし

ょに住まへんか」

 茂夫は目をつむったまま、だまっている。

 「まったく。都合がわるなると、口きかへ

んようになってしまうんやから」

 何を思ったか、悦子は立ち上がると、隣の

部屋へといそいだ。

 かけぶとんが子どもの鼻をおおっている。

 悦子は青ざめた。

 (女の子やし、おとなしいと思って油断して

たらこんなこっちゃ。気いつけんと)

 悦子は急いでかけぶとんをずらした。

 娘が息をしているかどうか。

 おそるおそる、小さな顔に、自分の鼻先を

近づけた。

 「そんなもんでわかるか。どれお父ちゃん

に代わって」

 悦子の背後にいた、酒くさい茂夫が、孫娘

の顔に近づける。

 彼女の呼吸を確かめたのだろう。

 彼は紅くなった顔をあげ、嬉しげにうんう

ん首を振った。

 

 

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る