第4話 がんこ

 松ちゃんには嫁に行った娘がひとりいる。

 なんぼ自分の子でも、もうよその人になっ

たんやからと、体調がわるくなったことを知

らせないでいた。

 彼女が住んでいるのは、歩いても半時間も

かからない隣町。 

 口コミで彼女の耳にとどくのに、それほど

時間がかからなかった。

 師走のある日のこと。

 娘の大西悦子は生後一年半の長女を背負い、

いきなり父の店を訪ねた。

 「おっちゃん、かつぶし、なんぼかちょう

だいな」

 店先にたたずみ、いつもより少しかん高い

声で茂夫に声をかけた。

 「へいへい、まいどおおきに」

 茂夫は、娘が声をかけたと思わなかったよ

うで、店の奥のほうに向きなおり、問屋から

とどいたばかりの段ボールの箱を開けようと、

貼りテープをはがしはじめた。

 「はよしてんか、おっちゃん。あたしいそ

がしいねん。なんやこの店、すぐにお客の言

うこと、聞けへんのかいな」

 「えらいすんまへん。なにね、だしじゃこ

だけ店にならんでないんです。これだけなら

べさしてもろてから」

 悦子は黙った。

 丸まった茂夫の背中をじっと見つめた。

 「ほんまにこの店、しゃあないな。もうお

しまいや。客にこんな仕打ちをしてたら」

 これほど言われても、茂夫は娘だと気づか

ない。

 しわの増えた顔に、ほほ笑みを浮かべたま

ま、公園の鹿のようになんども頭を下げる。

 悦子はむやみに悲しくなり、手下げのバッ

グから白いハンカチをとりだすと、目に当て

た。

 ようやく、茂夫がふりむく素振りを見せる

と、そそくさとハンカチをしまった。

 「なんやぼけてしもたんか、お客さんの顔

が浮かんできいしまへんでしたんで。えらい

すん」

 ここで彼は、やっと顔をあげた。

 「あれっ?なんや」

 声のぬしが娘だとわかって、彼は左手で拳

固をつくった。

 「このあほ、親のこと、ばかにしくさって

このう」

 と、紅い顔で怒鳴った。

 とたんにマスクで隠した口から、ごほごほ

とせきが出た。

 「やっとわかったん。客がうちやいうこと

が。ほんまもうろくしたもんや。お父ちゃん

まだ完全に治らんのにむりしてやってるんや」

 「ほっといてくれ。そんなになるの待って

たら、お客はん来やへんようになってしまい

よるわい。このあほたれが」

 茂夫の喉の炎症が再びぶりかえした。

 しゃべればしゃべるほどせきが出てしまう。

 茂夫の大声にびっくりしたのか、背中の赤

子がむずかり始めた。

 「おおよしよし、おどかしてすまんな。あ

んたはお母ちゃんとちがうわな。じいちゃん

の味方やろ」

 「ちゃうって言うてるで。まりこは、な」

 「うるさいわ。孫までわれの味方に引き入

れよって。なにしに来たんや。大した用事が

なかったら、もう帰れ。商売のじゃまや」

 「ああそうなんや。人の言うことを聞かん

のはいつ来ても変わらん。あほな父ちゃんや」

 客がひとり、路地からそれると、早足でふ

たりの間にわりこんできた。

 悦子はそれに気づき、すばやく店の奥から

座敷にあがりこんだ。

 「松っちゃん、あの女の人、どなたですの。

ひょっとしたら娘さんですか」

 常連客の山本さんだった。

 彼女は茂夫に近寄り、声をひそめて言った。

 「さあどなたはんでっしゃろ。かわやを使

いたいて言わはるから、ちょっと貸したった

だけでおます」

 「そんなこと言ってらっしゃったかな。あ

の人、松ちゃんのことお父ちゃんて言ってらっ

しゃったように聞こえましたけど」

 「ちゃう。ちゃいますねん。あんたの空耳

と違いますか。わしにはあんな娘、いやしま

へん」

 「そうですかね。顔つきがどことなく、松

ちゃんに似てるんですけど」

 背中の赤子が眠ったのだろう。

 悦子は身軽になって、店の奥からでてきた。

 茂夫のせきが、再びひどくなった。

 「山本はん、えらいすんまへん」

 そう言うのが、やっと。

 こらえきれずに、茂夫は店の通路にうずく

まってしまった。

 「さあ、父ちゃん。ここはあたしにまかせ

て。風邪がお客さんにうつってしもたら大変

やろ」

 悦子は茂夫をだきおこすと、彼の背中を右

手でさすりながら、店の奥へと消えた。

 しばらくして店に現われた悦子。

 さっきの客がいまだに店内にいるのに気づ

くと、

 「いつも父をひいきにしてくださり、まこ

とにありがとうございます。松本の娘悦子で

ございます」

 と言い、ていねいにこうべを垂れた。

 

 


 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る