第3話 うでどけい

 幸いにも手当てが早く、松ちゃんの体調は

一週間ほどで、また働けるほどに回復した。

 横たわっている時間が長かったせいか、歩

くのにもふわふわ、まるで雲の上にいるよう

である。

 それでもなんとか両脚をふんばり、店の通

路のはき掃除をはじめた。

 「なんや松っちゃん、もう仕事やってるん

や。大丈夫なんかほんまに」

 鈴木つやが、かがみこんでいる彼の背中を

ゆっくりさすりながら言う。

 茂夫はぎょっとした。

 大人になってから、つやが自分のからだに

触れたのは、これが初めてである。

 いっしょに花を摘んだり、虫取りに興じた

幼い頃は手をつないだことはあった。

 感動めいたものが、心の奥底からわいてく

るのに気づき、茂夫はぼんやりしてしまった。

 「ああ、ああ。つやさん、あんたの手、ほ

んまあったかいな。今回は助けてもろたしな。

おおきにありがとさん」

 すっと背筋を伸ばしながら、茂夫は言った。

 心の底からでた言葉だった。

 「なんや他人行儀やなあ。昔からの知り合

いやろ。みずくさいなあ」

 思わず、茂夫は、あははと笑った。

 笑うことで、まじめ一方になりそうな自分

を茶化したかった。

 小春日和である。

 暖かい陽射しが彼女の右手にあたり、何か

をきらりと輝かせた。

 「うんっなんやそれ?えらいぴかぴか光っ

とる。うれしそうな顔してなんぞええことあっ

たんやろ?」

 「これ、わからへんか?」

 つやは腕時計をはめた左腕を、茂夫の顔の

前に近づけた。

 「ふうん、オメガか。こりゃ値がうんとはっ

たやろ。あんたの旦那はん、さすがに目のつ

けどころがちがう。ええもんこうてくれはん

ねんな」

 「うちの旦那が?あほくさ。あのけちんぼ

がそんなことするわけないやろ。これ見てな

にも思いださへんの。このおんたんちん」

 「おんたんちんやて?えらい言われようや

な。知らんもんは知らん」

 「ああそうか。そんならそんでええわ」

 茂夫はつやに背を向けると、またはき掃除

をはじめた。

 心臓の鼓動が高まる。

 (まったくきょうのつやはどうしたというの

だろう。昔の贈りものまで持ち出しやがって

さ。俺をからかって喜んでいるとしか思えな

い)

 つやに動揺している顔を見られたくない。

 茂夫は箒と塵取りをかたづけると、店の奥

へと姿を消した。

 五分くらいして、茂夫はまた店にもどった。

 つやは待っていたようで、たたずんだまま、

茂夫の目をまっ正面から見つめた。

 思わず、茂夫はうつむいた。

 「あれから何十年も、箪笥の奥にねむっとっ

たんやで、この腕時計。役にたたんとな。今

ごろになってはめてもろて。なんやかわいそ

うや」

 つやの最後の言葉が、茂夫の胸にぐさりと

突き刺さった。

 その腕時計はつやによって捨てられたはず

だった。

 なぜか今でもわからないが、茂夫の求婚を

彼女が断ったのだ。

 「あほなことばっかり言うてんと、もう自

分のうちへ帰ったらどうや。旦さんひとりで

こまっとるのと違うか」

 「だいじょうぶや。あの人、めったなこと

でこまらへん。落ちついとるから」

 「ええおひと、もらわはって。良かったや

ないか。県庁の役人にならはるくらいの人は

ちがうわな。世の中にはかっこばかりつけて、

ろくでもないのがぎょうさんおる」

 「あんたもそのひとりやったんか」

 「ああ、そうかもしれんな。さあ俺もいそ

がしなるしな。もう帰ってくれ」

 茂夫は、表情に、にせの怒りをふくませて

みせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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