第2話 やまい

 めずらしく、松ちゃんが仕事を休んだ。

 どこがどうってことはないが、なんとなく

体がだるい。

 やる気がでてくるまで、店の奥の部屋で横

になっていることにした。

 還暦にはまだだいぶ間がある。

 それほど年老いているわけではない。

 しかし、若い頃戦争があり、従軍したせい

で、それ相応に体にガタがきているのだろう。

 開店時刻は午前八時。

 臨時休業の貼り紙を雨戸にはってある。

 畳の上に敷いたふとんの上に仕事着のまま

横たわり、体には毛布をかけた。

 七時半を過ぎた頃からずっと、柱時計とに

らめっこの状態。

 長年の習性がそうさせるのだが、今ひとつ

仕事にとりかかろうとしないのはやはり、身

体のどこかおかしいと感じるからだろう。

 ボンボンと八時を打つほんの少し前にはも

う、店前が騒がしくなった。

 (ちぃ、わるいことしてしもたな。やっぱり

ちょっとばかりむりしても開けたらよかった

んや)

 よしそれならちょっとはむりしてもと、上

半身を両腕でささえ、起き上がろうとしたが

目がまわってしまった。

 「こんなことが戦場で起きたら、万事休す

やで。敵にうたれるだけや」

 茂夫は悔しげに唇をかんだ。

 通りのざわめきが普段より大きく聞こえて

しまう。

 えらいすんまへん、はよ治しますよってに

と、胸の前で両手をあわせた。

 ふいに下駄の音がした。

 家の中の通路をだれかがかけてくる。

 裏の勝手口はいつも鍵がかかっていない。

 洗濯ものが雨で濡れているときなど、近所

の人がかけつけてくれたりする。

 経済的な豊かさが実感できない時代。

 貧しい暮らしを互いの助け合いのこころで

支えあった。

 茂夫は耳をかたむけた。

 足音だけで、それがだれか、知ることがで

きた。

 「なんや松ちゃん。どうしたんや。店の前

でお客はんがえらいさわいどるで」

 枕もとのガラス障子があき、思ったとおり

鈴木つやが顔をだした。

 茂夫はまともに応えたい。

 しかしちょっと首をうごかすだけでも、目

がまわる。

 ううっ、とだけ言った。

 それがうめき声に聞こえたのだろう。

 つやはガラス戸をがらりとあけ、部屋に入

りこんだ。

 「ちょいかんにんやで」

 と言い、彼のひたいに唇をおしつけた。

 しばらくして彼女はなんでもなさそな顔を

あげたが、心は乱れていた。

 「まあ大した熱はないけどな。お医者さん

に来てもらお。用心のためや」

 「そんならええ。寝てたらなおる」

 いくら言っても、茂夫はがんこで、簡単に

言うことをきいてくれないことを、つやは知

っている。

 帰宅してから、お医者さまに往診を頼むこ

とにして、その場は早々と立ち去った。

 茂夫の熱はあがる一方だ。

 おぼろな目で、鴨居にかけた妻よし子の遺

影をながめた。

 彼女との楽しい日々が思いだされ、知らず

知らず涙がほほをつたった。

 どのくらい時間が経ったろう。

 枕もとが騒がしい。

 誰かが行き来している。

 不審に思って、茂夫が視線をむけても、顔

がよく見えない。

 黒い影が動きまわっているとしか認識でき

なかった。

 そのうち、水音が遠くから聞こえた。

 突然、ひたいに冷たいものが置かれた気が

して茂夫は驚いた。

 夢でもいい、誰かが看病してくれていると

思うと、嬉しい気持ちになった。

 カッカカッカ、コツコツ。

 勢いこむ下駄の音も、革靴の音もすべて夢

のなかの出来事だろう。

 茂夫はそう判断した。

 「松ちゃん、良かったな。先生が来てくれ

はったで」

 ガラス障子がそろりとあいて、つやが再び

顔を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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