十二の斬/9:359
移動には二日間の時がかかる。
その短いとも言えるが長いと言える時間の中、二人は一切黙っていたというわけではない。やはり幾つかは話をすることになる。その中でも一日の経過した後の朝。夕方以降はバイクでは移動できないためユキとエルリックは夕方頃に到着した街の宿に泊まった。
どうやらかなり小さい街らしく、先日泊まった場所と比べても人はかなり少なかった。田舎というやつなのだろう。全体的に見てもこの街はかなり小さいほうらしく、向かっている街はもう少し大きいとエルリックは言った。行った事があるのかと聞いたらそんな事はないと。ただ、地図である程度の街の大きさは分かるらしく、ついでにユキの知らない所でそういった情報は確保していたため、どの街はどの程度かという事は大体分かっているとか。流石、二年近く一人で旅をしてきただけの事はある。
そんなエルリックの説明をベッドの上で膝を抱えて座りながら聞いていたユキは若干眠そうだった。この前買った部屋着を着て眠そうに舟を漕ぐ彼女を見てエルリックは隣のベッドで呆れ交じりの溜め息を吐いた。どうやら彼女にとってほぼ一日中バイクの後ろに座るという物は中々に疲れる物だったらしく、いつもあれだけ人外的な動きをしているのに、こういった所はまだ年頃の少女らしいのは何だか笑いを誘った。
「眠いか?」
「……ん」
その一言は、質問への肯定だろう。目を手の甲で擦りながら、本当に小さく口から洩れた彼女の言葉は、どれだけ必死に眠気に抗っているのかがすぐに分かった。
何だか子供を見ているみたいだと。自分と彼女の身長が頭一個分離れているのをいい事に、彼女に聞かれたら怒られそうなことを思いながらも、そっと彼女の傍に近寄って体をそっと押してベッドの上に横たわらせた。
「寝とけ。起きてる理由なんてないからな」
「……んぅ」
ちゃんと喋れよ、なんて小さく笑いながら呟けば、彼女の瞼はちょっとずつ降り始めてきた。
表情といい、ベッドに入ったらすぐに眠る所といい、男に対して性的な危機感を全く覚えていない辺り、どこか子供っぽいんだよなぁ。なんて考え、同時に女の子の寝顔を眺めるのも悪趣味だろうと、怠そうに髪の毛を掻き毟りながらベッドの上に置いておいた地図を手に取って明日のルートを決める。
明日のこの時間には目的の街の宿には着いている予定だ。じゃなかったら確実に野宿となる。
地図を見て明日通る道と寄り道する街等に印を付け、覚え、距離を計算してから、一、二時間位の余裕をもって街に辿り着けるという結論に至った。それに、移動中には川もあるので、ユキが行きたいのなら行ってみて釣りだったり水浴びだったりと言った物をしてみるのもいいかもしれない。
と、そこまで考えた所で、もうここら辺で寝よう。そう思い地図を片付けてベッドに体を潜り込ませる。
「……ねぇ、エルリック」
もうこのまま眠ってしまおう。瞼を閉じてそのまま眠りに入ろうとしたときだった。ユキの少し気怠い雰囲気を纏わせた声を聞いたのは。
お前まだ寝てなかったのか。そう言おうとしたが、そこまでの言葉を口にするのは少しだけ怠かった。ユキも半分寝ているのだろうし、このまま無視しておけば彼女もそのまま寝てしまうだろうと。そう思ったが、このまま無視するのは少し彼女に悪いような気がして。
明日、起きたら文句を言われそうでもあったので、適当に返事して適当に会話を終わらせて適当に寝ようと。それを実行するために口を開いた。
「なんだ」
ぶっきらぼうにも聞こえるその言葉を聞いたユキはどう思ったのか。
少なくとも感じが悪いとは思っていないだろう。それを確信にするような声色で彼女はエルリックの返事に対して、口を開く。
「……オレ、寝るのが怖い」
そんな彼女の言葉を聞いたのは初めてだった。
寝るのが怖い。その意味が分からない。
かつてエルリックにも寝るのが怖いと思ったときはあった。しかし、それは孤児院の先生からちょっとだけ怖い話を聞いたとき。それも、まだ物心がついてすぐの頃だった。それから一か月も経てばそんな事を思うこともなかったし、普通に寝ることができた。
しかし、こんな歳でそんな言葉が出てくるのは少しだけ意外だった。
やはり子供っぽい。そう思いエルリックは目を閉じながら口を開く。
「怖い夢でも見たか?」
まるで子供に聞くかのような声色で。普段なら子ども扱いしてるの? とちょっと怖いくらいの笑顔でこっちを見てくるんじゃないか、とも予想できたが、しかし今日はそんな怖いくらいの笑顔が発する視線を感じることはない。どうして? 何故? いや、なんで彼女はここで黙る?
思わず片目を開けて体を動かし、ユキの方を見た。
彼女の表情は、この間。彼女と手合わせの日課を作ることとなったあの日の朝に浮かべていたのと殆ど同じと言える、かなり暗い表情だった。それを見て、エルリックは、頭の中に浮かんでいた彼女を茶化すような言葉の数々を頭の中から一旦排除した。この言葉は、彼女の今の表情には相応しくない。そう思い。
「……夢、なのかな。でも、怖いの」
衣擦れの音がする。自分の部屋着の裾をキツく握ったのか。それともベッドのシーツか、それともかけ布団のカバーか。片目を開けても既に夜の闇に包まれた室内では視界を確保することは難しく、彼女の手が何を掴んだのかはハッキリと分からなかった。
だが、確実に言えることは一つだけある。
それは、彼女が何かに怯え、怖がっている。それは演技ではなく、心の底から湧き出してくる感情故だという事。これは、彼女が目覚めてから抱えていたかもしれない問題だという事。
「……いつもね、寝ると炎を見るの」
炎。
人間のような知的生命体しか使うことがない、原初の文明の利器とも言える現象。光景。力。
それを見る。夢の中で。
火と言わない。それはつまり、火という単語ではとても足りないような、大きな炎を見るのだろう。寝るたびに、毎回毎回。
「その炎がね、オレの記憶を燃やしてくるの。覚えていたことを。ここに来る前の事を。オレがオレであるための、思い出も、記憶も、全部、全部……何もかも、燃やしてくる」
その次に聞こえてきた音は、果たして。
きっと彼女が自分の体を抱え込んだ音だと。なんとなく思ったが、違うかもしれない。
しかし、そうしたのではないかと思うくらいには、彼女の言葉からは恐怖がにじみ出ていた。
きっと、それが彼女が起きてすぐに剣を振るう理由なのだろう。そうしないと、その恐怖に負けてしまいそうになるから。負けてしまうから、剣を振って忘れようとする。
習慣か何かかと思っていたが、違った。
彼女は忘れたかったのだ。自分の過去を。現在を構成する過去を。現在の自分が自分であるために必要な要素を燃やす炎という物を。
「だから、怖い……! 寝るのが……明日になるのが……! それが、オレの全部を燃やして、オレじゃなくなることが……」
エルリックはそっとベッドから降りた。
きっと、彼女はこのまま話していたら負けてしまう。そう思い。
例え外側が強くても、中身は、人間だ。自分と歳も大差ないであろう。少女に限りなく近い少年の。壊れやすい心を持っている。だから、それを支えなくちゃ。彼女は、内側から壊れてしまう。
「オレの全部が消えて! オレが誰かも分からなくなって、オレが全部消えて行って
「落ち着け、馬鹿」
錯乱したように叫び出すユキに対してエルリックが取った行動は、彼女の頭にそっと手を置き、少し乱暴に撫でることだった。
まさか彼がこんな事をしてくるとは思っていなかったのか目を丸くして驚くユキ。そんな彼女を見て、らしくない。キャラじゃないとも思いながら、涙を流している彼女の顔は、暗い中でも薄く見え、それが少し綺麗だと。思わずそう思ってしまった。
涙は女の何とやら。その意味がなんとなくだが分かった気がした。
「……まぁ、お前のあの辛気臭い顔の理由は分かった。俺が何言っても気休めにもならないかもしれないが……辛かったな」
別に俺には関係ない。
俺じゃお前の悩みを解決することはできない。
そうやって彼女を突き放す事はできた。できたが、しなかった。
自分の中の偽善的な考えが、彼女の言葉を突き放す事を許さなかった。偽善的でも、独善的でも。何でもいいから彼女の言葉に対して答えを口にし、慰めてやれと。エルリックの中の人間がそう告げ、体を無理矢理に動かした。
「確かに、自分が自分じゃなくなるのは辛いよな。俺も、明日になって自分の全部が分からなくなったら、相当困惑すると思う」
過去、というのは現在、未来に繋がるもの。いや、構成するのに必要なものだ。
エルリックなら、エルリックという一人の青年が現在に存在するために。そして、未来でもエルリックとして居るために必要なものこそが過去なのだ。
ユキは、それが無くなろうとしている。
忘却し、破却に記憶を無慈悲に焼かれ、そしてユキを構成する全てが消えてなくなっていってしまう。
それが怖くないわけがない。
彼女は、よく耐えた方だ。
だが、それの解決方法なんて知らない。あるわけがない。だから、気休めの言葉しか、彼女にはかけられない。
「……まぁ、俺をどうこうして気が済むならそうしてくれ。いや、そうしろ。それをどうにかする事は出来ないけど、お前を慰めてやる事なら出来るからさ」
彼女の頭を撫でながら言う。
それが、エルリックにできる彼女に対する精一杯の優しさだった。
ユキの表情は見えない。自分の手で隠れるようになってしまっているから、どんな表情をしているのかは見えない。しかし、この慰めは彼女の機嫌を損ねた、という訳ではないのだろう。
「……ねぇ、エルリック。ちょっとオレのベッドに入ってくれないかな?」
「え?」
「早く」
「いや、でも……」
つまり、同衾しろという事だろうか。
若干顔に熱が籠っていくのを感じ、それはマズいと言おうとしたが、その前にユキが行動する。
「もう、じれったいなぁ」
そんな、苦笑交じりの声と共にエルリックの体がかなりの力強さを持ってベッドの中に引きずり込まれる。慌てながらその力に抗おうとするが、しかし。どうしてかユキの腕力は想定以上であり、エルリックの抵抗もむなしく彼の体はアッサリとユキのベッドへと引き込まれた。
「お、おまっ!?」
彼の驚いたような慌てたような。そんな声が静かな部屋に響いたが、それに続く言葉は出てくることはなかった。
ユキがエルリックの胸元に顔を埋め、そのまま黙り込んだから。そして、エルリックが自分の胸元がどこか湿っていると分かったから。
不安だった。怖かった。消えたくなかった。だから、人の温もりでそれを騙そうとした。エルリックの温もりがそのために必要だった。だから彼女はエルリックを半ば強引に引きずり込んだ。
きっと、エルリックの抵抗が叶い、彼が自分のベッドに戻ったとしても彼女はエルリックのベッドに自分から潜り込んだだろう。小さく震える彼女をなるべく優しく抱きしめながらエルリックはそう思う。
普段はあんなに強かった彼女が、今は弱弱しく見えてしまう。二つの剣を巧みに使い一切の敵を両断する彼女が、今はただの、外見相応の少女にしか見えない。普段の強い彼女に見えるわけがなかった。
手足も、握って少し力を入れてしまえば折れてしまいそうで。指が絡むことなく通る彼女の長い白い髪も、どこか何時もよりも繊細に感じて。傷が一切ない彼女の肌はまるで芸術品のようで。それに自分が触ってしまっていいのかと思いもしたが、そうしないと彼女はきっと独りよがりで自分を騙すことになると考えずとも分かってしまったから、まるで父親が娘にやるように、彼女を抱きしめそっと頭を撫でる。
「ねぇ、エルリック」
小さな嗚咽を隠そうともせず、彼女はエルリックの胸元に顔を押し付けながら呟いた。
「なんだ」
それを無視する理由はない。道理もない。故に小さく返事を返す。
「もし、オレがちょっとずつ変わっていっても……何時も通りに接してね」
「……会って一週間も経ってない男で良ければ、何時だって何時も通りに接してやるよ」
「……ん。ありがと」
そうして暫くして眠りに着いたのか、ユキの吐息は一定の間隔を刻むようになり、動かなくなった。
ちょっとずつ変わっていっても。その言葉の意味が、エルリックにはどうしようもなく怖いもののように思えた。
だけど、きっと彼女はその言葉を口にしたとき、怖く思ってはいなかったのだろう。
覚えていてくれる人がいる。ユキという少女を、最初から最後まで知ってくれている人がいる。だから、彼ならどれだけ自分の過去が消えても、新たな過去となって未来へと引っ張っていってくれると。そう思い、その言葉を託したのだろう。
ずっと居てくれ。ずっと、一緒に。ずっと、自分の過去となって。例え、全ての記憶が消え去ったとしても、記憶として、ずっと隣に。
その言葉は呪いのようにも聞こえた。
彼女は、ずっと彼から離れられない。離れれば、自分を見失い自己の確立すらできなくなるかも知れない。
だから。だから、ずっと一緒に。
「……なんでだろうな。俺はお前を手放したくないよ」
もしも。そう思い、エルリックはそっと彼女の双剣、ストームブリンガーに目を向けた。
もしも、彼女が何かを思い出すことがあったのなら。
それは、もしかしたら自分から彼女は離れて行ってしまうのかもしれない。
「……なんでだろうな。こんならしくない事を思っちまうのは。ほんと、らしくない」
そう呟きエルリックはそっと目を閉じた。
次の日、きっとユキはいつも通りなのだろうと。どうせ、彼女はなんやかんやで今日と変わらないのだろうと。そう思い。
溶けゆく雪となって 黄金馬鹿 @kntyk1021
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