八の斬/9:364

 ギルドの中は喧騒に包まれており、建物の中では大声で喋らないと互いの意思疎通が出来ないかもしれない位には人の声が大きかった。思わず顔を顰めて耳を抑えるユキだったが、対してエルリックは平気な顔をしている。どうやらもう慣れているらしくかなり涼しい顔をしている。

 しかし、とユキは辺りを見渡し思う。ギルドの中にいるのは殆どが男性で女性はあまり見ない。そして時々見る女性というのもユキのような少女ではなくマッシブで筋骨隆々のインストラクターか何かかと勘違いするレベルの、ゴリラと言ったら十人中九人が同意するような女性ばかりだった。そんな中で小さな少女がポツンと。中々に浮いている。現に何人かの視線が既にユキに突き刺さっている。エルリックについてきただけならまだしも、それが双剣を吊るしているのだから更に視線を集めてしまう。


「うぅ……結構見られてる……」

「そりゃお前みたいなのは珍しいからな」


 どうやら声の方は普通にしゃべっても辛うじて聞こえるくらいらしい。ユキの呟きも拾われたし、ユキもエルリックの言葉は普通に拾うことができた。

 エルリックの言葉を聞いてユキは全面的に同意した。自分のような小さくて細い小娘が剣を振って化け物共を倒すなんて普通に考えれば無理だ。仮に一回まぐれで倒せたとしてもすぐに死んでしまうだろう。それに、剣だって軽くはないのだ。この双剣はかなり軽く出来ており、ユキならギリギリで落とすことなく振るえるが、普通の双剣なら恐らくマトモに戦うこともできないだろう。

 だとしたら、その程度の細い少女が剣を吊るして入ってくるなんて物珍しいにも程があって注目を集めてしまうだろう。時々見つける小さな子供も、武器の類は持っておらず、完全に暇だからついてきた。飯を食べに来たという感じだ。

 視線が刺さるという感覚を初めて体験しながらもエルリックとユキは窓口へ。


「ここに来るまでに狩った魔物の分の報酬を貰いたい」

「はい、かしこまりました。ではチェッカーの方を」


 そう言われエルリックは予め財布の中から出しておいたチェッカーと呼ばれるカードを取り出す。このカードは魔物や魔獣が死んだ際に放出する魔素を少しだけ吸収し記録するカードだ。どういう原理でそういう事が出来ているのかは一切合切分からないが。そしてよく分かっていないユキは小首を傾げている。


「ゴブリンを四匹ですね。では、こちらが報酬です」

「あざっす」


 受け取った金は、大体夕食一食分だ。ゴブリンは数も多くそこら中に居る上に狩るのも容易なのであまり報酬は高くない。流石に四体以上に囲まれるとどんな人も苦戦するし、エルリックに至っては多分嬲り殺されるが、それでもこの値段だということは既に決められているので文句は言えない。


「あと、こいつ、初めてなんだけど、登録と一緒に俺のペアとして登録してくれないか?」

「え? そちらの……女の子ですか?」

「あぁ。あまり深く聞かずにやってほしい」


 やはりこんな少女が来るのは珍しい。というかまず無いのかかなり怪訝な目をしていたが、その後もエルリックのごり押しによって何とかなった。ちなみに登録は名前と歳を紙に書くだけだった。写真を撮るのかとも思ったが、どうやら写真は特に撮らずに終わるらしい。

 簡単だなぁ、と思いながらもとっとと書いてとっとと会員証を作ってもらってついでにペア登録もしてもらい、チェッカーも貰った。入会料も取られたがエルリックが出してくれた。本当にエルリックには頭が上がらない。

 そうして面倒な事も終わったので二人は酒場の方で食事をとることに。


「あー……やっと飯だ……」

「そういえばオレ、目が覚めてから何も食ってなかったっけ……おなか減った……」

「っていうか、お前は何十年、何百年かは何も食ってねぇよ」

「そりゃお腹も減るよ~」

「だろうな。俺なら一か月の時点で餓死してる」


 時々、ユキが狩り帰りらしい男に絡まれ、しかし頑張れと激励されながら頼んだ食事は届き、そうして夜は更けていく。



****



 ――自分の名前は何だっけ。そう考えると夢の中だからかすぐに見つかった。名前は、■■■■■■。それと、家族と友達の名前は果たしてなんだっけ。思い出せない。

 消えていく。思い出が、記憶が、全てが。夢の中でかつての自分の続きを見ることなく、ただただ焼却されていく思い出を眺めていくだけ。その時までは覚えていたものも、燃えていくと同時に忘れてしまう。友の名前も、家族の名前も、住んでいた場所も、昨日まで何していたかも。何もかもが消えていく。しかしそれにあらがうことなど不可能で、消えていく物をただただ眺めていくだけ。

 消えていく。忘れていく。そうして思う。

 自分は、誰だっけ。

 こんな、夢のように記憶が消えていくような人間って、一体どんな人間だっけ。

 オレは、本当に昨日まで生きていたんだっけ――


「はっ!!?」


 目が覚めた。

 まだ時刻は深夜ともいえる時間であり、まだ陽は上っていない。ベッドから上半身を起こして寝汗で額に張り付いた前髪を払う。そして、自分にベッドを譲ったが故に床で雑魚寝しているエルリックへ視線を向け、同時に先ほどまでの夢はかなりの悪夢だったと思い出す。

 まるで自分が自分じゃないような。いや、それこそ自分の全てが否定されるような。そんな夢だった。だが、それは飽くまでも夢だ。だから、現実になるわけがない。そう思い、ユキは自分の過去を、昨日まで思い出せていた事を思い出す。

 思い出す、のだが。


「……オレって、どこにいたんだっけ……どんな場所にいたんだっけ……」


 口にして分かった。

 忘れている。自分の過去を。昨日までは思い出せていた土地も、建物も、そして友の顔も。大体半分程が記憶から消えていたのだ。いや、消えている訳ではないが、思い出しにくい。思い出そうとすると霧がかかり全部を思い出せない。そんな感じで自分の記憶を思い出せないのだ。

 それはまるで、アイデンティティの喪失。ユキという人間を構成している要素が喪失している。そうとすら思えてしまう。そして、そんな現象をその身で受けて平気かと言われれば、否。

 ユキは荒い息を吐きながら震える手で自分の顔を抑える。


「……このまま、全部忘れちゃうのかな」


 まだ一日だけだ。一日だけだが、半分近くを忘れてしまった。

 もし明日も、そして明後日も忘れて行ってしまうのなら。それは、ユキという人間が消えて行ってしまうのと同じなんじゃないか。それを考えた瞬間、背筋が凍るような錯覚が走った。


「嫌だ」


 そこからは半分無意識だった。自分の服に身を包んで剣を両手に外へと走り出した。宿の従業員の人とすれ違い、しかしそれを無視して宿の裏へと出たユキは息を荒くしたまま剣を抜き、鞘を投げ捨てる。

 そして始めるのは、剣舞。いや、始まると言ったほうがいいだろうか。剣を握り、振ろうと思った時には既に体が自然と動いてしまっていたから。

 戦うための舞ではなく、魅せるための舞。実戦への応用も出来ないことはないが、それでも戦うよりは魅せる事に重点を置いた舞はユキ自身の長い白髪と服が相まって一つ一つの動きをまるで幻想的なまでの光景に昇華させる。しかし、それでも彼女の顔は暗いままだった。

 幻想的な舞で魅せる一方、彼女の心の中は徐々に黒くなっていくばかり。その理由は、今自分が魅せている舞だった。


――どうしてオレはこんな剣舞を知っているの――


 汗が散り、剣が風を斬る。

 ここまで完璧ともいえる剣舞を舞える理由を、彼女は知らない。覚えていないのだから当たり前だが、しかし覚えていないのにも関わらずここまで舞えてしまうのは最早恐怖だった。

 まるでこの剣を握り舞っている間だけは自分じゃない他の誰かが自分に乗り移っているようで。だけど、これが一番心を落ち着かせるのだと『知っている』ばかりに止めることなんて出来ない。


「違う……ッ!」


 いや、違う。

 知らない。そんなの知らない。剣を握って振ることが自分の精神の安定に繋がるなんて事、知らないし覚えていない。だからこんな事しなくても自分だけの心の落ち着かせ方を見つけなければならないのに。

 剣を握ったことなんて今までで無かった筈なのに、剣の握り方も、振り方も、心の落ち着かせ方も、舞い方も。全部全部、剣を握って立つだけで無意識に出来てしまうなんて異常なはずなのに。それを受け入れようとしてしまっている自分がいる。


「オレは……」


 そして舞は乱れていく。

 しかしその剣筋はすぐに相手を殺すための。実戦的な仮想敵を脳内で作り出しての戦闘となる。

 全ての攻撃を読んで、そして切り結び、確殺のための工程を頭の中で作り出し相手の首を一閃で落とす。

 だが、これはユキの記憶ではない。ユキの技術ではない。何かわからない正体不明の我流の戦い方だ。それを出来てしまう自分は。それが分かってしまう自分は。


「一体誰なの……?」


 涙を流しながら呟いた言葉は虚空へと消えていく。

 自分の記憶が消えていく。代わりに誰か分からない人間の戦い方が分かっていく。それが怖い。いずれ自分が自分ではなくなって知らない誰かに代わってしまうかもしれないことが怖い。怖くて怖くて仕方がない。

 昨日まではそんな事も無かった。よく分からないけど、貰えるものは貰っておこうとか、そんな事を思っていた。

 だが、こうして自分の記憶が消えていくと恐怖を感じてしまう。知らない誰かになってしまう事が怖くて怖くて。仕方がない。ユキという人間が消えて別の誰かに自分が知らないうちになってしまう事が。

 剣を上に放り投げ、片方の剣を血払いして鞘に納めてから落ちてきたもう片方の剣を鞘に納める。


「……怖いなぁ」


 自分が分からないという恐怖。常人なら一生感じることがないであろう恐怖にユキは汗に濡れた体を震わせる。気が付けば太陽は上っており、真っ暗だった宿の裏はいつの間にか日の光に照らされていた。


「こんなのエルリックにも相談できないよ……」

「誰に何を相談できないって?」

「わひゃぁっ!!?」


 変な声をあげてしまった。

 そんな声を上げさせた犯人は今さっき彼女が口にした名前を持つ人間で、彼は自分の剣とタオルを片手にユキを複雑そうな目で見ていた。声色は少しふざけているのに顔は複雑。何ともアンバランスな状態ではあったが、それを指摘するような余裕は彼女にはなかった。それを彼は知ってか知らずか、彼女の声が返ってくる前にタオルを投げ渡した。

 汗を拭けという事なのだろう。小さく礼を言って汗を拭けば、エルリックはそっとユキから数歩程距離をとった場所に立ち、鞘から剣を抜き放った。


――そこまで強くはない――


 自然と彼の強さをその立ち方、剣の握り方だけで判別してしまっている自分が嫌になる。

 自分が自分じゃない。無意識の中にもう一人の自分がいる。そんな感覚は時間がたつごとに徐々に強くなっていき、自分の意識を無意識の自分が蝕んでいくような。そんな気さえした。

 しかし、そんな事を相談なんてできるわけがない。まるで人格の一つを封じ込めているような気分にユキの表情は暗くなっていく。


「なぁ、俺とちょっと手合わせしてくれないか?」

「……え?」


 そんな彼女の表情を見たのか見ていないのか。恐らく前者だろう。見てから、そう言った。

 彼は片手直剣を我流の構え方で構えた。

 刃も潰していない、正真正銘の剣。それをユキに向ける。


「体を動かした方が嫌な事も忘れられるかもしれないだろ?」


 苦笑しながらの言葉にユキは若干呆然とする。

 さっきまでそうしていたのにこんな表情してるんだけど、と言おうとしたが、彼の親切心を無為にするわけにもいかない。溜め息を吐き、タオルを投げ捨ててから双剣を抜き放つ。

 鈴のような音を鳴らしながら一瞬で抜かれた双剣は銀と赤の装飾で太陽の光を反射させた。その光を若干眩しいと思いながらも、少しの懐かしさを覚える。


「……じゃあ、やろうか。悪いけど、あまり手加減は出来ないよ」

「殺さないでくれよ?」

「大丈夫。剣捌きに自信は――」


 ある。

 そう言おうとして唇を噛んで無理矢理に止める。

 違う。ある訳がない。まだこの剣を握って三回目だ。それで剣技に自信があるわけがない。

 自己が塗り替えられていく感覚を覚え、それを歯を食いしばり耐えながら改めて言葉を吐く。


「――あまり無いけど、殺しはしないから」


 それが精いっぱいの言葉だった。

 複雑な表情のエルリックと向き合い、そして動き出す。

 剣筋を結び、エルリックの片手剣を左手の逆手に持った双剣で受け流し、そのままの勢いでエルリックの首に剣を突きつける。


「……嘘だろおい」

「……予想以上に弱い?」

「い、いや、まだだ!」


 まだ死んでないと言って全力で後ろに下がるエルリック。

 ちょっと男の子しているエルリックに、右手の剣の峰で肩を何度か叩き、笑ってしまいそうな気持ちを逃がしながらそっと左手の剣を順手で持って構えた。


「んじゃ、遊ぼっか!」


 一人だと考えてしまった。

 だけど、二人でやるのなら、案外楽しいかもしれない。辛さを忘れられるかもしれない。悔しそうな顔をして絶対に倒してやると大声でほざくエルリックを見ながらユキはにへっ、と笑った。

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