終章 「十年後」

最終話 或る春の日の宵

 その日、私は十年ぶりに、故郷の街に戻ってきていた。

 なだらかな勾配がついた川べりの道を、一人で歩いていた。


 あの忌まわしい事件の反動で、東京の大学へと進学した私は田舎の名門女子校卒という周囲に押し付けられた清楚なイメージを脱ぎ捨て払拭するかのごとく乱倫の限りを尽くし怒涛の青春時代を終え、就職してからも職場の子持ち上司と泥沼の不倫関係に陥り仕事を止めざるを得なくなり今こうして半ば自棄になって酒缶片手に夜の河原を逍遥しょうようしているというわけだ。

 

 ……嘘だ。

 今の、ただの妄想だ。

 そんなことは全くなかった。


 今の私は至って普通の生活を送っている。相変わらず朝は苦手だけれど、それでもちゃんと会社にはいくし、可もなく不可もない生活を送っている。

 まあ、あの事件の余波は相変わらずだけれど……。


 人への警戒心はあの一件以来、更に酷くなってしまっていた。


 その罰と言うべきなのか、人と深い関係になることを避けるからか、流石に自分でもどうかと思うのだけれど、この年で未だに異性経験もなく、ただ寂しく夜に一人散歩をするアラサー女だ。


 自虐でもしていないとやっていられない。


 あの夜、私は夢を見ていたのかもしれない。過去と訣別するための夢。朦朧とした意識で、警察や関係者にも力説したのだけれど、あの場にもう一人男の人がいて私を助けてくれた、なんて言っても可哀想な子を見る目で観られただけだった。跡形もなく消えてしまったけれど確かにいたんだと言ったら、余程怖い思いをしたのだろう、と抱きしめられた。あの事件以降何故か仲良くなった法条さんには「麻里亜ちゃんのお姫様願望には参っちゃうね~~」なんて言われたりした。……そんなにか?


 夢だったのかもしれない。絶体絶命の窮地に現れた、格好良い男の人。誰だったのかは分からずじまいだけれど、私が誰かに祈るとすれば、きっと彼に対してだけだ。


 天の上にいる、彼の—―――

 

 とにもかくにも、これだけは言える。十年前、私はあの夢の跡地で、一人の格好いいい男の人に命を救われたのだ。女の子なら誰もが憧れる救われ方で。

 

 それでも。

 あんなに劇的な救われ方をしたのに、

 その後の人生は—―意外と普通だった。


「そりゃアニメや漫画のように都合よくいかないか」

 だってだもの。

 初めて口にした言葉のはずなのに、不思議と既視感デジャヴを覚えて、懐かしい気持ちになった。


 あれから十年が経った。

 何かに没頭し忘れるように勉強に打ち込んで、逃げるようにして京都の大学へ進学し、こうして故郷に戻るまで、十年。


「色々と無茶したよねぇ……」

 

 理系から強引に文転して。

 東京ではなく京都。

 色々なことを変えてみた。


 きっと、あの場にあったに逆らいたかったのだ、私は。


 大学の法学部では犯罪学を勉強して、逸脱行動論で卒論を書いた。少なからず、あの夜の凶行が恐怖として残っているのだろう。あれだけの狂気に人を駆り立てた犯罪とやらに対して、克服意識を持ったのかもしれない。とにかく大学の四年間は研究に打ち込み、大学院にも進んだ。博士課程には行くのは諦めて就職し、今では立派(?)な社会人というわけだ。


 怒涛の時代だった。天城さんや連城さん、紗希さんには悪い事をした。大学進学以降は地元には一切帰らずに、ふさぎ込んで、目を背けて、自分勝手に逃げるように、一方的に関係を断ち切って生きてきたのだ。

 連絡を取り合っていた法条さんも、結婚し専業主婦となって以降は、疎遠になってしまった。

 

 まあ、学生時代の友人なんてそんなものだろう。

 残酷なようだが、それで正しいのだとも思う。

 いくら居心地が良かったのだとしても―― 

 いつまでも、同じ場所にはいられない。


 舗装された遊歩道を、ゆっくり歩いていく。頬を撫でる風が柔らかく心地いい。桜の花弁は空を舞い、その中のいくつかは川の流れに乗って運ばれていく。見上げるとまん丸に綺麗なお月様。その周囲を彩るように、散りばめられた星の欠片。

 全てが調和し合って、春を奏でていた。

  

 春宵一刻値千金しゅんしょういっこくあたいせんきんなんて昔の人が言った言葉も不思議と信じられるような、そんな美景びけいだった。

  

 ふと、川の近くのベンチに誰かが座っているのが見えた。その後ろ姿に何処とない郷愁感を覚えて、私は近づいていった。


「私のことを覚えていますか」

 恐る恐る、訊ねてみる。


「えと……三神、麻里亜さん?」

 間の抜けた声で、かつての初恋の相手は頭を掻いた。

「戻って来たんだね……。全然連絡くれないからさ、ちょっと寂しかったよ」

「はい、そうです。真琴さん、全然変わってないですね」

「そう? 自分では結構変わったと思ったけどなあ……」 

 彼は申し訳なさそうな表情を浮かべ、手に持ったビールの缶をベンチに置いて、大きく伸びをした。

「色々あったよねぇ……」

 そう言って伸びをする彼の左手の薬指には指輪がしっかりと嵌められていた。


「十年経ちましたもんね、色々とありますよ」

 私は意識をそらすように、口にした。自分に言い聞かせるように。

「天城さん、お子さんは?」

「いるよ。下の子は四才だね、今が一番可愛い時だって。それから来月にもう一人」

 ということは今の私の年齢のときにはもう……。

 昔の古傷に、完全に止めを刺された感じ。


 私は心の中で小さくため息をつき、十年前の未練に漸く一つの区切りをつけた。


 それから取り留めもない話をして、どちらから切り出すでもなく、

「さよなら」

 と言って別れた。

 またね、ではなく、さよなら。きっともう二度と会うことはないだろうから。

 

 恐らくそのとき私ははじめて、

 ちゃんと失恋できた、のだと思う。


 仕方ない、仕方ないのだ。

 もう終わってしまったことなのだ。

 自分で選択した未来の結果なのだ。あの事件の後、彼の優しさにほだされてもいいはずだった。周囲の助けを借りてもいいはずだった。でもそうしなかった。私は私の意志で、殻に閉じこもることを選んだのだ。自分のせいでも、誰のせいでもないのだ。きっと、巡り合わせが悪かったのだ。


 でも、こんな夜くらいは。

 こんな過去を突き付けられるような夜ばかりは。

 誰かに祈りたくなっても、

 いいだろうか…………。

 

 ――――神様


 


 天の上にいる「誰か」に、手を合わせた。彼は何処かさびしそうに笑って、でも私のことをどこかで見守ってくれているはずだった。私はあのとき、彼に確かに言ったのだ。生きたい。そして、幸せになりたい、とも。


 変わっているような、いないような、そんなありきたりの毎日。


 誰かの恩寵で続いていくような、麗しき儚い日々。


 私の場合華やかさには欠けるけれど、まだまだ続きは長い。

 寧ろ、まだまだこれから。


 どうか、いつか終わるその時まで、平穏な日々を。

 そして願わくば、こんな私にも一抹の希望を。



 時間は流れていく。

 物語は続いていく。



 私は零れ落ちそうな涙を堪え、たった一度だけ来た道を振り向いてから、また歩き始めた。



                   『Desire/Disaster』 END



                    2018.4.28~2021.7.1 雪本つぐみ

           

 

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