Ep.40-3 最後の笑顔
全てが終わってしまった後のような、長い静寂のあと。
「鷺宮。君は逃げろ」
か細い声で、連城恭助はそう口にした。かつての傲岸不遜さはない。神をも恐れぬ大胆不敵さも、ない。
「長い茶番に付き合せたな。……すまなかった」
連城は繰り返す。
「……本当に、すまなかった」
彼には似つかわしくない、真摯な謝罪。
「二十年ほど、言うのが遅い。いつだってそうだ。お前は何でもかんでも、遅すぎるんだよ……」
紗希は目線を下げてから、
「いつもの軽口はどうした。腑抜けた顔をしてないでとっとと立て! まだ、何も終わってはいないだろう! いいのか、このままで、ここで終わって、お前は――」
「鷺宮、頼む」
紗希の叱咤を遮り、連城は顔を上げる。
透徹とした瞳。言葉はなくとも、彼の思考の断片が、確かに流れ込んでくる。
「これは君だけのためじゃない。僕のためさ。忘れたのかい? 君が死んだら、僕も死んでしまうんだよ」
僕が消えては、天城君の権能も効力は消える。鷺宮、君の権能もだ。
……最後の頼みさ。僕にも少しくらい、格好つけさせてくれ。
紗希は暫し瞑目し、連城の僅かな意志をしかと汲み取った。
「変わらないな、お前は。本当に……変わらないよ」
紗希は無言で踵を返しかけ、半身を捻って正面へ向き直ると、照準も見ずにやおら発砲した。三つの弾は過たず、八代みかげへと命中した。
鷺宮紗希の権能『
一弾目で『対象の居場所の感知』、
二弾目で『対象がAに対し攻撃を加えた場合、Aの有する権能の効果を対象に強制的に適用』、
三弾目で『対象の有する権能の一度きりの無効化』。
この街で開催された歪な殺人ゲームを少しでも封じこむための、この街を守る彼女なりの矜持が反映された、婉曲な牽制だった。
「思いのほか、長い付き合いだったな。さよならだ」
腐れ縁へそう告げ、紗希は月のホールを去っていく。
「君といると退屈しなかったよ、鷺宮。さようなら」
旧友の後ろ姿に、連城は掠れた声で投げかけた。
甘い言葉など必要はない。
紗希は一度も振り返らず、ホールを辞去した。
◆
「年貢の納め時だよ、連城。君はここまでだ。いっそ潔く自害でもしてみるかい?」
八代みかげは微笑み、目の前の男を見つめ……唖然とした。
「……何がおかしい」
笑っていた。目の前の男は。ただ死を待つしかない身だというのに。それでも男は、いつものように、態度を崩さず佇んでいた。
「いや……すまない。なかなか、面白い言葉を聞けたと思ってね。この僕が自害か、くく……」
勝算などあるはずはない。みかげは苛立ちを気取られぬよう、再び告げる。
「まさか、「殺されない」とでも思っているんじゃないだろうね? この状況を打開できる腹案が、人形風情にあるとでも?」
みかげが指をわずかに払うと、連城が立っていた真横の一帯が、落盤事故かのように抉り取られた。空間そのものが意志を持ったかのような、容赦のない暴力。
「ああ、そのくらいで良い。僕にはもう、わかっているよ」
攻撃にも動ぜず、連城は呟く。
「自らの運命を受け入れたのかい」
みかげは不審げに問う。
連城は解を告げる。
「僕の身体には既に鷺宮の銃弾が三発、埋め込まれている。先程の君の迂闊な発言。僕のこれからの行動。それがどういう意味か、わかるね?」
連城は懐から銃を取り出す。グロック17。銃口を自らの蟀谷に押し当て、迷いなく安全装置を外す。あと数瞬後には、彼の頭部を9㎜弾が射抜くだろう。
「『
「待て。何のつもりだ」
静止は遅かった。
「いっそ潔く自害でもして、と、僕に命じたのは君だ」
僕を殺すのは紛れもない君だ。
連城は引き金を引き、二度目の死の縁へその身を投じた。
三発目によって八代みかげの有する権能を一度だけ無効、そして二発目によってみかげへ強制的に付与された『盤上の標的』の効力が、連城を攻撃、即ち自殺を教唆した他ならぬみかげ自身へ跳ね返る。間もなくその全身を、『第三の銃声』が跳ね回り、縦横無尽に切り裂いていく。憤怒。困惑。焦燥。少女の表情は次々と移り変わり、やがて死を恐れるだけの、か弱い少女のような面影をほんの一瞬のぞかせて――けれど、細やかな反抗はそこまでで終わった。
「やれやれ、まさかこんな下らない場面で、使う羽目になるとはね」
飽きれ交じりに呟く彼女の身体は、見る間に再生し始める。紗希の銃弾も連城の自殺さえも、初めから虚構であったかのように塗り替えられていく。
「その、権能は……」
死から立ち上がり、茫然と疑問する連城は、今度こそ二の句が継げなかった。
「切り札とは隠し持つものなのさ、人形くん」
連城は、ただ、立ち尽くしていた。
自分という一番の真実から目を逸らし反らし続けてきた。
贋者が本物に適う道理などないことなど誰よりもわかっている。
今から自分が採る行動が、ただの無謀な特攻に過ぎないのだとしても。
この思考さえも、誰かに作られた偽りの感情に過ぎないのだとしても。
これまでの人生の全て、積み重ねてきた何もかもが、目の前の少女に設計された偽りの時間に過ぎないのだとしても。
今、ここでこうして立っていることは紛れもない彼自身の意志だ。
彼は恐らく、これまでの十数年の人生において、初めて心の底から恐怖して。
同時に、確かな感歎を覚えてもいた。これまで死んでいった、多くの人間たちに。
先に散っていった彼ら彼女らは、こんなものに耐えていたのか。
こんな、底抜けの淋しさと恐怖に。
自己という何より偽りない存在との、正直な対話に。
凄いな。ああ、凄い。
人とは、こんなにも頑張れるものなのだろうか。
最後くらいは、自分も……そうなれるだろうか。
足が根元から震える。膝が笑う、とはこういう状態を言うのか。思わず自分まで笑ってしまう。笑いたくはないのに。本当は怖くて仕方がない。勝てる道理などない。
それでも踏み出さなければならない。
これまで蔑ろにしてきた全てのために、
彼は今、この一瞬を生きると決めた。
だから連城恭助という虚構は、ほんのわずかな一瞬だけでも、
たとえ目指した結果に届かなくとも、
それは純然たる――彼の意志が生んだ彼の行動だった。
「お前の負けだ、連城」
少女は言った。
「ああ。そのようだね」
人形は答えた。
「これで満足か? こんな形だけの無様な敗北が、君の末路か? 所詮は操り人形、糸が切れれば役目は終わる。お前は最初から最後まで、私の
嘲笑うように言ってから、みかげは何処かふと寂しげに、
「最後の愚かな反抗以外はね。なんだい、あれは」
連城はふっと笑って、彼女へ告げる。
「お褒めに預かり光栄だ。××××、……さん」
最後に試みようとした細やかな叛逆も、音にならずに消えた。真実は彼の心中に蟠った。彼はいつもいつだって遅すぎるのだ。哀れな少女へ真実を告げるのを躊躇した優しさゆえに、彼は完膚なきまでに目の前の黒幕に敗北を喫したのだ。
身体の真中を刺し貫かれ、生命活動の終りが近いことを感じ取りながら、連城は仰向けに絨毯の上に倒れ伏した。
年季のある闇を孕んだ天井さえも、何故だか温かさを感じられる。
既に恐怖はない。痛みも感じない。不思議と安らいだ気持ちだった。
自らという存在の消滅ですら、他人事のようにしか感じられなかった。
人は死自体を恐怖しているのではない。死に至るまでの過程を恐れているのだ。
誰だったかが、そんなことを言っていた気がする。
これまでの過程が絶望的に不足している彼は、結果を嘆くだけの理由がなかった。
あと一歩……。あと一歩、足りなかったようだね。
跫音もなく去っていく少女の姿を視界の僅かな振動として捉えながら、連城は口の端を噛んだ。
それは……たとえ僅かでも、悔しかったから、なのだろう。
彼はこれまでの自身の経験からは表現し得ぬ奇妙な感情に戸惑い、溜息をついた。けれど抜け殻のような人生を送ってきた彼に、そんな感情を表現する術はなかった。
あらゆるものを裏切って生きてきた虚像は、最期は自分自身によって裏切られる。
鏡の向こう側の世界はとうに崩壊していたのだ。
言ってしまえばそれだけのことだった。簡明にして簡素な結末。
……何とも相応しい幕切れだ。
ここまで破綻しているとはね、と彼は内心で小さく笑った。
脳裏には、これまで裏切ってきた数々の人々の姿が去来する。
三神麻里亜。
天城真琴。
鷺宮紗希。
如月葉月。
早乙女操。
法条暁。
……六道やよい。
そして他ならぬ……自分自身。
数えきれないほどの生。贖えきれないほどの命。
空虚な人生だった。
ともあれ、観客は去った。
舞台には自分一人だけ。
もう演技の必要はないのだし、どうせなら最後の数瞬くらいは、幕が下りるまでのほんの一時くらいは。
せめて何か意味ある思考を紡ごうと、死の酩酊の中で彼は決めた。
ああ……そうだ。
助手が別れ際に言っていた、人生の大切な一瞬とやらを探してみるとしようか。
丁度ここにこうして煙草もあと一本残っている。吸い終わる頃は、この無為な思考も掻き消えているはずだ。
荒い呼吸で、コートのポケットの底から煙草の箱を探り当てると、連城は今際の際に芽生えた発想の間抜けさに思わず唸った。
五分。それが自分に残された最後の時間だ。長すぎもせず、短すぎもしない、今の状況においては理想の時間だ。
空っぽな生涯を振り返るには、五分ぐらいが丁度いい。
そう考えて連城は、灰色の回想の渦に沈み始めた。
色褪せたモノクロの映像が、一昔前の無声映画のように現れては消えていく。浮かび上がっては消えていき消えてはまた入れ替わりに現れる。その繰り返しだった。
ない。
……ない。
……………ない。
ないじゃないか。そんな瞬間は、何処にも。
我が助手は、あの調子の良い若造は、最後の最後に嘘をついたのか。この僕に。
連城は束の間そう思考し、煙草に火を点け、一度だけ深く吸って、吐き出した。
もうやめだ。気紛れなど、起こすものじゃなかった。
広がっていく血だまりの中へ、煙草の先端を落としかけたそのとき、
一つの光景が、鮮やかな色を伴って彼の心象風景へと浮かび上がってきた。
手狭な事務所で、テーブルを囲んでいる四人。焙煎したばかりの紅茶の香りが室内を満たしている。交わされる当たり障りのない言葉。身内の進学先や優れた推理小説の条件、学生時代の取るに足らない出来事。そういった他愛もない言葉。
傍らには悪戯で揃えられた奇術セットの一式がある。床には大量の疑似血液がぶちまけられている。
全てがつくりものかのような光景の中で、誰もが笑っていた。
その後に待ち構えている悲劇など考えもせず。
ただ、無邪気に。そのときを生きていた。
思えば四人があの場に居合わせたのは、あれが初めてではなかったか。
時間にしては三十分ほどの、けれど思いゆくまで語らった、夢のような一時……。
愉快だ。ああ……愉快だ。
自分の人生にも、そんな一瞬があったのか。
最後の瞬間に思い出すに足る、大切な記憶が。
「ああ……よかった」
そうして口許に何処か満足げな笑みを滲ませ、
生涯最初で最後の仄かな安寧を抱いたまま、
探偵は舞台から降りた。
ゆらゆらと、揺らめいて、円を描くように。
彼が最後に吐き出した紫煙がいつまでも消えずに空を漂っていた。
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