第一章 「三神麻里亜の五日間」

一節 「邂逅」

Ep.1-1 かくて少女は悪魔と出逢う

                

「運命は我らを幸福にも不幸にもしない。

   ただその種子を我らに提供するだけである」

                 『エセー』モンテーニュ




 三神麻里亜みかみまりあは無神論者だった。その名に聖母を冠するにも関わらず。

 神や宗教だけでなく、幽霊や天使、霊魂などと言った概念にも懐疑的かいぎてきで、彼女にとって信じられるものはただ一つ、彼女が見ている「現実」だけだった。

 だから、そんな彼女が「彼」に出会ったのは、運命――いや、宿命だったのかもしれない。


 地上二十八階のマンションの窓の向こうに、青年が浮遊している。

「はじめまして。僕はネヴィロス。神が天上から遣わした悪魔の一体だ」

 初めは幻覚か、あるいは質の悪い悪夢かとも思った。悪魔だけに。

「突然だが君に頼みがある。僕と契約して共に神の座を目指して欲しい」

 次に疑ったのは新手の悪戯いたずら、若しくはあれだ、下らないテレビ番組の撮影。だって、あまりにも唐突過ぎて、あまりにも現実感がない。そんな彼女の胡乱うろんな思考とは裏腹に、悪魔と名乗る青年はひどく落ち着いていた。それが更に麻里亜の動揺を掻き立てる。

「わ、私何か悪いことしましたか? 魂を取られちゃったりするのでしょうか?」

 恐る恐る訊いてみる。

「いいや、そんな悪いことはしてないよ。それどころか君はかなり恵まれているよ」

 一呼吸おいて悪魔は続けた。

「何せ、僕と契約すればどんな願いでも叶えられるのだからね」

「……どんな願いでも?」

「ああ。何だって良い。一生使いきれない程の財産でも、君を心から愛してくれる恋人でも、死んだ人間を生き返らせるでも。ただ一つ重要なのは、君が心からそう願っていなければ、自分の願いをはっきりと理解していなければ、実現しないということだ」

 麻里亜は黙って悪魔とやらの語る話を聞いていた。

「例を挙げるなら、『永遠の命』なんていうのは駄目。たとえ君がそう願ったとしても、君は『永遠の命がどういうものか』を知らないだろう? 一方、同じ無理難題でも「死人の蘇生」なら君が対象をはっきりと記憶していれば実現できる。最も、蘇った死者はあくまで「君が捉えた生前のその人」の再現に過ぎないけどね。願いというのはいわば、本人が目指すべき、到達可能な指向性に過ぎない。君が想定できる、想像できる範囲のことだけしか実現できない」

「ふーん、意外と不便ですね。そりゃアニメや漫画のように都合よくいかないか」

 麻里亜は少し意地悪く返した。彼女は不思議と今のを楽しみ始めている自分の存在に気付き、内心驚いていた。

「契約してもいいですよ」

 どうせ夢か幻覚だし、面白そうだから。

「でも、私に叶えたい願いなんてないですよ、ネヴィロスさん」


 悪魔は少し面食らったのか、数秒押し黙った後、反論する。

「そんな筈はないよ。どうしても叶えたい、叶わければ死んでもいい、その位の強い願いを持った人間にしか悪魔は見えない。君には必ず強い願いがある筈だよ」

「ないです」

 今度こそ麻里亜ははっきりと否定した。

 これが五年前だったらな――、机の上の写真たての中で笑う、幸せそうな家族を眺め、麻里亜は物思いに耽った。

 トラック運転手の居眠り運転だった。麻里亜の両親と兄は一瞬にしてトラックの積み荷の下敷きになり、灰だか骨だかよく判らないものになってしまった。奇跡的に助かった運転手を恨むこともなかった。劣悪な労働環境で家族を養うために必死で働いていて、事故を起こした時には丸三日寝ていなかったらしい。怒りや憎しみの代わりに彼女の心を埋めているには、ただやり場のない虚しさだけだった。まるであの日両親と兄が家を出た時からずっと夢を見ているかのよう。すぐ帰ってくるからね、と言って永遠に帰って来なかった家族。一人残された私は、一体どこへ行けばいい?

 麻里亜は深く深呼吸し、返答した。

「やっぱり契約はいいです。確かに魅力的な話ですけれど、私よりもっと有効活用出来る方と契約して下さい」

 悪魔は残念そうに俯いた。

「分かったよ、でも君の気が変わるかもしれないし、たまに様子を見に来ていいかな」

「気持ちは変わりません、けど、見に来るだけならいいですよ」

 麻里亜はそっと目を閉じ、現実ゆめの終わりを待った。

 悪魔と名乗った青年は目を開けた時にはもういなくなっていた。後にはただ、夏とは思えないほどに冷たい空気だけが残っていた。


 叶えたい願い――。

 麻里亜は床に就きながら、心の奥底をゆっくりとすくい上げたが、願いらしきものは何も引っ掛からなかった。

 私の願い――。

 願いがないことは、果たして不幸なのか。叶えたい願いがない。それは言うなら、現状に満足とは行かないものの、現状を維持することには納得していると言えるだろう。

「私は、これでいい」

 そう呟いて、麻里亜は眠りに落ちた。


       ◆


 七月二十四日、午後十一時四十四分。麻里亜の許からネヴィロスが去ったのと同時刻、街のあちこちでは目覚めていた。

あるものは深い森の中で、またあるものは高くそびえるビルの頂で。

 期限リミットは四日後。それまでに――。

 

       ◆


 準備は整った。後は駒が揃うのを待つだけ。

 永劫えいごうとも言える常闇とこやみの中、はただ一人己と対峙していた。

 ――すべてはこの時のために。また、この場所で君と出逢う。

                  

               

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