第9話 我儘と子供

 俺の父と思しき人物が「また来るよ」と言ったのは、また病院にくるよ、と言う意味だと思っていた。しかしそれは違ったみたいで、次の日の放課後、男は校門の前にいた。

 男は俺を茶店に誘い、俺が曖昧な返事をしていると、強引に連れていかれてしまった。


 俺はまだ、この男との距離感に戸惑っている。だから黙って、連れていかれることしか出来なかった。

 喫茶店は何度か見たことがある店だった。この町に古くからあって、子供の頃からその存在に気づいてはいたが、一度も入ったことはなかった。


 喫茶店の扉を開くと、風鈴のような音が鳴り、深いコーヒーの匂いが鼻に広がった。俺は初めての匂いになんだか鼻をむずがゆくさせた。

 窓際の席に座り、水を持ってきた店員さんに、男はコーヒーを注文した。俺はこういう店でなにを注文すればいいのか分からなかったので頼まなかった。どうやら男には気を使っていると思われたみたいだ。


「昨日の話は考えてくれたかい?」

 男はそう聞いた。何も考えてなどいなかった俺は戸惑い、口ごもった。


 男が差し出す金を、なぜか俺は受け取りたくないと思ってしまった。

 そのなぜかに、俺は答えを見つけることが出来ていない。依然として謎のまま、目の前の男は答えを求めていた。


「まだ分かりません。俺は受け取りたくないと思ってしまった。でも、そんなこと子供の俺が決めることではないのかもしれません」


 迷いは思考を鈍らせ、弱気な発言を導いた。俺はもう、どうしたらいいのか分からなかった。


「そうか、そうだよな……」

 男は申し訳なさそうに俯いた。

「これは、もしよければの話なんだが――一緒に暮らさないか?」


 男は少しどもりながら、緊張を露わにしながら言った。話の飛躍に俺は戸惑うばかりだった。そもそもなぜ、男はこんな話をするのだろう。そんなこと俺に決められるはずがない。


「過去のことは水には流せないと思う。だからこそ、これからはお前の為に尽くしたいんだ。それにその方が、雪子も楽になると思うんだ」

 

 そりゃそうだ。俺みたいな子供を、一人で育てている今の状況を、これ以上続けることはできないだろう。

 けれど、それでも、俺はどうにも納得がいかなかった。

 納得なんてできるはずがない。


 でも、その理由もまた、俺には分からなかった。答えを求めても、それが見つかるとは限らない。一生続く悩みというのも、人生にはあるのかもしれない。

 そのあと、少し近況を報告した後、電話番号のメモと千円札をテーブルに置き、男は去って行った。


 俺は軽々と置かれた千円札を見つめて、お金のことを考えていた。この紙切れがあるだけで、人の生活は楽になる。日本銀行券と呼ばれるこの紙切れは時に人の幸不幸を左右する。


「そんなことはないよ。そんなものの数で、どうにかなったりはしないよ」

 

 一人俯き悩んでいると、いつの間にか目の前に翠が座っていた。幻覚だろうか?

「ところがどっこい現実だよ。あ、すいませーんイチゴパフェください」


「その金は誰が払うんだ?」

「ここにあるじゃない。臨時収入の千円が」


 その後、運ばれてきたパフェを食べて、翠は幸せそうに笑った。金で幸せになってんじゃねえか。


「それでどうするの?」

 頬にホイップクリームをつけたまま、俺の顔をぎろりと睨んで言った。

「何が?」

「誤魔化さないでよ。全部聞いてたんだから」


 俺は溜息をついた。世界のどこで内緒話をしても、こいつは近くで聞いていそうで怖くなった。


「分からない。俺には答えを出すことは出来ない。俺の我儘なんて通せるはずもないんだから」


 もしかしたら、答えは出ているが、それを言うべきか迷っているだけなのかもしれない。


「和くんがどうしたいかだよ」

「俺に全てを決めろって?」

「子供は我儘も言うものだよ」


 俺は理解できない翠の言い分に、俺はまたも溜息をついた。


「それに、俺がいなくなった方が、母さんも幸せかもしれない」


 衝撃が、頬に走った。びりびりと電流のような痛みが続き、俺は頬から手が離せなかった。


「そんな馬鹿なことを言うなんて、本当に馬鹿なんだね。普通になったら引っ叩くって言ったけど、そんなの待ってられないよ」


 俺は何をされたのか理解できないまま、怒れる翠をただ見ていた。

 激しく、感情のままに、自分の在り方を世界に示していた。いや、そんな格好の良いものではないか。ただこいつは、我儘なだけなんだ。


 我儘で、自分勝手で、嫌なことを許せない。


 翠は俺に意志を示すと、どたどたとみっともないがに股を晒して去って行った。


 なんだこの店は?俺に意見を言っていなくなるのが礼儀なのか?


「もしそういう店があるのなら、ぜひ行ってみたいものだがね」


 美瑠子は学校帰りに立ち寄ったようで、ジャージ姿にスクールカバンを引っ提げていた。


「その店では君の頬を引っ叩くことが許されているのだろう?」

「許されているわけねえだろ」

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