第8話 100万と父

 俺は飛行機に乗ったことがない。どうやら高校の修学旅行で乗るみたいだから、それが人生で最初の搭乗になるだろう。


 しかし、俺は子供頃に飛行場で滑走路を飛び立つ飛行機を見たことがある。


 夏の暑い日のことだった。滑走路のコンクリートが陽炎で揺らめき、飛行機のタイヤを歪めていた。母さんは四歳の俺を右手で抱っこして、左手で額に浮かんだ汗を拭っていた。


 確か、母さんは花柄のワンピースを着ていた。淡い色をした朝顔がプリントされていたのを覚えている。

 母さんは生まれて初めて飛行機を見て興奮している俺を見て、悲しげに微笑んだ後、飛び立つ飛行機を見て、一粒の涙を流した。


 右目から流れた、たった一滴の雫。それを俺は今でも覚えている。


 その日から母さんは、その花柄のワンピースを着なくなった。お気に入りだったはずなのに、押し入れの奥に仕舞い込み、取り出すことはなかった。


 たった一粒、たった一雫に、母さんは全ての悲しみを込めた。


 その悲しみの原因が、飛び立った飛行機に乗っているのではないかと思ったのは、中学生になった時だった。

 でも俺は聞かなかった。母さんが悲しんだ思い出を、わざわざ掘り返したくなどなかったから。俺は母さんがいてくれればよかった。だから、裏事情も隠された秘密もどうだってよかった。


「あの、聞いているかな?」

 目の前の男は、戸惑った笑みを浮かべてそう言った。俺は我に返り、男と目を合わせた。少し痩せていたが、身に着けている腕時計などの装飾品と、きっちりと決められた髪型からどことなくお金の匂いがした。


「そうか、雪子はなにも話していないのか……」

 残念そうに男は言った。自虐的な笑みが印象的だった。


「じゃあ私の口から言うべきではないな。でも信じて欲しい、私は君の父親なんだ」


 翠は売店で買ってもらったチョコレートを食べながら「確かに似てるね」と言った。


「雪子には本当に申し訳ないことをしたと思っているんだ。勿論君にもね。数年前から連絡を取って養育費だけでも払いたいと申し出ていたんだが、雪子は受け取ってくれなくてね」


 翠は売店で買ってもらったじゃがりこをぼりぼりと粗食しながら、俺にも一本差し出してきた。買ってもらいすぎだろ……。


「私を恨んでいるならそれでもいい。とにかく今は力添えをしたい」

 男はビジネスカバンから封筒を取り出した。妙な厚みを持った封筒は、嫌な雰囲気を出していた。


「百万円入っている。雪子の為に使ってやってくれ」

「ひゃ、百万!?」

 翠はじゃがりこの空箱を握りつぶし、謎の興奮を見せた。


 俺は何も言えないまま、ただ俯いていた。

 俺は、この金を受け取りたくないと思っていたからだ。


「ごめんなさい。和くんは今悩んでいるみたいだから、今日は帰ってください」


 翠は俺の意見も聞かず、頭を下げた。


「あなたは良い人だと思います。あなたの言葉は真実だと私は思いました。でも、和くんが悩むなら、このお金は受け取るべきではなないです」

 翠は封筒を男に向かって突き返し「今日は帰ってください」と言った。


 男は悲しげな笑みを見せ、「分かった。また来るよ」と言って出て行った。


「どうしてあんなことを言った」

 残された俺と翠は病院のロビーに取り残され、翠はたけのこの里を食べながら答えた。


「だって、気に食わないもの。突然出てきてお金を払うなんて。お金なんて、どうでもいいもん」

「どうでもよくない!」


 俺は思わず叫んでしまった。ここが病院だということも忘れて、惨めにも声を荒げた。


「だったら、どうしてすぐに受け取らなかったの?」


 俺は、答えられなかった。

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