なぜ母の焼くクッキーは焦げているのに上手いのか

第1話 クッキーと母

 小さい時のことを、俺はぼんやりとしか思い出せない。気が付いたらあの団地に住み、母の背中を眺めていた。


 けれど、そんなあやふやな記憶の中ではっきりと覚えていることがある。

 母が焼いたクッキーの味だ。理由は忘れたが、悲しくなって泣いていた時、母がクッキーを焼いてくれた。今でこそ母の料理の腕は達人級だが、最初は酷いものだった。

 だからその日焼いたクッキーも茶色く焦げて、ほろ苦いものだった。

 なのに、あれほど食べて嬉しくなる食べ物を、俺は他に知らない。あの苦く、不味く、舌にのせると火傷してしまう焼き立てのクッキーを食べただけで、この世の嫌なことが全て幸せなものに変わった。


 なぜ母が俺を引き取ることになったのか、詳しい事情を俺は知らない。知るべきではないと思ったから、聞くべきではないと思っていた。

 そんなことをすれば、母が傷つくと思っているからだ。そんなことは、俺と母さんの間には不要なんだ。だってあの日、母さんが母さんになった日から、血の繋がりなんてどうでもいいと思えているから。


 なんでこんなことを思い出すんだろう。さっきまで美瑠子と幽霊の話をしていたのに。

 なんだか思い出すことさえ気恥ずかしくて、そっと心の奥底にしまっておいたのに、急に今――思い出した。

 ああ、そうか、突然翠が教室に入ってきて、なにかを叫んだからだ。

 えっと、何を叫んだんだっけ?


「おばさんが病院に運ばれたの」


 目に涙を浮かべ、息を切らし、綺麗にセットされていたはずの髪も乱れ、今にも崩れ落ちそうになっている。

 

 俺は美瑠子からヒントを聞き出すことも忘れて、走り出していた。

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