第11話 本心と夢
遠い昔、まだ俺が影も形もなかった頃、とある男女が出会った。
果たしてその男女がどういう性格を持ち、どのような価値観を持っていたのかを俺は知らない。それは俺の両親だったりするのだが、知りたいとは思わない。
一体どんな経緯を経て、今の母さんが俺を育てることになったのかも、俺は知りたいとは思わない。
そんなどうでもいいことに、時間や労力を使いたくない。
でも、そんなどうでもいいことは、俺を恋愛嫌いにさせている。女子との交流は勿論、それに付随して男子との交流も控えめになってしまっている。
まあそれは、友達が少ないことの言い訳に近く、みっともない言い分だと思うこともある。けれど、それが俺の心を鈍感にさせていたと考えれば、翠に対する恋心に気づかなかったことにも説明がつくと思った。
俺を心配して泣いてくれた時から、幼い時から、俺は翠が好きだった。なのに、今日の今日まで俺は気づかなかった。その鈍感を超えた、超常現象とも言える俺の間抜けさには、そういった言い訳のような説明を付けないと、自分がどうしようもない馬鹿に思えてしまう。だから、俺は必死になって説明を考え、自分の中の尊厳を保とうとしている。その犠牲が、俺を捨てた両親へと向かっているのだろう。
今まで恨んだことなど一度もないが、今日初めて、俺は自分を間抜けと思わないために両親のことを恨んでみたのだ。
けれどやっぱり、しっくりこない。
見たこともなく、知りもしない男女のことなんて、やはり恨みようがない。
そうなると、両親を恨んでみたりしたのは、俺の心が矮小だからなのだろう。心が小さく、懐が狭いから、恨む理由もない人を自分が間抜けなのはお前たちのせいだと恨んでしまった。
そしてそんな思考は、余計に俺を憂鬱にさせた。
間抜けなだけでなく、器も小さいだなんて……。恋心の発覚と引き換えに、俺は溜息をついた。
友達も少なく、頭も悪い。だから恋心に気づかなかった。結局はそんな結論に至った。
今までほとんど考えたこともない両親のことを引っ張り出しておきながら、結局はそこに収まった。
そんな風に馬鹿だから、俺は翠に惹かれたのだろう。
こんなどうしようもない俺だから、弱くても、力がなくても、誰かの為にその小さな手を伸ばす彼女を――好きになったんだ。
だとしたら、俺の間抜けなところは、そんなに嫌いになるべき部分ではないのかもしれない。翠を好きになれたことは、十分な報酬だと言えるのだから。と、自分の短所を棚に上げ、都合よくそう捉えてみた。
「変わろうか?」
自転車の後ろに乗る翠が、優しい声でそう言った。
「大丈夫だよ」
実を言うと大丈夫などではなかった。体力の無い俺は既に疲弊仕切っていて、いつもより重いペダルをこぐのはかなりの苦痛だった。
それでも大丈夫だと言ったのは、惚れた女に良いところを見せたいという、単純な見栄だった。なんとも軽薄な言動だと思った。
「いつもありがとう、助けてくれて」
お礼を言われて、俺の口角は不気味に吊り上がった。多分その顔はかなり不気味になっていることだろう。翠に背中しか見えていないのが幸いだった。
「お礼なんていいんだよ。言っただろ?お前は正しいことをしたんだ。いつだってお前は、俺にできない一歩を踏み出す。俺はいつも、お前の後ろをついていくことしかできないんだ」
今まで言うことができなかった、奥に隠れてしまっていた本心が、十数年の時を経て口から漏れ出していた。少し恥ずかしい気がしたが、長い間抑圧されていた言葉は、俺の静止を無視して飛び出していく。
「そっか、嬉しいな。私ね、ずっと和くんは私のそういうところが嫌いなんだと思ってた。だっていっつも、私は和くんに迷惑ばっかりかけちゃうんだもん」
申し訳なさそうに言う翠を背後に感じると、俺の心が軋むのを感じた。
俺の今までの言動や行動が、翠にいらぬ気づかいをさせていたと思うと、申し訳なく思った。
「でもね、それでも和くんは、いつも私を助けてくれるからついつい頼っちゃうんだよね」
背後から聞こえる声によって、俺の口角はまたも吊り上がった。俺は翠にお礼が言いたくて、すぐに口角を元に戻し、声が上ずらないように気を付けながら言った。
「俺は、ずっと嫉妬してた」
でも口から出てきたのは、お礼ではなくて、十数年仕舞い込んでいた本音だった。熟成された何かが、やっと出てこられると羽を伸ばして飛び出してきてしまった。
「お前は俺にできないことを、俺が尻込みして怖がってしまうことを、人に手を差し伸べることが出来るお前を、ずっと妬んでいた」
自分でも何を言っているんだろうと思った。でも、言わなければいけないとも思った。それが、今まで自分の心と向き合おうとせず、逃げ続けたことへの贖罪になると思った。
「瞳を輝かせて、誰かを助けたいと思えるお前は、俺がいかにちっぽけなのかを教えてしまっていたから……」
ずっと抱えてきた重荷を、自分の為にぶちまけた。やっぱり俺は度量が狭く、情けない男だと思った。
「そんなことはないよ」
だけど翠は、俺がぶちまけた荷物を、軽々と持ち上げてくれた。
「だって私は、和くんが助けてくれるから、そう信じているから、私は一歩を踏み出せるんだもの」
俺は、自分の聴覚が正常に働いているのかを疑った。そんな称賛の声が聴けるだなんて思っていなかったからだ。
「小学生の頃、木から落ちた私を助けてくれたでしょ?ほかにもたくさん、助けてくれた。その度に私は、誰かを助けてあげたくなるの」
覚えているのは、俺だけだと思っていた。そんな昔のことをいつまでも記憶に留めておくのは、女々しい俺だけだと思っていた。
でも、翠は俺が言い訳に使ってしまった出来事を、大切な思い出のように語ってくれた。
「私が踏み出す一歩は、和くんがくれた勇気で踏み出すの。だから、そんな風に自分を卑下しないで」
その時の喜びを、幸せを、嬉しさを、感激と感動を、俺は上手く言語化することが出来ない。そんなこと、できるわけがない。
だから俺は、その湧き出た感情を、噛み締め、抱き締めた。
でも俺は、翠の言葉に見合う男ではないと感じる。そこで共感し、納得できるなら、元から翠に嫉妬したりはしないだろう。
だから俺は、翠の称賛に負けない人間になろうと思った。
困っている人がいたら手を差し伸べ、悲しんでいる人がいたら一緒に悲しめるような、そんな人間に――そんな当たり前の人間になろうと思った。
恋心を知ったその日、俺はそんな夢を抱いた。
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