第8話 理想と現実

 俺が住んでいるのは田舎であるこの町の中でも特に田舎臭い場所にある。町外れの山奥に聳え立つ団地群の中の一室だ。

 団地の入り口を開けると、左側にたたずむ郵便受けに何か届いていないかを確認した。そしてスーパーと宅配ピザのチラシを取ってから、薄い金属製の階段を上った。

 そして四階の北側の扉を開けて、中に入った。


 手に持ったチラシをリビングの四角いテーブルに置き、すぐ隣の台所で煮物を作っている母親に話しかけた。


「母さん、明日はシフトだろ?料理なんて俺がするから、休んでろよ」

 母さんはお玉で鍋から煮汁をすくって、小皿に移したりせずお玉に直接口を付けて味見をした。衛生観念はゆるゆるらしい。


「やだ。だってあんたが作ると炒め物オンリーになるじゃん」

 確かに俺のレパートリーは、中華の鉄人かなにかなのかと思わせるようなものばかりだ。と言うと、中華料理人の方々に中華は炒め物ばかりではないとお叱りを受けそうだ。


「それにね、料理をするのは母親の仕事なのよ。時間があるときは、私がやるわよ」

 母さんは少しだけ悲しそうに言った。


 俺は、母さんが時折言う、こういう台詞が大嫌いだった。


 美瑠子には、人には肩書が必要だと言っておきながら、母親だからと言う母さんの言葉を、俺は嫌悪している。

 

 でも勿論、そんなことを口に出したりはしない。俺は少しだけ申し訳なく感じながら、自室に行くだけだ。

 学習机にカバンを置いて、学ランの上着を脱いで椅子に掛けた。なんだか今日は疲れた。


 珍しく早朝に起きて学校に行ったら、美瑠子に変なことを言われ、昼休みにはえらく昔のことを思い出してしまい、最後には嵐がやってきた。


 その嵐から逃げることに必死になり、帰ってきたら、母さんが俺の嫌いな言葉を言った。

 思春期を気取るわけではないが、気難しい年ごろにこんな出来事が連続するのは正直最悪だ。


 特に最悪なのは美瑠子だ。俺があいつを愛しているだなんて、戯言を抜かしやがった。心底腹が立つ。男女平等が浸透しているこの世の中なら、一発殴っても問題ないんじゃないかと本気で考えている。


 そして、そんなことを考えていると、当の本人から着信があった。俺の携帯が名探偵ポワロのドラマ冒頭に流れるオープニングテーマを流していた。

 俺は着信ボタンを押し、不機嫌に「なんだ?」と言った。


『大したようではないんだけれどね、一応伝えた方がいいかなと思ったんだ』

「だから何を?」

 俺は声を荒げて言い放った。これで下らないことだったら、今度こそ言いくるめてやる。未だかつて言葉合戦で勝てたことはないが、今回ばかりは勝てそうな気がする。それくらいの気概が俺にはあった。


『学校近くの公園が見える場所にいるんだが、夜市翠が困っているよ』


 下らねえ――と言いたかった。


 そう言ってやれれば、それが言うことができれば、美瑠子にも俺があいつのことが好きじゃないってことを分かって貰えただろうに。


 でも俺はそれができなかった。


 俺は今日、予見できたことから逃げた。責任を感じる俺がいる。これまで巻き込まれておきながら、今日突然我関せずを決め込めるほど、俺は肝が据わってはいない。


 俺は電話を切って、急いで団地を出た。

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